第八十四話 崩壊
――フィオーレ領主館・広間。
「待ちなさい!」
突風のように、扉が開いた。
「――兄上!」
「……殿下……!」
エリアスの呆気に取られた声と、姉の小さく震えた声。
拳を挙げていた騎士たちは顔を見合わせ、書記官の手が止まる。
鉄靴の音さえ、ぴたりと止んだ。
光の中に現れたのは、緋色のマントを翻すひとりの男。
金の髪が陽光を受けて輝き、額には王家の紋章を刻んだ金のサークレット。
――ヴァルミエール王国王太子、シャルル・ヴァロワ。
(王都から……来たの?)
彼は何の前触れもなく壇上へと歩み出ると、
そこに据えられた玉座――亡き父の椅子に、ためらいもなく腰を下ろした。
鷹揚に脚を組み、肘をついた拳を頬に当てる。
鎧が鳴る音と、マントが床に落ちる音だけが響く。
司令官たち、そして騎士たちも一斉に膝をついた。
エリアスも、バルドも、姉も――私もおずおずと膝をつく。
フィーネは?
壁際にいたはずのその姿は――もう消えていた。
シャルルは冷ややかな声音で言い放つ。
「王命により、これより全軍の指揮は私が執る。
ロベール卿、ご苦労だった。
第一師団は引き続き卿に任せる。師団の統率に専念せよ」
それは――王家の名の下に下された、一方的な宣言だった。
(……! たった一言、“ご苦労だった”だけ?)
その声は澄んでいて、そして冷たかった。
広間の空気が音を立てて揺らぐ。
誰も、すぐには言葉を発せなかった。
これまでの進撃を率い、三日にわたって魔王城攻略作戦をまとめ上げたロベール卿でさえ――ただ一言。
「……承知しました、殿下……」
そのとき、隣で膝をついた姉の喉が小さく鳴った。
姉の視線は凍り付いていた――そこには、怯えと覚悟が重なって見えた。
胸の奥で、何かが嫌な音を立てた。
(姉さん……どうして、そんな顔……?)
けれど――ただ一人、エルステッド卿だけが頭を上げた。
「恐れながら殿下――それでは、あまりにも……!」
シャルルの視線が、膝をついたエルステッド卿に冷たく落ちる。
「よいのだ。控えなさい」
ロベールの静かな制止。
二人を見下ろしながら、シャルルは満足げに頷いた。
その表情は、まるで当然と言わんばかり。
ゆっくりと広間を見渡し、口元にわずかな笑みを浮かべる。
そして立ち上がると、両手を広げ、広間を見回した。
その視線が一瞬、姉のところで止まった気がして――ぞっとした。
「皆の者よ!」
その一声に、誰もが反射的に姿勢を正す。
さっきまで熱気に満ちていた広間が、氷のように凍りついていた。
「勝利の栄光を――王家に捧げるのだ!」
……その声の残響の中、広間の音が消えた。
誰かの籠手が、床をかすめて“コ”と鳴った。
(……は? 何言ってんのこの人。
最後だけ出てきて、それ?)
沈黙が広間を覆う。
あの熱が、ゆっくりと、音も立てずに冷えていった。
やがてシャルルは、まるで何事もなかったように言葉を継ぐ。
その瞳が――私の隣にいる姉を、まっすぐに射抜いていた。
「そして――聖女は、我が国の要だ」
(それはそうだけど……何を言い出すの、この人?)
「――こちらへ」
姉は視線を逸らさぬまま立ち上がり、静かにシャルルの隣へ歩み寄る。
(姉さん……)
「ゆえに、此度の戦いで失うわけにはいかぬ。
この戦い、聖女は王太子たる私の傍に置く」
(……え?)
胸の中央が、糸でぐっと引かれたみたいに縮む。
広間の空気が、さらに凍った。
姉が――勇者パーティから離脱する……!
