第八十六話 魔族
「――聖なる結界よ、広域展開――!」
姉の胸の前で、聖杖が眩く光を放つ。
刹那――空気が爆ぜ、白金の光柱が天幕を貫いた。
その光の中で、姉の銀の髪が炎のように舞い上がる。
椅子が震え、机上の地図が風にめくられ、駒が床へと跳ね落ちた。
まばゆい輝きが、天幕の内側を白く塗りつぶしていく。
布の隙間から覗く外――丘一帯を包み込む白金のヴェールが、
滝のように降り注ぎ、地平の彼方まで広がっていくのが見えた。
同時に――
「行くぞ――!」
「――てぇ!!」
「うおおおおおおおおおおぉぉぉぉ――!!」
天幕の外から、怒号と鬨の声が一斉に轟いた。
エリアスたちの戦いが、もう始まっている。
ここからでは支援は届かない。
何もできないことが、胸の奥をきゅっと締めつけた。
一瞬の不安が過る――けれど、信じなきゃ。
私たちには、私たちの戦いがある。
姉と私で、この王国軍を――みんなを、守るんだ。
(集中――!)
息を整え、魔力を指先に集める。
だがその瞬間――
巨人の咆哮が、世界そのものを引き裂いた。
「ウオオオオオオオオオオオッ!!」
背筋が凍りつき、心臓が跳ねる。
集中が、一瞬だけ途切れた。
姉の足元に重なる魔法陣が、かすかに波打つ。
轟音――何かを叩きつける音。
衝撃――空気が圧縮され、耳の奥が軋む。
刹那、姉の光がかすかに揺らぎ、閉じた瞼がぴくりと動いた。
私の指先にも、ピリッと電撃のような痛みが走る。
(だめだ、集中しろ……! 私――!)
息を詰め、全身で魔力の流れをつなぎ直す。
天幕の隙間から、遠く丘の端を包む白金の光が波打っている。
(巨人の一撃を、弾き返してたんだ……!)
反射した閃光が天幕の内側を明滅させ、
砕けた木々の破片が、雪のように舞い散っていた。
障壁は――まだそこにある。
(――耐えた……!)
姉は柔らかな光に包まれていた。
それは天から降りた祝福のようで、
彼女はなおも両手を組み、祈り続けている。
(姉さん……すごい……!)
そのとき――天幕の外から歓声が上がった。
兵たちの声が波のように広がり、
希望の響きが、光とともにこの天幕の中まで届いた。
***
ドゴォォォォ――ッ!!
大地そのものが軋みを上げ、波打つ。
天幕の中まで空気が震え、支柱がわずかに鳴った。
肺の奥がひゅっと縮み、鼓膜が痛いほどに震える。
土と鉄の匂いが混ざった風が吹き込んでくる。
熱と埃が頬を撫で、心臓が跳ねた。
――そして、歓声。
「……倒したの!? もう一体……!」
魔法陣を維持したまま、そっと天幕の隙間をのぞく。
もうもうと土煙が上がり、状況は見えない。
けれど――あの声。確かに勝利の歓声だった。
胸の奥がじんと熱くなる。
喉の奥まで熱がせり上がり、思わず息を呑む。
「姉さん、みんな、やってくれたよ!」
姉の瞳が、わずかに開く。
まばたきの間だけ見えた微笑みに、心臓がきゅっと鳴った。
全身はまだ震えているのに、心だけが温かくなっていく。
――だが、その直後。
音が、止まった。
風も声も、すべてが一瞬で凍りつく。
そして、頭の奥に――直接流れ込んでくる、あの声。
「すっごぉ~い! 二体目まで斃すなんて!」
鈴を転がすような声。
場違いなほど明るく、無邪気な調子。
メルヴィスだ――。
「……遊んでくれてありがとう!
でも、もう飽きちゃった」
声が、脳の内側で笑った。
幼くて、甘くて、ぞっとするほど冷たい声。
「殻に閉じこもっちゃ……つまんないしね?」
笑っている。
まるで、世界そのものを玩具にするように。
目を閉じた姉が、小さく震える。
それでも祈り、光を送り続ける。
その身体は輝きながらも、細かく震えていた。
私は杖を握りしめ、唇を噛む。
掌が汗ばみ、魔力の流れがざらりと乱れる。
――その声がまた、心に触れた。
「そっか――あのね。
姉さんが遊びに行きたいって。ちょっと待っててね?」
(遊びに“行く”……!?)
ぞくりと背筋が冷える。
声が溶けた。
空気が歪み、光が赤く滲む。
世界が悲鳴を上げた。
天幕の隙間から見える結界の表面に、真っ赤な亀裂が走る。
亀裂が走った瞬間、胸郭を内側から押し潰すような圧が来て、天幕がばさりと膨らんだ。
閃光。
姉の光が弾け、消え――崩れ落ちた。
「姉さん!」
咄嗟に駆け寄り、抱き止める。
「セレナ……ごめんなさい……もう一度……」
その瞬間、天幕の床を紫黒の光が這った。
蠢く魔族の紋――転送魔法陣!
「まさか――!?」
*
「アリシア!」
天幕にエリアスが駆けこんだ。
「巨人は動かない!
だが、メルヴィスの声がして結界が消えた!
