第七十八話 故郷の丘にて
――フィオーレの丘の上。
空は雲ひとつなく晴れ渡り、街を囲む花畑は白や黄色の花々が風に揺れていた。
焦げ跡ひとつ見えず、すべてが穏やかで――まるで滅びなど嘘のような光景。
「これが……本当に滅ぼされた街だというのか」
誰かの呟きが、風に溶けていく。
街路には瓦礫の代わりに花が咲き、血の跡も焦げ跡もない。
ただ、そこにいるはずの人々だけが、もういなかった。
ロベール卿は兜を脱ぎ、静かに黙祷する。
「――この街に、敬礼を」
兵たちも兜を脱ぎ、黙祷を捧げた。
その列の中に、私たちもいた。
丘の上に組まれた薪の上には、簡素な棺がいくつも並んでいた。
そこには、私たちの家族、そして親しかった人たちが静かに眠っている。
◆
前の日のことだった――。
目を覚ました姉は、私とともに屋敷に安置された家族のもとを訪れた。
そのときのことを、私は一生忘れないと思う。
姉の瞳に映っていたのは、安らかに眠る家族たちの姿だった。
父の厳しくも優しい顔。母のどこまでもあたたかい微笑み。
そして、兄の――少し不器用な笑顔。
アンナの笑顔と、いつも私を包んでくれたぬくもり。
それらの記憶が胸の奥に広がり、ひとつの光となって心を照らした。
胸が熱くなり、堪えていた想いが一気に溢れた。
気づけば涙が頬を伝い、私は声を殺して泣いていた。
けれど――姉は涙を流さなかった。
ただ、そっと膝をつき、ひとりひとりの名を呼びながら、掌を重ねて祈っていた。
その姿を見て、胸の奥がきゅっと痛んだ。
姉さんだって、張り裂けそうな悲しみを抱えているはずなのに。
でも、姉はもう“ただの娘”ではなく――“聖女アリシア”として、ここにいる。
私は隣で手を合わせながら、はっきりと気づいた。
私ひとりでは、きっと勇気を出せなかった。
みんなに会うのが怖かったから――。
けれど今、姉さんのおかげで、こうしてちゃんとお別れを言える。
(姉さん、ありがとう。
会わせてくれて、見送らせてくれて)
握った手の中で、爪が食い込んでいた。
その痛みに気づいたとき、もう涙は止まっていた。
◆
――風が、丘の上を吹き抜ける。
花々が音もなく揺れ、陽の光に透けていく。
姉が小さく頷く。
「……始めましょう」
その一言で、兵たちは松明を掲げた。
炎が薪へと移り、ぱち、と乾いた音を立てる。
炎が揺れるたび、みんなの記憶が光に変わっていくようだった。
消えるのではなく、空へ帰っていく――そんな気がした。
やがて炎は空へと昇り、白い煙が風に乗って流れていった。
――やっと、帰るんだね。
目を閉じると、まぶたの裏に姉の声が響いた。
「――ここに眠る者たちへ」
その声は低く、しかし澄んで響いた。
誰もがその言葉を逃すまいと、息を潜める。
「彼らは、愛し、繋がり、支え、守り、最後まで“生き抜いた”」
その声は、風よりも穏やかで、光よりも静かだった。
「祈りましょう。彼らの魂が、花のように安らかでありますように。
そして、この地に再び春が訪れんことを」
私は祈る姉の背中を見つめながら、胸の奥に熱いものを感じていた。
――あの日、再生の光が街を包んだ瞬間。
姉の瞳に浮かんでいたのは、悲しみではなく決意だった。
(姉さんは、もう泣かないんだ……)
姉が両手を広げ、静かに祈りを捧げる。
地面に散らばる白い花々がゆっくりと舞い上がり、薪の上に降り注ぐ。
それはまるで、死を覆うのではなく“眠りを包む”ようだった。
姉が跪き、手を組む。
エリアスも、バルドも、フィーネも。
それぞれの想いを胸に。