「……兄上、それは――!」
エリアスの声が怒気を帯びた。
鋼の籠手が軋み、床を殴りつけんばかりに拳が震える。
「殿下、今は!」
バルドがその腕を押さえる。
次の瞬間、エリアスは小手を床に叩きつけた。
鉄の音が乾いて響き、転がった籠手が沈黙の中を転がる。
シャルルは首をわずかに傾け、唇の端を歪めた。
「――よいな、弟。
……いや――“勇者殿”?」
怒り。屈辱。困惑。そして――恐怖。
それらが渦を巻き、息をすることさえ重くなる。
(……まさか。まさか、そんな――)
でも、それで終わりじゃなかった。
「聖女――アリシア・ルクレール侯爵令嬢を、我が妃とする」
時が――止まった。
「魔王討伐の後、婚儀を執り行うものとする。
以前、舞踏会であなたに話をしたことだ。よいな?」
私の鼓動が、数を間違える。
砂時計が、逆さにされたみたいに。
シャルルは薄い唇の端を上げ、姉に視線を移す。
私は身体が硬直し、呆気にとられ一歩も動けなかった。
呼吸ができない。
まるで、呼吸の仕方を忘れてしまったようだった。
身体がどうしようもなく、小刻みに震える。
(……姉さん? ……そんなの聞いてない。
嘘でしょ……嘘だと言って!!)
思わず隣に手を伸ばしそうになる。
でも、姉はもう隣にはいない。
姉がいるのは――シャルルの隣だった。
姉はただ、そこに立っていた。
――姉の肩が、小刻みに震えていた。
呆然と姉を見つめるエリアスと、姉の視線が交差する。
バルドは視線を落とし、肩を震わせた。
姉の睫毛が震え、何かを言おうとして、唇がかすかに動く。
けれど、声は出ない。
広間の誰もが息を呑む中、姉は静かに目を閉じ、
そのまま肩を落とした。
「……――承知……いたしました、殿下」
絞り出すような声だった。
沈黙の中へと沈み込んでいく、小さな音。
その瞬間、エリアスが拳を軋むほど握り締める音が聞こえ、
視界の端でバルドも肩を落とす。
(……嘘……だ……)
口が勝手に開いて、空気だけが出入りした。
何も言えないまま、
王太子の宣告だけが、鈍く、脳裏に響いていた。
***
そして――出陣の朝。
私は馬車に揺られていた。
それでも、胸の奥にぽっかりと穴が開いたままだ。
馬車の座面に、もう一人ぶんの重みの跡がある――そんな気がした。
姉が、いない。
それだけで、世界が少し傾いて見えた。
昨晩も、話はできなかった。
一度は姉の部屋まで行ったけれど――ノックもせずに部屋へ戻った。
何かが変わってしまいそうで、話すのが怖かったのだ。
私は窓の外を見つめ、ただ手を組む。
御者台にはエリアスとバルド。
その背中が、いつもより遠く感じた。
そして、正面にはフィーネがいた。
私は肩を落としたまま、目を伏せて馬車に揺られていた。
すると――隣に座る気配がした。
(……フィーネさん?)
思わず見上げると、彼女は小さく微笑み、そっと私の肩を抱き寄せてくれた。
思わずぴくりと震えてしまったが、そのまま彼女に肩を預ける。
あったかい。
すると――頬から一筋の涙が落ちた。
あれ、なんでだろう?
昨日は泣かなかったのに――。
「セレナ、辛い時は泣いていいんだよ」
久しぶりに聞く、フィーネさんの声。
え……?
次の瞬間、目の端から涙が溢れた。
私は、子どものように嗚咽を漏らし、フィーネにすがった。
彼女はやさしく頭を撫でてくれた。
彼女だって辛いはずなのに――。
やがて――彼女は言った。
「私は、信じている。
聖女殿は……あなたの姉は、常に私たちと共にある。
どこにいるか、じゃない。
彼女はここにいる。
セレナ、君も――信じるんだ」
「う……ん……」
彼女を見上げる。
涙で滲んでいたけれど――それでも笑えた。
「ありがと、フィーネさん」
馬車の揺れが、鼓動と同じリズムで続く。
そのわずかな振動が、不思議と心を落ち着かせた。
でも――それでも、胸の奥のざわつきは消えない。
(……姉さんが、聖女がいないのに――
まだ魔将だって三人もいる。
私たち四人だけで、本当に魔王を斃せるの……?)