何があった!?」
遅れて、バルド、フィーネ、ロベールも駆け込む。
バルドは即座に盾を構え、私たちの前に出る。
ロベール卿はその背後で片手を上げ、騎士たちに合図を送った。
エリアスは私の腕の中の姉の姿を見た瞬間、
息を呑み、そっと姉の肩に手を伸ばした。
「アリシア……!?」
その声には、怒りと焦燥が混じっていた。
「大丈夫……少し、疲れただけ」
姉は小さく微笑んだ。
けれど、その唇は、いつもよりわずかに色が薄い。
エリアスは厳しい表情のまま、小さく頷く。
「あれ……」
私は震える指で光の中心を指さした。
「これは――ヴェルネか!?」
エリアスは叫ぶや否や剣を抜き払い、フィーネは弓を引き絞った。
全員の視線が、紫黒の光に包まれた一点に集まる。
やがて、その中心から――せり上がるように、ひとつの人影が現れた。
それは、少女だった。
白磁のように滑らかな肌。
真紅の瞳は、夜を閉じ込めたように冷たく澄み、
けれど――唇だけは、愉快そうにゆるやかな弧を描いていた。
その姿を見た瞬間、
姉の瞳が、驚きに見開かれる。
同時に、私の背筋を冷たいものが走った。
(姉さんが命を削って、あれほどの傷を負わせたのに……
まるで、何事もなかったみたいなんて――!)
刹那、フィーネがためらいなく弓を放つ。
矢が空を裂き、顔面めがけて一直線に飛ぶ。
だが、見えぬ膜に弾かれ、
甲高い音とともに火花が弾け散った。
「……っ!」
少女は微笑を崩さぬまま、フィーネを見つめる。
まるで、懐かしい友人にでも再会したかのように――。
「まあ、あなた。
お会いするたびに、本当にご挨拶ねえ?」
次の瞬間、少女の眉がぴくりと上がる。
「――ああ、なるほど。そういうことですのね。
思い出しましたわ、あなたのこと」
彼女は小首を傾げ、二の矢を引き絞ったフィーネに、
ゆるやかに美しいカーテシーを捧げた。
「――改めまして、フィーネ姫? ――うふふ」
フィーネが息を呑む音が聞こえた。
「ヴェルネ……!」
フィーネの低い声。
少女――ヴェルネは、まるで無垢な幼女のように笑った。
花の香りをまとうように、あざとく、残酷に。
「ひとつ、教えて差しあげるわ」
「……何を」
「“あの森”――覚えてる?」
フィーネの喉が上下した。
(まさか――!)
「あなたの故郷、エルネスティの森。
あれを燃やしたのは、”わたくしたち”の指示ですのよ?
ちゃんと、綺麗に根絶やしにしろと申し付けましたの。
ガルヴァンが、あなたに未練があるようでしたから……。
なのに、あなたとお兄さんが生き残っちゃったのは……想定外なの」
(どういうこと……? もし、それが本当なら……)
ヴェルネの瞳に、愉悦の光が走った。
フィーネの瞳が、炎のように揺れた。
弓弦を引く指が、微かに震え、張り詰めた弓弦が、かすかに鳴いた。
バルドが低く唸る。
「貴様……」
そのとき――背後から声がした。
それは、姉が倒れても微動だにせず、
ついさっきまで死人のように椅子にもたれていた男――
「私はヴァルミエール王国王太子、シャルル・ヴァロワだ。
王国を代表して、貴国と停戦交渉をしたい」
立ち上がり、震えながらも、王太子としての威厳を保とうとする。
私は、思わず唇を噛み、彼を睨んだ。
それでも、ヴェルネは彼に一瞥もくれず、退屈そうに爪を眺めるだけ。
天幕の空気が一瞬で凍る。
やがて、ヴェルネの笑みが、ゆっくりと形を変えた。
唇が音もなく動き、肩がぷるぷると震える。
「キャハハハハ……!
停戦? 交渉? 貴国?
この人間、何を言っているのかしら?」
笑い声が天幕の布を震わせる。
「あなたたち人間は、蟻や芋虫と交渉するのかしら?」
肩を震わせ、嬌声が天幕中に響く。
背筋が一瞬にして凍った。
(やっぱり、私たちを虫けら以下にしか思っていない!)
エリアスは一歩踏み出しかけて――バルドに腕をつかまれ止まり、
私の腕の中で、姉がかすかに震えた。
シャルルはわなわなと唇を震わせると、ガタンと力なく椅子にもたれかかった。
ふと、笑いが止まった。
ヴェルネは爪にふっと息をかける。
「不愉快ですわ」
外の風よりも冷たく、甘い音。
「わたくしたちは――」
光が爆ぜ、黒い蝶が舞うように、魔法陣の光が宙に散る。
その瞬間、ヴェルネの瞳が赤く輝き、唇から牙が零れた。
「――魔族」
その一言が、刃のように空気を裂いた。
誰も動けなかった。
私の手の中で、白杖の先が震えていた。
ヴェルネはくるりと身を翻し、スカートの裾がふわりと広がる。
ふたたびこちらを向いたその唇には笑みが戻っていた。
焦げたような甘い香りが、天幕に染みつく。
それはまるで――樹脂が焼ける、森の炎の残り香。
ヴェルネは、口元を押さえながら宙を見上げた。
まるで誰かに囁かれた秘密を思い出すかのように、うっすらと笑みを浮かべる。
「けれど――そうねえ。
条件付きで交渉して差しあげても、よろしくてよ?」




