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第八十二話 私の居場所

霧が風に流れ、戦場に一瞬だけ静寂が戻った。

聞こえるのは、倒れ伏したヘルハウンドの犬めいた悲し気な呻きだけ。

ちろちろと燃える炎。焦げた風の匂い。


私は息を詰め、白杖を構えたまま動けずにいた。

ほんの数瞬前まで、あんな激しい戦いの渦中にいたなんて――信じられないほど静かだった。


「私は、確かにお前を見た!

 薄れゆく意識の中、炎に包まれる森と、そこに立つお前を!」


馬上で抱きすくめられたまま、フィーネは吐き出すように言った。

その声は怒りというより、悲鳴に近かった。


ガルヴァンは静かに彼女を見つめている。

霧の隙間から差す光が、黒い鎧の輪郭を淡く縁取った。

黒鉄の胸甲に刻まれた紋章めいた刻印が、霧に濡れて鈍く光っている。


一拍の沈黙。


「……そう見えたのなら、そうなのだろう」


その声は低く、重く、それでいて不思議に柔らかい。

謝罪でも否定でもなく、ただ受け入れるような響きだった。


(そんな言い方……ずるいよ)


胸の奥がざらりと痛む。

怒りでも悲しみでもない、もっと混ざったような感情。


「王国は灰になり、残されたのは兄上と私だけ。

 父は――王は、流浪のお前たちの一族を受け入れ、共に暮らした。

 私たちとお前は、かつて――友だった。

 それを……!

 このこと、忘れたとは言わせない……!」


フィーネの声が震え、手に握られたナイフがかすかに光を弾く。


ガルヴァンは何も言わず、静かに視線を落とした。

その仕草に、どこか寂しさが滲んで見えた。


私は知らない。

“エルフの王国”と“ダークエルフの一族”が、どんな関係だったのか。

なぜ彼らが魔王の配下になったのかも。

けれど、今の彼の瞳には――確かな痛みがあった。


(この人、もしかして……誰かを守ろうとしてる?)


言葉にできない想いが喉の奥でつかえる。

でも、戦場に情けを持ち込んじゃいけない。

そう分かっているのに、どうしても目が離せなかった。


「……あの森を、焼いたのは俺ではない。

 だが、救えたのは……お前たちだけだった」


声は低く、掠れていた。

長い時間、心の底で燃え続けた炎が、ようやく言葉になったように。


フィーネが息を呑む。

喉だけが震えて、言葉が途切れた。


「――あの炎は、我が魔王ではなく、今の“魔王”の命だ。

 俺たちは……抗えなかった――」


ガルヴァンが最後まで言い切る前に、フィーネはナイフを握り直す。

その手は震えていた。


「黙れッ!! 嘘をつくな!!」


叫びと同時に、霧が裂け、射し込んだ光が二人の間に線を描く。

その一閃のあとに残ったのは、燃え尽きたような沈黙だけ。

光の粒がふわりと舞い、二人の影を分かつように揺れた。


一瞬だけ、ガルヴァンの瞳が揺れる。

それが何の感情なのか、私には分からない。


森の奥から、蹄の音とヘルハウンドの咆哮が響く。

――撤退してくる!?


「オルフィ……いや……フィーネ……そして勇者たちよ、聞け」


その声は低く、だが明瞭だった。


「俺は魔王に忠誠を捧げた魔将。

 だが――もはや、かつての魔王とは違う。

 “支配”ではなく、“絶滅”を望んでいる。

 人も、魔も、抗う者すべてをだ」


エリアスが目を細める。


「……絶滅、だと?」


「そうだ。だから言う――降伏しろ。

 俺に降れ。命までは取らん。

 お前たちでは、あれには勝てぬ」


「……断る!」


エリアスの声が低く響いた。

私は息を呑む。


(この人……敵なの? それとも――)


「ふ……それでも抗うのがお前たち人間ということか」


ガルヴァンは静かにフィーネを地に下ろす。

彼女の頬をかすめるように手が離れた。


「俺の言葉を信じなくてもかまわない。

 だが――目だけは逸らすな。

 抗う。それもいいだろう。

 戦いの果てで、真実を見るがいい」


その背に、もうためらいはなかった。


風が通り抜け、焦げた葉がひとひら、空に溶けた。

灰が光を受けてきらきらと流れ、

それがまるで、焼け落ちた森の涙のように見えた。


後方から迫る蹄の音が近い。


「姉さん――!」


『――聖なる盾よ!』


姉の詠唱が響き、私たちの周囲を光の守りが二重に囲う。


ガルヴァンは光の中のフィーネを一瞥し、槍を掲げて背を向けた。

蹄が大地を叩くたび、霧がちぎれ、風が戻る。


――そして、ほんの一瞬、ガルヴァンの瞳が霧の向こうで光った。


「――行くぞ!」


数騎の騎影と生き残ったヘルハウンドたちが北へ駆け抜けていく。

遠く、森の外で剣戟と叫び声が混ざり、戦場の音が再び蘇った。


(……戦いの果ての真実――どういう意味なの?)


