第八十三話 終わりの始まり
――フィオーレ領主館の広間。
緊張と熱気のこもる空気の中――
机上には魔王城の見取り図が広げられ、白と黒の駒が並べられていた。
内部構造は記されておらず、描かれているのは外形のみ――。
内部は黒く塗りつぶされ、まるで“恐怖”そのものだった。
――作戦会議、三日目。
議論はしばしば紛糾したが、どこか明るさがあった。
戦いの緊張の中にあっても、皆が“終わり”を信じていたからだ。
壁際にはフィーネの姿もあったが、彼女は一言も発さなかった。
その瞳は、どこか遠くを見ているようだった。
ただ一度だけ、ロベールが彼女の傍で声をかけた。
何か小声で会話をしていたが、聞き取ることはできなかった。
けれど、ロベールがそっと肩に手を置くと、彼女は小さく頷くのが見えた。
***
こうして三日にわたる会議を経て、作戦が定まりつつあった。
「……大弩を馬車に載せるのはどうだ?」
地図の上に指を滑らせながら、エリアスが言う。
「殿下、それはよいお考えです」
参謀の一人が頷き、その隣でバルドが低く唸った。
ロベールも顎に手を当てながら、口元を緩めた。
「機動力のある大弩の運用が可能になるな。
早速、工兵隊に作らせよう」
ロベールが目配せすると、一人の参謀が広間を退室していく。
やがて、バルドの低い声。
「重騎士は五人おきに配置。
上空から飛来する矢を防ぐには、そのぐらいか」
その提案にまた議論が沸き、書記官が忙しなく筆を走らせる。
皆の顔には疲労が滲んでいたが、そこには確かな希望と笑みがあった。
そんな中、ふと、くらりと立ちくらみを覚え、膝が沈みかける。
すると、静かに近づいたエルステッド卿が、私の肩に手を置いて囁く。
「少し休んでおいで。
君の力が必要になるのは、これからだから」
私はてへへと笑いながら、小さく会釈をして姉と手をつなぐ。
一瞬、男たちの中心にいるエリアスとバルド、ロベールがちらりとこちらを見た。
三人とも、目が優しい。
なんだか、心が弾んだ。
彼らの声が背後に遠ざかり、代わりに花の香りと陽の光が近づいてくる。
*
懐かしいフィオーレの屋敷の庭は、色とりどりの花が咲き乱れていた。
噴水の縁には小鳥が集い、
風が水面をなでるたび、きらきらと光が散る。
まるで、五年前に戻ったようだった。
見知った人たちの笑顔はここにはもうない――父も母も、兄も使用人たちも。
いるのは行き交う討伐軍の兵士だけ。
けれど――姉がいる。
それだけで十分だった。
――白いテーブルには、紅茶の代わりの白湯、焼き菓子の代わりの乾パン。
それでも――私たちは笑い合った。
昔のこと、パーティのみんなの話、好きな食べ物、戦が終わったらしたいこと――
たくさん話をした。
「――ねえ、セレナ。
ヴァルモアの街でバルドが『酒場だな』って言った時のエリアスの顔、覚えてる?」
姉がカップを傾けながら、バルドの声真似までしてみせる。
「それ! あれは傑作だったよね。
しかもあの後、ギルドで名乗りを上げようとして……!」
姉の肩が震えた――ふたりの笑いが弾ける。
その笑い声が風に溶けて、庭いっぱいに広がると、
通りすがった兵士たちの表情も和らぎ、自然と笑顔になる。
ふと、姉が言葉を零す。
「……いろいろあったわね」
「……うん。あったね」
水鳥が飛び立つ音がして、青空に消えて行く姿を目で追いかけた。
(死んだはずの街に、水鳥が戻って来たんだ……)
「ほら、花びらが」
姉が指先を伸ばし、私の髪に舞い落ちた花弁をそっと摘む。
「……セレナ……髪、少し伸びたわね」
「姉さんに追いつくまでは切らないんだ」
「ふふ。なら、ずっと伸ばしておかないとね」
姉のその言葉がなんだか嬉しくて、胸の奥が温かくなる。
どこか遠くで鐘が鳴った。
それはまるで、時がゆっくりとほどけていく音のよう。
ぬるい白湯をもう一口含む。
乾パンの塩味は味気ないけれど――
それでも、これ以上の幸福はないと思った。
姉が微笑む。
その笑顔があまりにも穏やかで、
