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第八十八話 魔王

――閉じた瞼の裏を、紫黒の光が焼いた。


(……なにこれ……気持ち悪い……)


転送魔法――。

数百年前に失われたはずの、古代魔法。

どうして――ヴェルネが、それを空気を吸って吐くように自在に使えるのか。


胃がねじれ、喉の奥が焼けるように熱い。

吐き気と恐怖がないまぜになり、視界の端が滲んだ。


ゴ……ゴゴゴ……ゴゴ……ゴ……。

耳の奥で、まだ“あの音”が鳴っている。

――巨人の、足音。


けれど次の瞬間、それは唐突に遠ざかり、

世界から音が――まるで紙に吸い取られるように――消えた。


(……え……?)


やがて――まぶたの裏が、青白く変わる。

冷たい空気が頬を撫で、残響の代わりに“静寂”だけが耳に残った。


瞼を開く――。


目の前に広がっていたのは、王宮と見紛うほどの豪奢な広間だった。


装飾が施された壁に囲まれた石造りの広間。


高座の壁には金糸の紋章が輝く真紅のタペストリー。

その下には、威厳を放つ黄金の玉座。

中央には、古めかしい重厚な長テーブルと椅子。


天井から吊るされた無数の燭台は、どれも青い炎を灯している。

その光がゆらめくたび、白い大理石の床が淡くきらめいた。

けれど、その美しさの奥には、息を潜めたような冷たさがあった。


思わず息を呑む。


(これは……時が止まった古の宮廷に迷い込んでしまった?)



「アリシア……立てるか?」


エリアスの声が広間に響き、床に座り込んだ姉のもとへ駆け寄る。


「姉さん、大丈夫?」


エリアスは膝をつき、姉の肩に手を添えていた。

バルドもフィーネも、緊張した顔で見守っている。


姉はゆっくりと顔を上げて、小さく微笑んだ。


「ええ、大丈夫。立てるわ」


「無理をするな」


エリアスは静かに姉の背に手を回し、そっと支えながら立たせる。

立ち上がる瞬間、姉の体がふわりと傾いて――

そのまま、エリアスと向かい合った。


一瞬、二人の間の空気が止まる。

青い炎の明かりに照らされて、エリアスの睫毛が震えた。

姉の頬がわずかに紅く染まり、視線が逸れる。


バルドの鎧がかすかに鳴る。

その音が、やけに近く感じられて――ほんの少しだけ胸がきゅっとした。


「……エリアス……。もう大丈夫よ。ありがとう」


(……よかった、みんな無事で……)


姉のおだやかな声に、背筋の張りが少しだけ緩む。

けれど、まだ足の震えが止まらない。

あの転送の感覚――光も音も、世界の全部がぐしゃぐしゃに混ざったような――

思い出しただけで、背筋がぞくりとした。


「ここは――どこだ……。魔王城なのか?」


エリアスが剣に手を添え、いつでも抜ける体勢で周囲を見回す。


バルドは低く構え、仲間を覆う角度を探るように、大盾を傾けた。

矢羽に指をかけたフィーネは、青い炎を映した瞳であたりを警戒している。

私は、姉と背中合わせになって――ぎゅっと白杖を握り締めた。


背中の布越しに姉の緊張が伝わってくる。

けれど、同時に姉のぬくもりも感じ、恐怖が少しずつ遠のいていく。


誰も言葉を発さない。

それでも、みんなの呼吸がひとつに合わさっているのがわかる。

緊張が、一本の細い糸のように私たちを結びつけていた。


胸の奥で鼓動が波打つ。

けれど――恐怖よりも、知りたい気持ちの方が少しだけ勝っていた。



――パチッ、パチパチ。


弾けるような音。


とっさに音がした方向を見る。

床から紫黒の火花と共に、もう一つの転送陣が広がっていく。


その中から、柔らかな声が響いた。


「魔王城へようこそ。

 あら、緊張なさっているのね。ふふふ……」


転送陣から現れたのはヴェルネ。

微笑みは王宮の淑女そのものだった。

けれど、紅い瞳の奥では――底の見えない闇が静かに呼吸していた。


彼女が軽く手を振る。

すると扉がすべり開き、黒いローブに身を包んだ召使たちが整然と列を作って現れた。


一糸乱れぬ動作で椅子を引き、ナプキンを広げ、食器を整えていく。

完璧な所作。

――なのに、その瞳はどれも赤く光っていた。


私たちは、張り詰めた糸でつながれたまま身動きできない。


「どうぞ、お座りになって」


それだけ告げると、ヴェルネは軽やかに扉をくぐった。

まるで、客人をもてなす王女のように。


(どういうこと?

