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第七十四話 夢の残響

フィーネさんの言う通りだった。

――『ヴェルネの罠だ』。


まだ視界は霞み、焦点がうまく結ばない。

光と影の境界が、ゆらりと滲む。

まるで――夢の続きにいるみたいだった。


……むしろ、あの夢の中にいたままのほうが――よかったのかもしれない。


現実の空気は、あまりにも冷たく、残酷だったから――


(だめ! しっかりするんだ、わたし――!)


心のどこかで“逃げたかった”自分が情けなくなった。


私は冷え切った姉の手を、ぎゅっと握り返す。

指先がひやりと冷たい。不安が胸を過る。

心臓が強く脈打ち、喉の奥で乾いた息が鳴る。


姉は俯いたまま、かすかな震えを指先に伝わせてきた。


(姉さん……お願い! 戻ってきて……)


その震えが、今にも消えてしまいそうで怖い。

けれど、それが姉のものなのか、自分のものなのか――もう、わからなかった。


それでも。

今、握っているこの手だけは。

それは、あの夢のぬくもりと現実をつなぐ――最後の糸。


だから、離せなかった。



――名を呼ばれた少女は、あどけない顔のまま、ゆっくりと微笑んだ。

顎を少し傾け、唇に人差し指を当て、“しー”とでも言うように。

その無邪気さが、かえって背筋を凍らせた。


足元の靄がひざ丈のスカートを撫で、赤い瞳が愉しげに歪む。


(……隣の少年は誰? もしかして……)


大司祭は言っていた。行方のわからない“魔王の子”が二人いると。

それが――この二人、なの?


短く息を呑み、震える手で白杖を握り締めた。

その震えが腕の奥まで伝わり、骨が軋むように痛い。


「メルヴィス、ダメじゃない。もうバレちゃったよ?」


隣の見目麗しい少年は肩をすくめ、首筋に落ちる髪先を指でくるくると弄ぶ。

口角だけで笑い、まつ毛の影が長く落ちた。


「姉さん、ごめんね」


少年がそう囁くと、ヴェルネは唇の端を吊り上げ、喉の奥で小さく笑った。

その笑いに呼応するように、少年の肩もわずかに震える。

二人の影が、まるで鏡のように揺れた。


「そこの“聖女の妹”さん――またあなたですの?

 本当に困った人ですわね。これからが一番、面白くなるところでしたのに」


ヴェルネは空気を摘むように指先をひらひらさせ、

爪先で床をトンと叩いた。

少年も同じ仕草で肩越しにこちらを眺め、喉で笑う。


「ねー」


おもちゃを取り上げられた子どものように、二人は悲しげに頷き合う。

ヴェルネが首を傾げ、少年が小さくため息をついた。


「……まあ、仕方ないか」


白い指先で胸元を軽く叩き、丁寧に一礼する。


「ボクはメルヴィス。魔将だよ。

 ヴェルネはボクの姉さん。ね、とっても可愛いでしょう?

 双子なんだ。だから――ボクも、可愛いんだ。

 ……よろしくね、“聖女の妹”さん」


まるで子ども同士のような自己紹介。

にやりと笑う唇の隙間から、牙のような犬歯が覗く。


ヴェルネの赤い瞳が愉しげに細まり、

二人の影が同じ方向へ、ゆっくりと揺れた。


私は息を呑む。

肺の奥がぎゅっと縮み、冷たい空気が喉を突いた。


(……これが、魔王の“遺した子ども”たち……?)


これほど手の込んだ罠――。

当時の“聖女”、大司祭様に父を封印されたことへの恨みがある?


魔族も、私たち人間と同じように、

父――魔王への愛情があったとでも?


空気が再び重くなる。

ひんやりとした風が、砕けたガラスの上を這うように吹き抜けた。

肌が粟立ち、冷気が足首から這い上がる。思わず喉を鳴らして息を飲む。


姉弟の影が床に寄り添い、靄がぴたりと同期して波打つ。

その真紅の瞳は、宝石のように冷たく、美しかった。


「戯言は終わりか?」


静寂を裂くように低い声が響く。

――フィーネが動いた。


弓弦の音とともに、鋭い矢が放たれる。

放つ瞬間、フィーネの踵が半歩滑り、耳が刃のように立つ。


だが――展開された黒い障壁が、それを弾き返した。


矢が床を跳ね、くるりと回転して止まる。

矢羽が微かに震え、床を擦って泣くような音を立てた。


「くっ!」


フィーネは即座に二の矢を番え、再びぴたりと狙いを定めた。


「まあ、いきなりなんて。ご挨拶ね」


ヴェルネは紙一枚ほども臆することなく軽やかに笑った。

フィーネの耳がぴくりと揺れた。


エリアスは聖剣を抜き払い、光が弧を描く。

バルドは即座に前へ出て盾を構えた。

鉄の縁が床を擦り、低くうねる音が響く。


それでも姉は俯いたまま。

けれど、その手の震えが、さっきまでよりも大きくなった気がした。


「それで――楽しんでいただけたかしら?」


ヴェルネは両手を広げ、舞台の女優のように微笑む。

片手の甲を頬に当て、優雅に首を傾げた。


「わたくしたちからの、心を込めた“贈り物”――」


その声が途切れた瞬間、部屋の温度が一気に下がった。

ヴェルネは唇を舐めるように笑い、ゆっくりと囁く。


「懐かしくて、暖かい家族――ずっと望んでいたのでしょう?」


ヴェルネは口元を歪めながら胸元から手を伸ばし、何かを差し出すような仕草をした。

隣で少年――メルヴィスもそれを真似る。


「最高の“プレゼント”でしたわよねえ?」


高らかな笑い声が響く。

ヴェルネの笑いにメルヴィスの笑いが重なり、

空虚な空間に、二人の高笑いがこだました。


――“夢の残響”を、嗤うように。



エリアスの歯音がぎりと響く。


「貴様らぁっ――!」


バルドが盾をドンッと叩きつけ、床に散らばった破片が跳ね上がる。

割れた食器が震え、骸骨がカタカタと鳴った。


「許さん!」


私は、微動だにしない姉の手を握った。

冷たい……。指が震えているのは、私か姉か――もう判別がつかない。

喉が焼けるように熱く、息が浅くなる。


ふと、ヴェルネが私の隣で動かない姉を見つめると、口元に手を添える。


突如、楽しげな嬌声が響き渡る。


「キャハハハハ――ハハハ!

