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第七十八話 故郷の丘にて

――フィオーレの丘の上。


空は雲ひとつなく晴れ渡り、街を囲む花畑は白や黄色の花々が風に揺れていた。

焦げ跡ひとつ見えず、すべてが穏やかで――まるで滅びなど嘘のような光景。


「これが……本当に滅ぼされた街だというのか」


誰かの呟きが、風に溶けていく。

街路には瓦礫の代わりに花が咲き、血の跡も焦げ跡もない。

ただ、そこにいるはずの人々だけが、もういなかった。


ロベール卿は兜を脱ぎ、静かに黙祷する。


「――この街に、敬礼を」


兵たちも兜を脱ぎ、黙祷を捧げた。

その列の中に、私たちもいた。


丘の上に組まれた薪の上には、簡素な棺がいくつも並んでいた。

そこには、私たちの家族、そして親しかった人たちが静かに眠っている。



前の日のことだった――。


目を覚ました姉は、私とともに屋敷に安置された家族のもとを訪れた。

そのときのことを、私は一生忘れないと思う。


姉の瞳に映っていたのは、安らかに眠る家族たちの姿だった。

父の厳しくも優しい顔。母のどこまでもあたたかい微笑み。

そして、兄の――少し不器用な笑顔。

アンナの笑顔と、いつも私を包んでくれたぬくもり。

それらの記憶が胸の奥に広がり、ひとつの光となって心を照らした。


胸が熱くなり、堪えていた想いが一気に溢れた。

気づけば涙が頬を伝い、私は声を殺して泣いていた。


けれど――姉は涙を流さなかった。

ただ、そっと膝をつき、ひとりひとりの名を呼びながら、掌を重ねて祈っていた。


その姿を見て、胸の奥がきゅっと痛んだ。

姉さんだって、張り裂けそうな悲しみを抱えているはずなのに。

でも、姉はもう“ただの娘”ではなく――“聖女アリシア”として、ここにいる。


私は隣で手を合わせながら、はっきりと気づいた。

私ひとりでは、きっと勇気を出せなかった。

みんなに会うのが怖かったから――。

けれど今、姉さんのおかげで、こうしてちゃんとお別れを言える。


(姉さん、ありがとう。

 会わせてくれて、見送らせてくれて)


握った手の中で、爪が食い込んでいた。

その痛みに気づいたとき、もう涙は止まっていた。



――風が、丘の上を吹き抜ける。

花々が音もなく揺れ、陽の光に透けていく。


姉が小さく頷く。


「……始めましょう」


その一言で、兵たちは松明を掲げた。

炎が薪へと移り、ぱち、と乾いた音を立てる。


炎が揺れるたび、みんなの記憶が光に変わっていくようだった。

消えるのではなく、空へ帰っていく――そんな気がした。


やがて炎は空へと昇り、白い煙が風に乗って流れていった。


――やっと、帰るんだね。


目を閉じると、まぶたの裏に姉の声が響いた。


「――ここに眠る者たちへ」


その声は低く、しかし澄んで響いた。

誰もがその言葉を逃すまいと、息を潜める。


「彼らは、愛し、繋がり、支え、守り、最後まで“生き抜いた”」


その声は、風よりも穏やかで、光よりも静かだった。


「祈りましょう。彼らの魂が、花のように安らかでありますように。

 そして、この地に再び春が訪れんことを」


私は祈る姉の背中を見つめながら、胸の奥に熱いものを感じていた。

――あの日、再生の光が街を包んだ瞬間。

姉の瞳に浮かんでいたのは、悲しみではなく決意だった。


(姉さんは、もう泣かないんだ……)


