第七十七話 騎士と聖女と私。そして弓使い
扉が、きい、と小さく鳴った。
重い足音が、ゆっくりと近づいてくる。
(あれ……私、寝ちゃってた?)
どうやら、椅子に座ったまま眠ってしまったらしい。
体が少し冷えている。
(やばい……このままじゃ、また寝落ちしそう……)
コツ、コツ――。
足音が止まった。
瞼が重い。
なんとか薄く目を開けると、大きな人影が見えた。……バルド?
次の瞬間――体がふっと浮いた。
え、えええええ!?
彼に――抱き上げられてる!?
ちょ、ちょっと!?
心臓が跳ねた。
慌てて寝たふりをする。
もちろん……眠気なんて一瞬で吹き飛んだ。
ほんの少しだけ目を開けると、バルドのぶっとい腕が間近に見える。
なにこれ、ほんとに丸太みたい……。
そう思っているうちに、そっと仮の寝台に寝かせられた。
毛布がふぁさ、とかけられる。
やばい。心臓が破裂しそう。
ぎゅっと目を閉じて、寝たふりを続行する。
お願い、早く行って……。
でも、バルドの気配は動かない。
沈黙の中、低い声が落ちた。
「お前は、無理をし過ぎだ」
ドキッとする。
その声は、思ったよりも柔らかかった。
けれど――
「いざという時に支えられないようでは、支援職失格だ」
(うう……。ごめんなさい……)
心の中で素直に謝る。
バルドはさらに言葉を続けた。
「お前あっての聖女殿だ。
だから――今は、ゆっくり休め」
(え……?)
バルドって、こんなに話す人だっけ?
いつも「うむ」とか「むん」とかしか言わないのに……。
椅子を引く音がして、ぎし、と軋む。
どうやら、私の傍に腰を下ろしたらしい。
ひぃ~。心臓が痛い。
寝たふり、きつい……。
「……俺は、聖女殿を支えたい」
なぜそれを私に?
姉に言ってあげてよ……。
「つまり――俺とお前は同志だ」
ああ、そういうことね……。
「聖女殿の心が王子殿下にあることぐらい、俺でもわかる。
それでも、どんな形でも俺は彼女の傍にいたい」
……え、それって。
「先日、王都に帰ったとき、父に言われた。
“聖女殿ではなく、聖女の妹殿はどうだ”とな」
えっと……どうだと言われましても……。
父って……公爵様?
何のお話でしょうか……?
「もう少しで婚約できる年になるから、だそうだ」
うん。私、あと一年で十六ですけど……?
――ん? まさか、それって……。
え? えええええ!?
バルドはふっと息をついた。
「だがな。やはり俺は、そういうのは好かん。
お前はきっと、聖女殿しか見えていないだろう。
それは、俺も同じだ」
……で、ですよね~。
ほっと心の中で胸を撫で下ろす。
「だから、俺たちは同志だ。
俺とエリアスは、この国を必ず変える。
そのとき――聖女殿とお前、エリアスと俺。
フィーネ殿は……助けてくれたら心強いが、無理は言えん。
だが、俺は皆でいたい。そう思っている」
どくん、どくん。
心臓が早鐘のように鳴る。
ほんの少し身じろぎして、体を小さく丸めた。
椅子が軋み、バルドが立ち上がる気配。
……気付かれた?
