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第八十七話 甘受

「けれど――そうねえ。

 条件付きで交渉して差しあげても、よろしくてよ?」


カラメルのような甘い香りが漂う。

ヴェルネはうっすらと笑みを浮かべた。


――その瞬間、空気が凍った。


騎士たちの喉が同時に鳴り、

誰も、息を吸うことすら忘れる。


“魔族”。

しかも“魔将”が――“交渉”を口にしたのだ。


ヴェルネは裾を軽く摘み、

ゆるやかに一歩、前へ出る。


ハイヒールの踵が石を叩き、

光を受けたドレスの縁が、血のように深紅へと煌めいた。


「勇者パーティの皆さん?

 あなたたちとなら、取り引きしてもいいわ。

 だって……わたくしたち、因縁浅からぬ仲ですもの」


その瞳には、愉悦とも真剣ともつかぬ光。


(魔族と――取り引き?)


エリアスの顔が上がる。

その瞳が、まっすぐにヴェルネを貫いた。


誰も言葉を発せず、ただ視線だけが彼女を捉える。

甘く響く提案――だが、確かな毒があった。


ヴェルネは指先で髪を弄び、唇が弧を描く。


「あなたたち五人を、魔王城に招待するわ。

 それと――」


唇に人差し指をあて――口を開き、ぱっと手を広げた。


「――そう!

 代わりに、王国軍はここに残ってもらうの。

 “人質”として、ね?」


その表情は、まるでいいことを思いついた少女のよう。


そして、ふっと笑う。


光が頬の曲線を撫で、白磁の肌に薄紅を差した。

その瞳は鏡のように澄むのに、覗き込めば――何も映さない。


(それじゃ、私たちも軍も――“丸ごと人質”だよ……!)


ロベールの喉が鳴り、

金属の鳴る音。背後の騎士たちが無意識に剣に手を添える。


天幕の空気が震え――それすら、すぐに呑まれて消える。


「とってもいい考えだと思うのだけれど……。

 みなさん、どうかしら?」


ヴェルネが首を傾げると、

甘い匂いが、毒の形をして肺に沈む。


そして、私たち五人を順番に見つめていった。


エリアスの喉がごくりと動き、

バルドは音もなく盾を構え、

フィーネの指先が弓弦を撫で、弦がかすかに鳴る。


私の心臓は痛いほど跳ね、胸の奥で魔力が暴れるのを感じた。


――沈黙。


静寂を裂いたのは――シャルルだった。

誰もが息を呑む中、靴音を鳴らして前へ進み出る。


「……その申し出、条件を詰めようじゃないか。

 まず、私たち――人質解放の条件だ」


エリアスの剣先がかすかに震え、ロベールが息を詰めた。

天幕の空気が、一瞬にして張りつめる。


ヴェルネはゆっくりと彼に顔を向け――微笑んだ。


「そうねえ? わたくしが満足したら、かしら?」


けれど、その目を見た瞬間、背筋が凍り付く。

氷のように冷たく、虫けらを見るような目。


「けれど――あなたには、聞いてないわ」


指先を軽く弾く。ピン、と乾いた音。


次の瞬間、黒い瘴気が蛇のように這い出し、シャルルの身体へ絡みついた。

瞳が反転し、痙攣したかと思うと――崩れるように床へ倒れる。


床板が鳴る。それは、王国の威信が地に落ちた音だった。


「殿下!!」

「くっ!」


エリアスの剣の柄が鳴り、ロベールが駆け寄る。

そっと脈を取り、エリアスへ視線で伝える。


だがヴェルネは、無関心なまま唇を歪めた。


「うふふ。殺してはいないわ。

 その男、あなたたちには価値があるのでしょう?

 わたくしには、一片の価値もありませんけど」


その声音には残酷さよりも、“飽き”があった。

まるで壊れた玩具を、どう弄ぶかを考える気怠さ。


騎士の一人が思わず剣を抜きかけたが、ロベールの鋭い視線ひとつで止まる。

天幕の中に、呼吸の音すら響かなかった。


そして、彼女の視線が再び私たちに戻る。


「それで、勇者パーティの皆さん?

 どうするのかしら?」


私の腕の中で、姉がかすかに身じろぎした。


(……姉さん?)


抱きかかえた肩がわずかに震え、

次の瞬間、姉の身体に――確かな力が戻ってくる。


「だめ、まだ――!」


思わず制止の声を漏らす。

だが、姉は私の手をそっと押し返し、ゆっくりと身を起こした。


天幕の光が銀の髪をかすめ、

立ち上がるたび、その瞳の奥に炎のような輝きが宿っていく。


ヴェルネはその様子を、まるで美術品でも眺めるように見つめ、

瞳を細め――唇の端をわずかに吊り上げた。


「あら? 聖女様は……どうなさいますの?」


姉は微笑み、一瞬だけ私に視線を移した。


目が合った瞬間――

そこにあったのは怯えではなく、覚悟。


けれどそれは、まるで別れを告げる者の決意。

胸の奥がぎゅっと締めつけられる。


「――答えは一つ。

 あなたたちを斃す。

 命が尽きようとも」


次の瞬間、姉の身体が輝き、天幕が白金に染まった。

銀の髪が炎のように広がり、紫の瞳が黄金に変わる。


(これは――神のアルカナム――!)


――もう一度使ったら、姉さんは……!


「――姉さん、だめだ!」

「アリシア、やめろ!!」

「――聖女殿!」

「アリシアさん!」


四人の叫びが重なった。



あの声が――頭の奥に直接、響く。


「ヴェルネ姉さん、もういいでしょ?

