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第七十五話 聖女。立つ

世界は――音を失っていた。

風も、呻きも、靄のざわめきさえ、すべてが遠い。


まるで、世界そのものが――姉が立ち上がる瞬間を待っているかのように、

時さえ息を潜めていた。


ヴェルネとメルヴィスは、ただ嘲笑を浮かべている。


その静寂の中で、姉はそっと手を離し、ゆらりと立ち上がった。


瞳には涙もなく、頬にも血の気はない。


その瞳にあるのは――“空虚”。

聖女の慈愛も、姉の優しさも、悲しみも、怒りさえも。

何ひとつ、見つけられなかった。


エリアスはただ剣を握り直し、バルドは息を呑む。

フィーネは弓を下ろし、耳を震わせ――

私は――ただ、そんな姉を見上げることしかできなかった。


「まあ……聖女、壊れちゃったね。

 ただ綺麗なだけの、お人形さんみたい!」


ヴェルネがくすくすと笑う。

靄の中で赤い瞳がきらりと光り、爪先で床をトン、と叩く。


「お人形さんみたい!」


そう言うと、メルヴィスは肩をすくめ、くすりと笑う。


だが、次の瞬間――空気が変わった。


冷たく澱んでいた空間に、ふわりと風が流れ込む。

それは祈りの前触れのように静かで――けれども確かな力を帯びていた。


姉が一歩、前へ出た。


コツン――。


石を叩く音が響く。

その音が――姉が現実へと還る合図だったように。


「……かわいそうに。

 あなたたちは、何も知らないのね」


声は小さい。

けれど、その静かな一言が、ヴェルネの笑みを凍らせた。


姉の紫の瞳が、ゆっくりと上を向く。

そこには光が宿っていた――けれどそれは炎ではなく、

すべてを照らし、すべてを焼かぬ“白の光”。


「悲しみも、苦しみも、痛みも……。

 人は、それを――次へと“繋ぐ”ために懸命に生きるの」


ヴェルネが眉をひそめる。

メルヴィスがつまらなそうに息を吐く。


「永遠を生きる者には、わからないのかもしれない。

 あなたたちが偽善だと言うなら――それでも構わないわ。

 でもね、それが“人の強さ”よ」


姉の言葉が空気に染み込み、揺らめく靄を押し返していく。


誰も動けなかった。


祈りにも似たその声が、

“夢の残響”だけを残した広間を静かに包み込んでいく。


***


「あら、残念。壊れてなかったのね。つまんないの」


ヴェルネが鼻で笑った。


「それが強さ? 他人のために祈って、戦って、死んで。

 それが何になるというの?

 結局、そんなの自己満足じゃない」


メルヴィスは頬杖をつき、退屈そうに指先で黒い靄を弄ぶ。


「姉さんの言う通り。

 みんな『怖いよー』って手を繋いで、何もできずに死んでいくだけ。

 哀れで、滑稽で、どうしようもない。

 それが、人間。ね! 姉さん!」


ふたりの声が、冷たい波のように押し寄せる。

けれど、姉はまばたきひとつしなかった。

静かに息を吸い込み、ひと筋の吐息をこぼす。


「――それでも、人は祈るのよ」


言葉が、靄の中に落ちた。

澱んだ空気がかすかに震える。


「誰かの痛みを知ったからこそ、

 誰かの手を取ろうとする。

 それが弱さに見えるなら――

 あなたたちは、まだ誰の手も握ったことがないのね」


その瞬間、ヴェルネの笑みが消えた。

冷たく硬い空気が、微かに軋む。


姉は視線を落とし、両手を胸の前で組む。

光が――集まっていく。

あたたかく、けれど痛みを伴うほどの光。


「悲しみは呪いじゃない。

 繋がることを恐れなければ、痛みは“力”に変わる!」


掌の上に、小さな光の粒が生まれた。

白い粒子がゆっくりと舞い上がった。

壊れた床の隙間に触れた、その瞬間――ひとひらの花が咲いた。


それは、ひとときの奇跡。

けれど確かに、“生命いのち”の色をしていた。


白い花がもう一輪、咲く。

死臭の漂う空間に、風が吹いた。


私の頬をかすめたそれは、


――確かに、春の風の匂いがした。


その風の中で、姉の祈りが――再び、息づいた。


***


姉の結んだ手から溢れた白い光が、ゆっくりと広間を満たしていく。

ヴェルネたちの足元から流れる黒い靄が怯えるように震え、影のように後ずさった。

空気が、ひとつ大きく息を吸うように揺れる。


「ふふ……。これならどうかしら――”死の舞踏(ダンス・マカプル)!」


ヴェルネは唇を噛み、片腕を高く掲げる。

指先から放たれた黒い瘴気が、物言わぬむくろたちの身体に絡みついていった。


――心臓が、凍りつく。


父が。兄が。

そして、母の骸骨が骨を鳴らしながら椅子から立ち上がる。

侍女も、侍従も、騎士たちも――

まるで“死の舞踏”に取り憑かれたように、ぎこちない動きで次々と立ち上がる。


「ふふふ……さあ、楽しいパーティの始まりよ!」


ヴェルネは両手を広げ、狂気のように笑う。

その影で、メルヴィスが軽やかに一回転して、両手をひらひらと動かした。


「パーティの始まり、始まり!」


ヴェルネの唇が愉悦に歪む。


「さて――愛する者を、滅ぼせるかしら?」


次の瞬間、エリアスの鋭い声が響いた。


「――集結!」


バルドの大盾が聖女の前にそびえ、

エリアスがバルドに並び、私とフィーネが姉の後方左右へと展開する。

私は白杖を強く握りしめ、即座に支援魔法を展開できるよう息を整えた。


(怖くない。姉さんが――聖女が立ったのだから!)