コツン、コツン。
足音が離れていき、椅子が置かれる音。
薄く目を開けると、バルドは椅子に腰を下ろし、
静かに――姉を見つめていた。
目を閉じ、大きな掌が胸に当てられる。
その誓いの仕草は、祈りに似ていた。
しばらくして、彼は立ち上がる。
扉へ向かう足音が遠のきかけ、ふと止まる。
「……戻ってこい。お前のいない戦場は、御免だ」
扉が静かに閉じた。
私は目を閉じる。胸の奥がじん、と熱い。
(――勇者と、騎士。
二人の“想い”が、姉さんの上で交わった……)
――姉の睫毛が、ほんの少しだけ動いた気がした。
気のせい――かな。
瞼が重い。
少し眠れば、夜はもうすぐ明ける。
***
――翌朝。
黄金の光が、静かに差し込んだ。
夜明け前の淡い色が白いカーテンを透かして、部屋を満たしていた。
鳥の声が遠くで響き、窓辺に置かれた花瓶の水面が、きらりと揺れる。
姉は穏やかな寝息を立てていた。
私は椅子に腰かけ、じっとその寝顔を見つめていた。
「……セレナ、眠れてる?」
振り向くと、フィーネが扉のところに立っていた。
黄金に染まったカーテンを背に、静かな笑みを浮かべている。
「うん……大丈夫」
(結局、バルドのせいであまり眠れてないけど……)
「悩み事?」
「ちょっとだけ……」
私が俯くと、フィーネはそっと肩に手を置いた。
冷たくて、それでいて心地よい感触。
「大丈夫だ。勇者と聖女と騎士。
三人がどうであろうとも、君と姉の関係は変わらない」
「うん……そう、だよね」
少しだけ胸の支えが取れた気がした。
(ほんと、フィーネさんってばなんでもお見通しだよね……。
なんだか、もう一人の姉さんみたい……)
自然と微笑みが零れる。
ふと、問いかけたくなった。
「えっと……フィーネさんは、そういうのって、無いの?」
ぴくりと耳が動く。
彼女は椅子を引き、静かに腰を下ろした。
しばらく窓の向こうを見つめたまま、黙っている。
思わず、喉が上下する。
(……聞いちゃいけなかったかな……?)
「ごめんなさい」と言いそうになったところで、
フィーネは、ふっと目を細めた。
「ないといえばない……。
でも、あるといえば、あるのかもしれない」
心臓が跳ねた。
どうしてか、もう一つ、聞かないといけないと思った。
「その人に……会いたいと思わないんですか?」
切れ長の目が伏せられる。
「もし運命なら、再び出会うだろう。
もしかしたら、そう遠くない未来かもしれない」
その声には、どこか遠い記憶を宿したような響きがあった。
「もう終わったことだが……。
もし出会えたなら、確かめたいことは――ある」
いつもより少しだけ、柔らかな声音。
そして、不意に口の端が上がる。
「……それよりセレナ、君はどうなんだ?」
「ないない! わたしなんて!」
思わず目を丸くして両手を振ると、フィーネが小さく笑った。
朝の光が頬に反射して、ほんの少しだけ赤く見えた。
笑い合った、その瞬間――
「……セレナ……。フィーネも……」
寝台から、かすれた声。
息が止まった。
(うそ……)
姉の睫毛がふるりと震え、ゆっくりと瞼が開く。
「姉さん!」
私は駆け寄り、姉の手を握る。
嘘じゃない……。
その体温が、これが現実だと教えてくれる。
フィーネが微笑みながら言った。
「おかえり、聖女殿」
それは、祝福の声だった。
「みんなを――呼んでくる」
そう言って部屋を出ていくエルフの背中を、朝の光が包んだ。
*
扉が閉まると、部屋には姉と私の二人きり。
姉はまだ弱々しい声で、そっと微笑んだ。
「……セレナ……ありがとう。
ずっと傍にいてくれたのね……」
その声を聞いた瞬間――
堰を切ったように、胸の奥で何かがほどけた。
私も、フィーネみたいに微笑もうとしたけれど――
どうしようもなく涙が溢れて、どんな顔をしてるのか、もうわからない。
きっと、ぐしゃぐしゃだ。
ばんっ。
次の瞬間、思わず姉に――そっと、でもぎゅっと抱きついていた。
本当は飛び込みたかったけど、少しだけ、我慢。
頬を沈め、姉の鼓動を確かめるように目を閉じる。
「……セレナ……?」
驚いた声。
けれど、姉は胸の中で震える私の頭を、そっと撫でてくれた。
(今ぐらい、いいよね……)
そう思ったら、ぽろりと、言葉が零れた。
「……姉さん……大好き」
声が震えた。
「……もう、セレナったら。……どうしたの?」
胸が上下し、頬から確かな鼓動が伝わる。
そう言ってくれる姉の声も、髪を撫でる手も。
すべてがあたたかくて――姉がここにいるって、感じらる。
私は涙に濡れた目を閉じ、小さく言った。
「ずっと、ずっと一緒だよ?」
一拍の後、姉は小さな声で、でもはっきりと言ってくれた。
「――ええ。……わたしたちは、ずっと一緒」
日が昇り、閉じた瞼の向こうで光が満ちていく。
姉の手に抱かれた温もりが、朝日よりも優しかった。
――夜が、明けた。