霧が再び流れ、光が滲む。

その向こうで、黒騎士の背中がゆっくりと霞んでいく。


私はそれを、ただ見送ることしかできなかった。


隣で崩れ落ちるように座り込んだフィーネの姿が目に入る。

白い手が震えている。

握ったままのナイフの刃先が、かすかに音を立てて地を擦った。

その肩が小刻みに震え――何も言わずに、唇を噛んでいた。


風が吹いて、彼女の頬をかすめる粒がひとつ。

それが涙なのか、雨の雫なのか、分からなかった。


エリアスがゆっくりと歩み寄り、跪く。

無言のまま彼女の手からナイフをそっと取り上げ、地面に置く。

バルドは無言で周囲を見張り、姉は詠唱を止め、静かに光盾が消えていく。


誰も、何も言わなかった。

戦いの音が遠のいたあとに残ったのは、湿った風の匂いと、灰の舞う音だけ。


(フィーネさん、あの人だったんだね。

 確かめたいこと――確かめられたのかな……)


私はそっと白杖を下ろす。

光が消えると、霧の奥で鳥の声がひとつ、かすかに響いた。


その音が、やけに悲しげに聞こえた。


***


撤退戦での黒騎士の突撃は凄まじく、

誰も、その進撃を止めることはできなかったという。


エルステッド卿は無駄な犠牲を出さぬため、

あえて包囲を解いたそうだ。

魔王軍は、霧の向こうへと姿を消した。


こうして魔王軍は魔王城へと退き、

遠い地平の果て、黒い城門が固く閉ざされた。


――私たちは決戦に勝利したのだ。

こうして、魔王城への道がついに開かれた。


けれど、戦いが終わっても私たちの戦いは続いていた。

姉と私は治療班の医師や神官、他の白魔導士に混じり、

負傷者の列を行き来しながら、光の癒しと包帯を交互に手渡した。


私たちの手を取り、涙を流して感謝を述べる者。

聖女と勇者を称賛する者。

戦いの余韻が残る中、兵たちは痛みに呻きながらも笑っていた。


――次の戦いで、すべてが終わる。

故郷に帰れる。

そんな兵たちの高揚と期待を、肌で感じる。


軍の士気は、これまでで最高だった。


***


その後、三軍はフィオーレへと一時帰還し、

魔王城攻略――最後の戦いの準備を整えることになる。


私は、かつて自分が使っていた――

懐かしいけれど、何もない部屋に戻っていた。


あの森の光景が、何度も脳裏をよぎった。

胸の奥には勝利の高揚よりも、まだ灰の匂いが残っている気がした。


寝台に座り、壁に背を預ける。

ふっと息をついて、窓の外を眺めた。


外からは、街中で勝利を祝う兵たちの笑い声と歌が聞こえる。

杯が打ち鳴らされ、小さな焚き火の火花が夜風に舞っている。

遠くで笛の音が響き、誰かが勝利の歌を高らかに歌っていた。


ふふ。下手くそだ……酔っぱらってるのかも。

でも、あのバルドだって、もっと上手――だと思う。たぶん。

思わず微笑みがこぼれた。


あの邂逅のあと、森の奥から現れたロベール卿に、

エリアスが黒騎士の残した言葉を伝えた。


「……人間との融和を望む一派とは、彼らのことだったか。

 ただ――降伏、か。

 ふむ……この状況で王宮が飲むとは思えんがな」


「仮に兄上が飲んだら、僕たちだけでも魔王を斃す」


「ああ、それはあるまいよ」


剣を払って鞘に収めたロベール卿は、厳しい顔のまま森の奥へと視線を向けた。

その瞳は、遠く王都を望んでいるようでもあり、

戦場に散った多くの兵たちの影を宿しているようにも見えた。


そのあと、ロベール卿は私に声をかけてくれた。


「この勝利は、君の支援のおかげだ。――ありがとう」


その言葉は、私の誇りになった。


けれど、それからというもの、

フィーネさんは一言も言葉を発していない。

まるで、心がどこか遠くへ行ってしまったみたいに。


声を掛けようとしたとき、姉が私の肩にそっと手を置く。

姉は小さく首を振るだけで、何も言わなかった。


――きっと、彼女は立ち直る。


そうだよね……。

フィーネさんは強い。


私は、それを信じて待つことにした。


窓の外では、夜風にフィオーレの花が揺れている。

遠くで鐘の音が響き、兵たちの歓声がまた一段と高くなった。


空を見上げると、月が浮かんでいる。

その光が雲の切れ間から落ちて、花畑を金色に照らしていた。


戦いが終わったはずなのに、胸の奥ではまだ何かが燃えている。

それはもう、恐怖じゃない。


小さくとも、確かに灯っている――希望の火。


(……戦いの果ての真実。

 私たちは、いったい何を見ることになるんだろう)


その問いが、夜風の中でほどけていく。

灰の匂いの向こうに、かすかな花の香りが混ざっている気がした。


次が最後の戦いになる――そう思うと、ひたすらに恐ろしくなる。


でも、そんなとき胸に浮かぶのは、勇者パーティのみんな。

姉さん、そしてエリアス、バルド、フィーネ。


ふと、寄宿舎で姉と話した“生存率”のことを思い出した。

そう、あの姉のへんてこ理論。

三人がいるから、生き残る確率は冒険者を続けるより高いはずって。


うん、本当にそうかも。


私の胸に住んでいるのは、もう姉だけじゃない。

いつのまにか、みんなも住んでた。


枕を胸にぎゅっと抱きしめ、頬を柔らかなリネンに押し当てる。

――なんだか私たち、家族みたいだ。


この後も、みんなで。

バルドが言ってたこと。


いつのまにか……ここが”私の居場所”になってた。


だから、どんな結末が待っていようとも。

”聖女の妹”として、最後までみんなを支える。


それが私――白魔導士だから。


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