***
「重騎士隊、前へ!」
号令とともに、大盾を構えた騎士たちが最前列に並ぶ。
バルドは私たちに一瞬だけ微笑むと、隊列の中央へと歩み出た。
「弓兵隊、前へ!」
フィーネは私とエリアスの前に立ち、静かに言った。
「エリアス、セレナ。心配をかけた。
もう大丈夫だ」
「うん……!」
エリアスは険しい顔のまま、わずかに視線を向ける。
「いつも通りでいい。――頼んだぞ」
「任せて」
そう言うと、彼女は前へ進んだ――。
――バルドが手を挙げ、こちらを振り返る。
その背には、フィーネが立っている。
行軍の号令が次々と響いた。
「梯子隊、前へ!」
後方を振り返る。
はるか後方にひるがえる王国の旗。
――あそこに、姉がいる。
私は息を吸い込み、前を見た。
灰色の空。その先に、黒い影。
魔王城の黒々とした城壁が、霞の中に抗いがたい圧力をもってそびえていた。
次の瞬間、ふと風が吹いた。
違う――何かが飛んでくる!
魔王城の城壁の上で、何かが光った。
――岩……? 大きい!
轟音とともにそれは空を裂き、私たちの後方で炸裂した。
地面が震えて立っていられない。
続けて来た爆風に、エリアスと私は思わず身をかがめる。
砂や石、何かの破片を腕でかばいながら、目を細めて後方を見る。
第三師団の方が砂塵に煙り、馬や人が、周囲にばらばらと転がっている。
耳の奥がジンジンと焼けつく。
口の中が鉄の味になった。砂が歯に当たる。
目を瞬かせても、世界が粉塵で白く滲んで、遠くから誰かの叫び声が聞こえる。
(魔法じゃない……。な――なにが起きたの?)
指揮官たちの叫び声が飛ぶ。
「――退却!! 退却だ!!」
前方から、バルドとフィーネが走ってくる。
兵たちも梯子を放り投げ、後方へと駆けだしている。
わたしは呆然と見つめていた。
ふと、大きな声が響く。
「セレナ! セレナ――! 急ぐんだ!」
エリアスだ。私は頷く間もなく、駆けだした。
その間にも、次々と巨大な石が飛び、王国の陣で炸裂する。
(な、何が起きてるの!?)
私は必死で走った。魔法をかけている余裕はない。
突然、ふわっと身体が軽くなり、後ろを向いた。――バルドだ。
走るバルドの肩は激しく揺れ、声が途切れる。
必死で何とか詠唱を紡ぐ。
『俊足』――!
白杖を握り締め、可能な限り、エリアス、フィーネ、バルドはもちろん、
一緒に走る兵たちにも強化を付与する。
バルドの速度が一気に上がった。
どこかで誰かが叫び、甲冑が地を打つ音がした。
馬の悲鳴、砕けた鉄のような匂い。――現実が崩れていく。
けれど――私はバルドの肩越しに見た。
ゴゴゴゴゴ――!
真っ黒な魔王城の城門が、ゆっくりと開いていく。
巨大な門をくぐり、闇の中から、現れた影――。
一体、二体、三体――視界が陰り、鼓動が遅れる。
そこにあったのは、“絶望”だった。
巨人……!!
その足が一歩踏み出すたび、大地が沈んだ。
城壁よりも高い。――まるで、山が歩いているみたいだった。
呼吸が止まりそうだった。
影が地面から剥がれ、遅れて追いかけてくる感覚。
恐怖というより、”世界の法則が壊れる音”がした。
そのうち一体の肩に――誰かがいる!
風が止まる。
破片や粉塵が宙で“留まる”。
遠く聞こえていた叫び声――いや、それも消えた。
その中で――声だけが、頭の内側に直接流れ込んできた。
忘れもしない。
聞き覚えのある、あの声――。
「ようこそ、王国の皆さん。
僕はメルヴィス。遊ぶ? それとも――死ぬ?」