 聖女は壊れてしまったのかしら? ねえ、メルヴィス?」


ヴェルネは笑いながら踵を内側へ入れ、子どもが遊ぶようにくるりと一回転。

スカートの裾が靄を散らし、赤い瞳が煌めく。

メルヴィスは軽く指を鳴らし、姉の頬の高さに視線を合わせてくすりと笑う。


「うん、姉さん。ほら、記憶って便利でしょ?

 少し触れて抜き取っただけで、こんなに壊れちゃうんだから」


――さっきだ。

アンナに抱きしめられた時、なぜか花祭のことを思い出した!

きっと姉は、あの暖かい団らんを思い出していたんだ――。


だとしたら、あのアンナはなぜあんなにも本物のようだったのか。

あのぬくもり、抱き締められた時のなつかしさ……。


……もっと前から、幻覚の中にいたのかもしれない。


(……現実だったのは、どこまでだったの……?)


そのとき、屋敷の外から死霊の唸り声が風に乗って流れた。

――死霊は現実……。


なら、屋敷の扉が開いてアンナの幻が現れた瞬間から……?

あの温もりは、アンナの記憶の再生――だとしたら……。


胸の奥で、どす黒い怒りが渦を巻く。

胃の奥がきゅっと縮み、熱い血が逆流するような感覚――


私は叫んだ。


「これは――この惨状は……お前たちがやったの!?」


ヴェルネの唇が愉悦に歪む。

人差し指を頬に立て、視線だけを上に泳がせて“思い出すふり”をする。

メルヴィスは片手を胸に当て、礼でもするように軽く会釈した。


「ええ、もちろんですわ。

 最後まで美しく抵抗されましたのよ、皆さん。

 お父様も、お兄様も――本当に素晴らしい騎士でしたわ。

 鬼将だけでなく、死霊騎士二体までも斃されてしまいましたの。負けちゃうかと思いましたわ。

 ああ、命を散らす前の輝き――なんて、美しい!

 でもね……ふふ、お母様を死霊にして差し上げた瞬間、その輝きは消えてしまったの。

 突然火を放ったんですのよ? お母様ごと。

 すぐ消えましたけど……魂はもう戻らなくて……。

 ひどいですわ。いい死霊騎士の素材になったはずなのに――ざ~んねん」


(お父様、お兄様……お母様……)


白状を握りしめる指の関節が白くなる。


ヴェルネは額に手を当て、芝居がかった仕草で残念そうに俯いた。

メルヴィスも同じ仕草で額に手を添え、しかし目尻は笑っていた。


「そのアンナという侍女も……。

 そうそう、素敵なメッセージがありましたの。

 きちんと皆さんにお伝えしませんと――

 『姫様方――どうかご無事で』」


小首を傾げる。

メルヴィスは片手を口もとに当て、音を立てずに肩を震わせる。


歯を食いしばった拍子に、血の味がした。


――アンナ……!


あの優しい微笑み。私たちを見守ってくれた人。

涙が溢れて止まらなくなる。

胸が焼けるように熱く、息が浅くなる。頭の中が真っ白になり、視界の端が滲んだ。


今まさに、父の、母の、兄の――そしてアンナの想いが、踏みにじられている――っ!


「アーッハッハッハッハッハ!

 楽しいでしょ?

 あなたたちの周りって、みんな自分のことより他人のことばかり」


唇を噛み、歯を食いしばる。

――今度はトリスタンのことっ!


どこまで死者を嗤い、私たちを、姉を傷つければ気が済むのか。

なぜ、そこまでするの?――思考がぐるぐると巡る。


――でも、理由なんて関係ない。


(絶対に許せない!)


私は震えながらヴェルネを睨んだ。

血の気が引き、手足が凍るように冷たくなる。

それでも視線だけは、燃えるように熱かった。


ヴェルネは睨み返す代わりに、退屈そうに口を開け、爪先で床をコツン。

メルヴィスは割れた窓へ視線を滑らせ、砕けたガラスを靴先で静かに避けた。


「人間なんて、偽善者ばかり。

 本当は自分が一番大事なんでしょう?

 あのザハルトだってそうだった。

 嘘つきは――キライ」


低く響く声。

その声は氷のように冷たく、心の隙間に流れ込み、折れる寸前の理性を押し潰そうとする。


ザハルト……確かに、弱さに呑まれ、闇に落ちた愚かな人だった。

それでも――。


ぷちん。


そのとき、私の中で、何かが切れる音がした。


「訂正しろ……」


震える唇から驚くほど低い言葉が零れた。

ヴェルネは両手を唇に当て、「まあ!」と目を丸くする。

メルヴィスはその仕草を真似ると、肩を震わせた。


「訂正しろ! みんな、嘘つきなんかじゃない!」


心臓が耳の奥で鳴り響き、

視界の縁が白く弾けた。

全身が震え、燃え上がるように熱くなる。


繋いだ姉の手が震えていた。


(それでも、わたしはもう――逃げない)


そのとき、姉の足元に散らばったガラスの破片が、かすかに光った。

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