姉が両手を広げ、静かに祈りを捧げる。

地面に散らばる白い花々がゆっくりと舞い上がり、薪の上に降り注ぐ。

それはまるで、死を覆うのではなく“眠りを包む”ようだった。


姉が跪き、手を組む。

エリアスも、バルドも、フィーネも。

それぞれの想いを胸に。

そして私も、その隣で空を見上げていた。


ロベール卿も、兵たちも次々と兜を取り、跪く。

風が吹き抜け、無数の花弁が舞い上がった。


やがて、街全体が白く染まり、私は瞳を閉じた。


鐘の音が鳴り響き、姉の――いや、“聖女”の祈りが空へ昇る。

それは“葬送”ではなく、“帰還”のように。


(聖女の祈りが、この街を再び包んでいる……)


白い花弁が頬を撫でていく。

それは、涙の代わりのようにも思えた。


私はそっと目を開け、姉の横顔を見つめていた。

その微笑みは、まるで朝日のように優しかった。


けれど、だからこそ――

胸の奥に、ほんの少しの不安が揺れる。


――やがて、姉はゆっくりと私の方を向いた。

穏やかな瞳のまま、ほんの少しだけ手を伸ばす。


「……セレナ。ありがとう。

 あなたがいてくれたから、わたしはここに立てるの」


そう言って、姉は私をそっと抱きしめてくれた。

花の香りと、祈りの余韻と、懐かしいぬくもり。

あの目覚めの朝の逆――今度は姉の方から。


――やっぱり、姉さんは姉さんだ。


胸の奥がじんわりと熱くなる。

震えが止まらないのに、涙だけは出なかった。

だって、姉の温もりがちゃんとここにあるから。


***


その時――遠くで、角笛の音が鳴った。


風の音が一瞬止んだ。

鳥の声も、草のざわめきも消える。

まるで、世界そのものが息を潜めたようだった。


丘へ蹄の音が響く。

伝令が息を切らせて駆け込む。


「報告します!

 魔王軍、北方ルクレール平原に集結!

 黒旗を掲げ、南へと進軍を開始しました!」


ロベール卿の目が鋭く光る。


「全軍に通達!

 我ら第一師団は北上、ルクレール平原へ布陣!

 第二、第三も追って集結!

 全軍を以って、これを粉砕する!」


エリアスは立ち上がり、兵たちを振り返った。

聖剣を抜き払うと、高く天へ掲げる。


「この一戦に、我らの命運を懸ける!」


勇者の声が空を裂き、兵たちが一斉に剣を掲げた。

鋼の反射が陽光を受け、無数の光の粒を生み出す。


「おおおおおお――!」


その声は花畑の上を渡り、どこまでも届いた。


バルドも、フィーネも、そして姉と私も。

エリアスと共に立ち、鬨の声を上げる兵たちを見つめる。


祈りの静寂が、次第に戦いの鼓動へと変わっていく。


けれど――丘の上に残った花々が、風に揺れて囁いた気がした。


――行ってらっしゃい。


その声は、確かに私たちの心に届いた。


姉が振り向き、微笑む。

その瞳には、もう悲しみではなく光があった。


「――行こう、セレナ。まだ終わりじゃないわ」


立ち上がった姉の金の髪が、風に舞う。

燃える薪の炎が背後で揺れ、彼女の祈りを赤く染めた。


「未来へ――つなぐために!」


聖女が掲げた杖の先に、白光が走る。

それは天を裂き、炎と花を巻き込みながら、ひとつの光柱となって空へ昇った。


兵たちが息を呑む。

その光を合図に、角笛が再び鳴り響く。

地響きのような唱和が広がった。


「聖女と勇者と共に! 未来へ――!!」


勇者は剣を掲げ、声を放つ。


「――聖女の加護は、我らにある! 進めッ!!」


鬨の声が丘を揺らし、花々が一斉に舞い上がる。

それはまるで、滅びた街そのものが再び息を吹き返したかのようだった。


(父様、母様、兄様、そしてみんな……見ていて。

 わたし、ここで止まったりしない。

 絶対に、わたしが支えるから――)


聖杖を掲げ、光に照らされた姉は、まさしく聖女だった。


――ううん。大丈夫。


王国の希望でも、聖女でも。

それでも、姉さんは私の姉さんだから。


北へ――。

もう二度と、笑顔を失わないために。

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