第七十六話 勇者と聖女
屋敷の一室。
柔らかな光が差し込む寝台の上で、姉――アリシアは今も眠り続けている。
白いシーツに包まれた横顔は穏やかで、まるで長い夢を見ているようだった。
命は取り留めた。
けれど、三日が経っても姉はまだ目を覚まさない。
従軍医師の診立てによれば、身体にも魔力にも異常はないという。
まるで“魂だけが、遠くへ旅立ってしまった”かのようだ――と。
――でも、私は知っている。
『感覚強化』で確かめれば、姉の魂の光は確かにここにある。
それが、私のただ一つのよりどころだった。
シーツの下に手を伸ばし、姉の手をそっと握る。
あたたかい。
それだけで、姉はちゃんとここにいる。
必ず戻ってくる――そう信じられた。
ここは、五年前――姉の部屋だった場所。
視線を巡らせると、壁に掛けられた肖像画が目に入る。
父と母、兄と姉、そして幼い私。
みんな笑っている。
机の上には羽ペンとインク、姉の小物がかつてのように並び、塵ひとつない。
整然とした並びに、さりげなく置かれた色とりどりの可愛らしい小物。
そして、きちんと生けられた花瓶。
姉らしいなと、思わず苦笑する。
何もない私の部屋とは大違いだ。
まるで五年前――サン・クレール孤児院への視察に出かけた朝に戻ったようだった。
姉の”聖なる円環”の奇跡、神の力は凄まじく、フィオーレ全域に及んだ。
街全体が、五年前の姿を取り戻したのだ。
倒壊していた建物は甦り、枯れた噴水は水を湛え、花畑が風に揺れている。
――姉の、聖女の祈りが、この街の“時間”そのものを癒したのだ。
少し開いた窓から、パルミール平原を渡る風と花の香りが流れ込む。
その匂いの中に、かすかに鉄と油の匂いが混じっている。
廊下の向こうで、鎧の擦れる音がかすかに響いた。
第一師団の騎士たちが、屋敷の中を慌ただしく行き来しているのだろう。
教会からは細い煙が立ちのぼり、遠くで祈りの声が聞こえてくる。
遺体は一人ずつ荼毘に付され、従軍司祭の祈りが静かに捧げられていた。
そっと姉の手を戻し、目を閉じる。
そよ風が頬を撫で、花の香りが鼻先をくすぐる。
こうして、昔と変わらぬ部屋で姉と二人――。
――この静かな部屋だけには、まだあの“夢の残響”が残っている気がした。
***
エリアスもバルドも軍務で忙しい中、
一日に一度はこの部屋を訪れてくれた。
フィーネは毎日、何時間も傍にいてくれた。
けれど、一言「残る魔将は、恐らくガルヴァンだ」と告げて以来、
部屋を訪れても、彼女が窓の外を見つめている時間が、少しだけ増えた気がする。
第一師団は、ルクレール侯爵邸を臨時の作戦本部として接収した。
――勇者パーティが斥候から帰還しないことから、ロベール卿は独断で進軍を決断。
けれど、フィオーレの光景を目撃した彼らは、愕然としたという。
咲き誇る花々。
美しく整った街並み。
噴水のきらめき。
そして――傷ひとつないまま、静かに横たわる人々。
彼らは皆、まるで眠るように穏やかだった。
死霊の魂はすべて天に召され、身体は生前の姿を取り戻していた。
姉の奇跡は、死をも“安らぎ”に変えていた。
噴水の傍で、あの少女を見つけた。
真っ白なワンピースに、眠るように瞑った目。穏やかな顔。
額の矢傷はもうない。
私は彼女の手をそっと胸の上で結ぶと、フィオーレの花とスコップを添えた。
そして、小さく祈る。
「待たせてごめんね」――そう呟くと、ほんの少しだけ、彼女が微笑んでくれた気がした。
(姉さん……あなたは、いったい神にどんな祈りを捧げたの?)
胸の奥が、痛いほどあたたかくなる。
けれど――
窓の外を見れば、遠く北の地平に広がる“氷壁”が霞んで見える。
その向こうには巨人が暮らしているという。
そして、その手前のどこかにあるのが、魔王城。
あそこには、まだ祈りの届かぬ闇があり、あの魔将の姉弟が待っている。
――そこが、最後の戦場。
(あと少し。もう少しだけ。
姉さんが目を覚ますまでは、ほんの少しの安らぎを)
花の香りに、風の音が重なる。
その音は、静かに――忍び寄る戦の足音のように胸に響いていた。
***
扉が静かに開いた。
「……まだ、目を覚まさないか」
入ってきたのは、勇者エリアス。
鎧を脱いだ彼の姿を見るのは久しぶりだった。
硬い金属の匂いが、淡く部屋に残る。
「僕に任せて休んでくれ。休むのも仕事だ」
エリアスの声にうなずき、姉の傍から離れ、仮の寝台へ身を横たえる。
疲労が限界に達していたのか、すぐに意識が遠のいていった。
――どのくらい、眠っていたのだろう。
衣擦れの音で目を覚ます。
薄く瞼を開き、視界を覗く。
遠くから鳥のさえずり。
白い光。まだ日は落ちていない。
エリアスは、静かに姉の傍らに座っていた。
無言で姉の髪を撫で、指先で一房をすくい上げる。
触れてはいない。けれど、触れそうな距離。
金の髪の下、銀のサークレットが光を反射して輝く。
それでもその横顔は、戦場に勇者として立っている時とは違い、どこか儚げだった。
ふと、言葉が落ちた。
「アリシア。今さらだけど……聞いてほしい」
沈黙のあと――彼は、小さく息を吸った。
「君がいない世界なんて、考えられない」
まぶたの裏で、私は息を呑んだ。
「君がまた笑ってくれるためなら、僕は何だってする。
約束する――もう、離さない」
その唇がぎゅっと引き結ばれた。
「……この戦が終わったら、ちゃんと話そうと思ってる。
僕は、バルドと共にこの国を必ず変える。
そのとき、隣にいてほしいと願う人――それはただ一人。君なんだ」
その声は、祈りにも似ていた。
抑えられた熱が、静けさの中に滲む。
「……しばらくは、ゆっくりと休んで。
君の帰りを、待ってるから……」
私は息を止めた。
胸が痛いほど高鳴る。
――この人が、これほどまでに姉を想っていたなんて。
少しはわかっていたけれど……そう思うと、胸がきゅっとする。
椅子の軋む音。
彼はもう一度、姉の髪を撫でてから、ゆっくり立ち上がった。
(……今だ)
私はゆっくりと目を開け、体を起こす。
できるだけ自然な声で言う。
「休めたよ。ありがとう」
エリアスは少し驚いたように振り返る。
だがすぐに、穏やかな笑みを浮かべた。
「ああ、彼女を頼む」
短い言葉を残し、扉の方へ歩く。
その背中が扉の向こうに溶けるまで、私は動けなかった。
私は姉の手を取り、そっと囁く。
「……姉さん、よかったね」
けれど、なぜか胸が痛かった。
もしかして、私――。
――ううん。嫉妬とかじゃない。
だって、私は姉の幸せを心から願ってる。
確かに、姉はもう、私一人だけの姉じゃない。
人々の希望、“聖女”であり、こうやって想ってくれる人がいる。
だから、姉の世界が私の知らない色で満たされていくのが、少しだけ寂しいんだ。
静寂の中で、姉の寝息だけが響く。
(……でも、姉さんは誰を選ぶの――? 彼? それとも――)