瞬く間に、聖女を中心とした円陣が組まれる。


「……みんな、ありがとう。わたしに任せて――」


そう言うと、姉はその中央で、静かに両手を胸の前で組み、

わずかに唇を動かした。


――祈りの調べが、唇から零れ、詠唱となって空気を震わせる。


初めて聞く詠唱。それは、祈りというよりも唄。

それは、唇から零れる音のはずなのに、意味がわからなくても直接心に届いた。

ただ聞いているだけで心が洗われ、満たされていく。そんな不思議な唄だった。


「これは……神代の言葉――!」


フィーネが小さく叫んだ。


姉の声が涼やかに響いた。


『――聖なる円環えんかんよ――顕現せよ!』


刹那、姉の瞳が金色に輝き、銀の髪が純白に染まった。

その瞬間、空気そのものが姉の祈りの色に染まり、影という影が跪いた気がした。


組まれた手から溢れ出した光は、


崩れかけた世界を――

やさしく包み直すように、光の輪となって広がっていく。


「――生なき者にも、生ある者にも、神の恩寵を。

 ――すべてを輪廻の輪へ!」


その声は、審判の鐘のように響き渡った。


姉を呆然と見つめながら、ぽろりと、言葉が零れた――


「神……様……?」


光に包まれる。

温もりが皮膚を伝い、冷えきっていた心臓が跳ねた。


(なんて……あたたかい――)


まるで、姉に、家族に、アンナに抱かれているようなぬくもりと優しさに包まれる。

自然と溢れた涙が頬を伝った。


光の円環はさらに広がった。

床の粉塵が舞い上がり、白く輝く皿へと形を変える。

磨かれた床が中心から淡く光を放ち、

机の上の黒ずんだ花々が――瑞々しい花弁を開いた。


立ち上がっていた骸も、その光に包まれて静かに元の姿を取り戻していく。

父も母も兄も、ひび割れた骨が繋がり、ヴェルネの黒い靄が剥がれ落ちた。

母は白いドレスに包まれ、床へと静かに横たわり、父と兄も続いた。

アンナも、侍女たちも、騎士たちも。

たとえそこに魂はなくても、生前の姿を取り戻す。――あの夢の中と同じ微笑みを浮かべて。


(姉さんが、時を……巻き戻している……?)


きっと違う。


これは時間ではない。

壊されていた“記憶”が、光に抱かれてあるべき姿に還ってるんだ――!


光がさらに広がり、割れていたガラスが滑らかに光を反射し、破れていたカーテンが襞を柔らかくそよがせる。


白い光に触れた黒い靄が溶けて消えていく。


ヴェルネは青ざめた顔で呟いた。


「これは……何? なんなの、あなた?

 たとえ聖女でも、こんなの――不可能よ!」


光に包まれたヴェルネとメルヴィスの肌が裂け、

溶けるように剥がれた皮膚の下から黒い瘴気が血のように噴き出す。

だがそれさえも、白い光に溶けていく。


フィーネが呟いた。


「これは――輪廻の外にあるものを、輪廻の輪へと還す光。

 魔族にとっては存在そのものの否定――まさしく、神のアルカナムだ」


それでもヴェルネは、皮膚の剥がれ落ちた顔を歪ませてにやりと笑った。


「……神の力……でも、定命の者には、もう二度と使えないでしょう?

 それ以前に……。ふふ……もうこれで、聖女は終わりかもね……」


「魔王城で待っているわ。生きて辿り着けたら――だけど」


メルヴィスは、こぼれ落ちた目玉を、ぐいぐいと眼窩に押し込みながら言った。


「待ってるね! 辿り着けたらね!」


ヴェルネが骨の見えた指先をくるりと回し、足元に魔法陣を展開する。


「逃がさんっ!」

「うおおおおおお――!!」

「逃がさない!」


エリアスとバルドが同時に突進し、フィーネが弓を引き絞る。


「――任せて!」


――『俊足』×5! 『命中率上昇』×5!


私は即座に詠唱し、三人の足元に光陣を咲かせた。


フィーネの矢が一直線に走り、

ヴェルネの額を正確に貫いた――。


しかし――


「『魔王城で――待ってるわ』」


二人の身体が床に沈むように消え、

最後に骨だけになったヴェルネの手がひらひらと振られ、引っ込んだ。

エリアスの剣とバルドの盾が空を切る。


「くっ! またもや逃がしたかっ!」

「むう!」


魔法陣が閉じ、光の花びらが舞う。


次の瞬間、屋敷の外まで広がった円環が、死霊の呻き声を完全に消し去った。


――次第に光が弱まり、姉はふっと微笑んだかと思うと――

そのまま、静かに崩れ落ちた。


「アリシア!」

「聖女殿!」

「アリシアさん!」

「姉さん!」


とっさにエリアスが姉の身体を抱きとめる。

白かった髪が輝きを失い、ふわりと舞って再び銀に戻る。


膝をつき、姉を見る。

顔色も唇も、やけに白い。息も――浅い。


バルドも、フィーネも姉の周囲に膝をついた。


私はとっさに姉の手を取る。

触れた瞬間、指先が痺れるほど冷たかった。


(姉……さん……?)


まさか――!


心臓が早鐘のように打つ。

手首に触れる。


脈は――ある!

けれど弱い。今にも消えてしまいそうなほどに。


「――姉さん!!」


私の叫びが、かつての姿を取り戻した広間に響き渡る。


花びらのような白い光の欠片が、静かに宙を舞った。


それはまるで――

この世界が“もう一度、生まれ直すための”祈りの残滓のようだった。

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