 すぐに戦闘とか……処刑とか……そういう展開じゃないの?)


「人質がいる……。従うしかあるまい」


エリアスが低くつぶやき、召使に促されるまま、私たちはテーブルへ向かった。


椅子が引かれ、席に着くと――

エリアスはそっと姉を私の隣に座らせる。


「アリシアを頼む」


その声に頷き、彼は侍女に導かれるまま姉の正面へ座った。


机の下で、私はそっと姉の手を握る。

姉は、小さく握り返してくれた。


(ヴェルネ……いったい何を考えているの?)


ここで何が起きるのか、まるで想像できない。

戦場の喧騒から一転した“静けさ”が、逆に現実感を奪っていった。


――やがて、扉が再び静かに開いた。


一行に緊張が走る。

空気が張りつめ、誰かの喉がかすかに鳴った。


エリアスの剣の柄が、ちり、と鳴る。

姉は祈るように胸元へ手を重ね、

バルドは無言のまま机の上で拳を握り、

フィーネの瞳がわずかに揺れた。

私は胸に杖を抱きしめ、震えながら息を潜める。


――ほんの一瞬の予感。

これは、“死”の気配。


背筋が冷たくなり、足の震えが止まらない。


(……魔王が現れる……!?)


心臓が、自分のものじゃないみたいに勝手に跳ねた。


だが、姿を見せたのは――。


ロングドレスを纏い、微笑みを湛えたヴェルネだった。

裾を曳く黒のドレスは夜そのもの。

胸元の紅玉が、まるで呼吸するように光っている。


そのあとに、黒の礼装姿のメルヴィス。

そして、漆黒の鎧に身を包んだ黒騎士ガルヴァンが続く。


ドレスを纏ったヴェルネは、少女のはずなのに――空気が違った。

これまでの幼さの影すら消え、まるで“女王”の威を纏っている。

歩くだけで、空間がひれ伏すようだった。


ヴェルネは玉座の前に立ち、ゆるやかに振り返る。

燭台の青い光が金糸の髪を撫でる。


(どうして――玉座にヴェルネが……!? まさか!)


そして、ゆっくりと玉座に腰を下ろす。

細い脚を優雅に組み、肘掛けに肘を預ける。

爪先でコツ、コツと玉座を叩きながら――妖艶に笑った。



「勇者パーティの皆さま、歓迎するわ」


玉座から落ちたその声音は、蜜のように甘い。

けれど――その甘さには温度がなく、氷の刃のように冷たかった。


「わたくしの名は――ヴェルネ・エルシオン」


青い炎の揺らぎが、まるで息を止めたかのように静止する。

光の粒が宙に浮いたまま、世界そのものが一瞬止まった。


沈黙。


フィーネの耳がぴくりと震えた。


「……エルシオン、だと?」


エリアスの小さな呟きが、凍りついた空気を割る。

ヴェルネは唇に指を当て、囁くように続けた。


「かつての“覇王ヴァルディウス”の娘にして、

 千年前に滅びた――エルシオン王国の王女」


その名を告げた瞬間、息が止まった。

空気がひび割れ、胸の奥で何かが崩れ落ちる音がした。


思い出す――歴史書の中でしか見たことのない名。

かつて大陸を統一した英雄、覇王ヴァルディウス。


彼が築いた栄華の王国こそが――エルシオン王国。

遥か昔に滅び去ったはずの国。

そして、ヴェルネはその王国の“姫君”。


だとすると――彼女は、かつて人間だった……?


ヴェルネはゆっくりと微笑んだ。

その笑みは、あまりにも静かで、あまりにも残酷だった。


「――そして今は、“魔王”」


わたしは息をするのを忘れた。

その言葉が、永遠の夜の扉を開いた――。


体調を少し崩してしまい、更新が遅くなってしまいました。

お待たせしてしまい、本当にすみません。もう大丈夫ですので、どうかご安心ください。


そして、評価やブクマ、感想をくださった皆さま。

いただく一つ一つが、大きな励みになっています。

いつも読んでいただき、心からありがとうございます。


物語はいよいよ最終章へと入ります。

少しでも楽しんでいただけるよう、精いっぱい頑張りますので、

最後までお付き合いいただけたら嬉しいです。

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