 交渉なんてめんどくさいこと、やめよう。ね?」


鈴を転がすような声。

場違いなほど明るく、無邪気な調子。


メルヴィスだ――。


「“取引”じゃなくて、“強制”でいいんじゃない?」


「……そうねえ。

 どうやら、立場を弁えていないようですわね。

 その目で見て頂きましょうかしら」


ヴェルネは余裕の笑みを浮かべ、指をぱちんと鳴らした。


その瞬間――外から衝撃が走った。

地面が震え、柱が軋む。

ロベールが即座に天幕の布をめくる。


もうもうとした土埃の中、

メルヴィスを乗せた巨人がかがんでいた。

――何かの合図のように地を叩いたのだ。


次の瞬間、姉の輝きが明滅し、途切れた。

崩れ落ちる姉をエリアスが即座に支える。


私の震える視線に、エリアスが頷いた。

姉の髪はもう銀に戻っている。


(よかった……)


安心も束の間――耳の奥が軋む。

地面が再び鳴り始めた。


……違う。これは“音”じゃない。

世界そのものが呻いていた。


ゴ…ゴゴゴ…ゴゴ…ゴ…ゴゴゴ…ゴゴ…ゴ…。


大地が揺れ、天幕が波打つ。

誰もがロベールの隣に開いた隙間を見つめた。


私はふらふらと立ち上がり、支柱に手をつく。

指先に木のささくれが刺さっても、感覚が遠い。

その痛みすら、現実を引き止める最後の糸だった。


霧の向こう――見えたのは、列。列。列。

地平そのものに、黒い脈が打ち始める。


――それは、黒い“壁”だった。


黒い巨体が地平線の彼方まで連なり、

ゆうに百を超える巨人たちが、一歩ごとに大地を砕きながら進軍してくる。


――コツン。


騎士の一人が剣を落とす音。


(うそ……こんなの、もう戦いじゃない……)


震動のせいじゃない。歯の根が勝手にかちかちと鳴る。

体の芯が波に揺らされ、鼓膜が悲鳴を上げる。


世界が、壊れる音がした。


「ふふふ……彼らはね、僕という子供を奪われたと思って怒ってるんだ」


どこか楽しげに、メルヴィスの声が響く。

まるで友達に秘密を打ち明けるような、柔らかい声。

だがその一語ごとに、血と死の匂いが混じっていた。


「そう思わせているのは――僕だけど、ねぇ?」


笑い声が弾ける。軽く、けれど底の見えない音。


巨人ギガンテス――神が最初に生んだと言われる一族。

北の大地に住み、氷壁を超えない限り――

未来永劫、交わらないはずだった。


メルヴィスが幻で操ってるんだ……。


私は息を呑んだ。

白杖を握る手が震え、冷たい汗が背中を伝う。

心臓が速すぎて、痛い。


――彼らには、姉の”神の力”は効かない。

だって、わたしたちと同じ神の子だから。


「もしかして……あと一体ならなんとかなるかもって思ってた?

 そうだったら、ほんとうにごめんね?」


その声が耳の奥でささやく。

世界が、子供の言葉ひとつで歪んでいく。


足の裏から冷気が這い上がり、膝が震える。

腹の底が冷え、舌に鉄の味が滲んだ。


霧の向こうで、百の影が一斉に足を踏み出す。

地鳴りが、祈りをも飲み込んだ。


――あの絶望はまだ“始まり”にすぎなかった。


地獄の門が、開いた。


聖女の力も、勇者の力ももう及ばない。

こんなの、勝てるはずがない。


本当の絶望は――これからだったんだ。


***


バルドの盾が床を鳴らし、フィーネは弓を握り締めたまま立ち尽くす。

ロベールは表情ひとつ動かさず、ただ天幕の外を見据えていた。


ヴェルネはくすくすと笑いながら言った。


「もう、メルヴィスが我慢できないみたいだわ。

 あの子、わたくしと違って――”感情的”なの」


そして、唇を舐める。

蛇が匂いを探すような仕草。

空気の温度が一度下がった気がした。


「交渉再開ですわね?

 ……どうなさいますの、勇者様?」


姉を抱きかかえながら、エリアスがヴェルネを睨みつけた。

その背で、バルドが大盾を構え、フィーネが弦を引き絞る。

私も杖を握り直し、魔力を指先に集める。


天幕の誰もが勇者に注目していた。

彼の肩が震え、瞳が一瞬、燃え上がる。


(エリアス……聞いて。

 あの軍勢はいつでも私たちを消せる。

 それでも招待したのには、何かあるはずだよ。

 でも、もしあなたが戦うって言うなら、わたしが――支えるから!)


私は、手の中の杖を、痛いほど握り締めた。


けれど――彼は腕の中の姉に目を落とすと、

ふっと肩を落とす。


「――受け入れよう」


私の中で、何かが小さく割れる音がして――

手の力が抜けた。

カラン、と手元から杖が落ちる音。


ヴェルネは、ふっと笑った。


ほんとうに嬉しそうに。

待ちに待った舞台の幕が開ける、その瞬間のように。

目を細めて、楽しげに、心から。


空気が凍る。


地鳴りと沈黙が重なり、ひとつの音になった。


私は地面にへたり込み、力なく隣を見る。

俯いたままの勇者と、その手の中で瞼を閉じる聖女。


けれど――勇者の瞳には、光がまだ……灯っている――。


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