そして私も、その隣で空を見上げていた。
ロベール卿も、兵たちも次々と兜を取り、跪く。
風が吹き抜け、無数の花弁が舞い上がった。
やがて、街全体が白く染まり、私は瞳を閉じた。
鐘の音が鳴り響き、姉の――いや、“聖女”の祈りが空へ昇る。
それは“葬送”ではなく、“帰還”のように。
(聖女の祈りが、この街を再び包んでいる……)
白い花弁が頬を撫でていく。
それは、涙の代わりのようにも思えた。
私はそっと目を開け、姉の横顔を見つめていた。
その微笑みは、まるで朝日のように優しかった。
けれど、だからこそ――
胸の奥に、ほんの少しの不安が揺れる。
――やがて、姉はゆっくりと私の方を向いた。
穏やかな瞳のまま、ほんの少しだけ手を伸ばす。
「……セレナ。ありがとう。
あなたがいてくれたから、わたしはここに立てるの」
そう言って、姉は私をそっと抱きしめてくれた。
花の香りと、祈りの余韻と、懐かしいぬくもり。
あの目覚めの朝の逆――今度は姉の方から。
――やっぱり、姉さんは姉さんだ。
胸の奥がじんわりと熱くなる。
震えが止まらないのに、涙だけは出なかった。
だって、姉の温もりがちゃんとここにあるから。
***
その時――遠くで、角笛の音が鳴った。
風の音が一瞬止んだ。
鳥の声も、草のざわめきも消える。
まるで、世界そのものが息を潜めたようだった。
丘へ蹄の音が響く。
伝令が息を切らせて駆け込む。
「報告します!
魔王軍、北方ルクレール平原に集結!
黒旗を掲げ、南へと進軍を開始しました!」
ロベール卿の目が鋭く光る。
「全軍に通達!
我ら第一師団は北上、ルクレール平原へ布陣!
第二、第三も追って集結!
全軍を以って、これを粉砕する!」
エリアスは立ち上がり、兵たちを振り返った。
聖剣を抜き払うと、高く天へ掲げる。
「この一戦に、我らの命運を懸ける!」
勇者の声が空を裂き、兵たちが一斉に剣を掲げた。
鋼の反射が陽光を受け、無数の光の粒を生み出す。
「おおおおおお――!」
その声は花畑の上を渡り、どこまでも届いた。
バルドも、フィーネも、そして姉と私も。
エリアスと共に立ち、鬨の声を上げる兵たちを見つめる。
祈りの静寂が、次第に戦いの鼓動へと変わっていく。
けれど――丘の上に残った花々が、風に揺れて囁いた気がした。
――行ってらっしゃい。
その声は、確かに私たちの心に届いた。
姉が振り向き、微笑む。
その瞳には、もう悲しみではなく光があった。
「――行こう、セレナ。まだ終わりじゃないわ」
立ち上がった姉の金の髪が、風に舞う。
燃える薪の炎が背後で揺れ、彼女の祈りを赤く染めた。
「未来へ――つなぐために!」
聖女が掲げた杖の先に、白光が走る。
それは天を裂き、炎と花を巻き込みながら、ひとつの光柱となって空へ昇った。
兵たちが息を呑む。
その光を合図に、角笛が再び鳴り響く。
地響きのような唱和が広がった。
「聖女と勇者と共に! 未来へ――!!」
勇者は剣を掲げ、声を放つ。
「――聖女の加護は、我らにある! 進めッ!!」
鬨の声が丘を揺らし、花々が一斉に舞い上がる。
それはまるで、滅びた街そのものが再び息を吹き返したかのようだった。
(父様、母様、兄様、そしてみんな……見ていて。
わたし、ここで止まったりしない。
絶対に、わたしが支えるから――)
聖杖を掲げ、光に照らされた姉は、まさしく聖女だった。
――ううん。大丈夫。
王国の希望でも、聖女でも。
それでも、姉さんは私の姉さんだから。
北へ――。
もう二度と、笑顔を失わないために。