私は、永遠にこの時間が続きますように、と神様に願った。
――だからこそ私は、このひとときを一生忘れないだろう。
***
そして、夕刻。
広間に戻ると、作戦はすでに整っていた。
――もはや過去のような隠密作戦は通用しない。
フォルテア砦のときのように、奴隷商を装う手もなく、
侵入路や、内部と連絡を取る余地もない。
結論は一つ――正攻法による攻城戦。
魔王城の正門は、恐らく世界で最も硬いとされる魔法金属製。
魔法耐性も極めて高く、
その城壁の厚みは通常の砦の数倍に及ぶ。
投石器も、遠距離魔法も、表面を削ることすらできないだろう。
結局、梯子をかけて、登るしかない――
重騎士を先頭に盾を並べ、後続の兵が鉄製の梯子をかける。
梯子をかけるのに成功したら重騎士を先頭に弓兵が続き、
上からの魔法や瘴気、熱油の攻撃を防ぎ、弓兵が反撃しながら登る。
普通の弓では城壁の上までは届かない。
馬に牽かせた即席の機動大弩が外から城壁上の敵を牽制する。
そして――勇者パーティの梯子は、最も重要だった。
聖女の結界とバルドの盾を前面に、
可能な限り速やかに城壁へ到達し、城壁の敵を一掃して味方の突破口を開く。
私の頭の中で、梯子を登る時に最適な支援魔法が自然と浮かぶ。
『防御上昇』『俊足』は必須。
あとは念のため、『火属性耐性上昇』『疲労回復』かな。
特に『疲労回復』は今回重要。
城壁まで登った時にへとへとじゃあ、戦えないから。
あとは――。
誰もが息を呑み、黙って頷いた。
この作戦に、退路はない。
広間に静寂が落ちた――。
沈黙を破ったのは――エリアスだった。
立ち上がった彼の瞳が、燃えるように輝く。
「――必ず勝つ!
この戦いで、すべてを終わらせる!」
瞬間――空気が震えた。
その言葉が、広間にいる者たちに火をつけたのだ。
バルドも、ロベール卿も、エルステッド卿も、グランフォード卿も、拳を天高く突き上げた。
「おおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおっ!!」
地鳴りのような雄叫び。
鉄の籠手が打ち鳴らされ、
長机が揺れるほどの歓声が広間を満たす。
剣の柄を叩く音、盾のぶつかる音、足を踏み鳴らす音――
それらが渦を巻き、
ひとつの叫びとなってシャンデリアをびりびりと鳴らし、天井を突き抜けた。
(うわ……すごい……!)
胸の奥が熱くなる。
こんな空気の中にいるだけで、体が震えた。
隣で姉が膝を少しだけ落とし、拳を低く構える。
その姿は静かで、けれど誰よりも強かった。
そして、姉の紫の瞳が私を見つめ、微笑んだ。
その瞳が言う。
――行こう。
(うん! 行こう、姉さんと!)
私は頷き、姉と同じ姿勢で拳を構え、膝を落とした。
「――っ!」
姉と息を合わせて、私は弾けるように拳を高く、高く突き上げた。
熱気の渦の中、ふと目の端にフィーネの白い横顔が映った。
彼女の唇は動かず、瞳だけが揺れていた。
けれど――
(……フィーネさんも、きっと大丈夫。よし!)
私も、喉が張り裂けるほど声を張り上げる!
「うおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおっ!!!」
広間が爆ぜるような歓声。
皆が立ち上がり、拳と声と想いが、
ひとつになって天に昇っていく。
熱、光、震動。
まるで勝利がもうそこにあるかのような、
燃え上がる一瞬だった。
――そのとき。
突如、広間に――風が吹き抜けた。
バタン――っ!
背後の扉が、強く開く。
「待ちなさい!」
乾いた声が響いた瞬間、
――さっきまでの熱気が嘘のように凍りついた。
風をまとった――影。
「――兄上!」
「……殿下……」
エリアスの呆気に取られた声と、姉の小さく震えた声。
扉の光の中に、緋色が差した。
金の髪が光を受けて輝き、その額には金のサークレット。
――その人の名前を、私は忘れない。
ヴァルミエール王国王太子――シャルル・ヴァロワ。




