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第七十三話 夢なら覚めないで

「さあ、エルフさんも。――こちらへどうぞ」


母の柔らかな声が響く。

昔と変わらない、すべてを包み込むような優しい微笑み。

流れるように美しい銀の髪が、肩をすべり落ちる。

――姉の髪は、やっぱり母譲りだ。


父の、厳しくもあたたかい眼差し。

そして、姉と同じ銀髪を揺らす兄の、まぶしい笑顔。


胸の奥が、きゅっと熱くなる。


夢じゃない。

ほんとうに――生きてる。


そう思った瞬間、涙がこぼれそうになった。

あたたかい空気が胸いっぱいに広がり、手のひらがじんわりと汗ばむ。

震えそうな指先を、ローブの上でそっと握りしめた。


私たちは、もうテーブルについてる。

あとは――フィーネさんだけだ。


早く、あたたかい朝食を、みんなで――。


「フィーネ、早くおいでよ!」


弾む声で呼びかけたその瞬間、

胸の奥で高鳴っていた鼓動が、ひとつ、どくんと強く跳ねた。



フィーネの耳が、ぴくりと動く。

そのわずかな仕草が妙に鋭く見えて、息を吸うのを忘れそうになる。


次の瞬間、彼女の細い指が音もなく弓の弦へと触れ、

アーモンド形の目が――刃のように細まる。


――空気が、変わった。


部屋の温度がすっと下がり、腕の産毛が総立ちになる。


「ありえない……。五年もの間、この状況で立てこもり続けるなど――」


低くつぶやいた声が、張りつめた静寂を切り裂いた。

フィーネは素早く矢を番え、ぎりぎりと弓を引き絞る。


引き手の肘がわずかに震え、矢羽が頬をかすめた。


――ガタン。


背中に冷たいものが走り、私は椅子を倒して思わず立ち上がった。

喉がきゅっと閉まり、息が吸えない。


背中を伝う冷たいものを感じながら、フィーネの視線を追う。

彼女の目は一点――父を射抜くように見つめていた。


私は、声の限り叫んだ。


「フィーネさんっ! やめてよ!

 わたしのお父さんだよ! どうしちゃったの!?」


声が裏返る。涙が出そうなのに、目が乾いて焼けるように熱い。

姉も顔色を変え、エリアスとバルドも腰を浮かせた。


エリアスの指先が柄に触れ、バルドの手が盾へと伸びる。

私はフィーネを睨みつけると、射線上に立ち、手を広げた。


「やめてっ! いくらフィーネさんでも許さない……から……っ!」


「……セレナ、だまされるな。これは――幻だ……!」


フィーネは弓を引き絞ったまま、冷たく言った。

尖った耳がびくりと跳ね、息を極限まで細くした。


「やめるんだ!」

「なぜだ!?」

「フィーネさん!」


エリアスもバルドも姉も、同時に叫ぶ。


ふと感じたざわめき。

騎士たちの朗らかな話声、食器とスプーンの触れ合う音――。


私は立ちはだかったままフィーネから視線を逸らし、周囲を見渡した。

こんな状況なのに――みんな笑っている。


母も、兄も、騎士たちも、おばさんも、子どもたちも。

フィーネに矢で狙われている父でさえも、私がかばっているのに――

変わらず笑顔を湛えたままスープを口にしている。


(おかしい……)


そして、たった一つの可能性に思い当たった瞬間――

世界から音が遠のいていく。


「……もうわかっただろう!? これはまがい物だ……!」


フィーネの言葉も、ひどく遠くに聞こえた。



心臓の音が耳の奥で、どくどくと重く響く。

空気が薄くなっていくようで、指先の感覚が遠のいていく。


それでも――私は信じたかった。

だからこそ、もう一度、“体で”確かめるしかない。


さっきは『感覚強化』が発動しなかった。

でも、重ね掛けすれば――。

やったことはないし、恐ろしいことになるかもしれない。


けれど――やるしかない!


(……これなら――どうだ!)


震える手を胸の前に掲げ、ありったけの魔力を込めて素早く詠唱を重ねる。

五人全員に――!


『感覚強化』×5――!


それぞれの足元に光陣が幾重にも重なり、眩い閃光が弾けた。


――うまくいった!


そう思った次の瞬間、世界が音を立ててひび割れた。

ぱきん、と空気が割れる音。

視界が反転し、温かな光景が、一瞬で色を失っていく。


割れた窓から風が吹き込み、

破れたカーテンが激しくはためく。

朝靄の向こうから――無数の呻きが押し寄せた。


花の香りと腐臭が混じり合った臭いが鼻を突き、胃の奥がぎゅっと縮む。


テーブルも、燭台も、埃にまみれていた。

花は黒くしおれ、皿は砕け散り、

床には焦げ跡と乾いた血が黒々と染みついている。


姉の髪から、真っ黒な花が塵となって崩れ落ちた。


そして、恐る恐る――父と母、兄の席に目を移す。


――三体の骸骨。


喉が鳴った。

逃げようとする身体を――無理やりひねる。


母の血塗れのドレスの切れ端。

焦げたように真っ黒な父と兄の骨。

背を押してくれた母の“手”は、もう――ただの骨だった。


喉の奥が焼けるように熱くなり、声が勝手にあふれる。


「……いや……いやだ……やだよ……! 嘘……嘘だよ……!」


掠れた声で否定しても、エリアスもバルドも、姉も押し殺したような沈黙の中にいた。

弓を下ろしたフィーネも、俯いて小さく首を振るだけ。


「お母さん……お父さん……お兄ちゃん……っ!」


叫びながら駆け寄る。


でも、兄の手は――触れた瞬間、骨が崩れて灰になった。

指の間から、さらさらと粉がこぼれ落ちる。


「やだぁぁぁぁぁっ!!!」


泣き叫んでも、何も戻らない。

みんな、もういない。


残っているのは、静かな風と、冷たい骨の音だけ。


風が吹き抜け、骨同士がこすれ、

カタ、カタと小さく鳴った。

その音が、私の中で“現実”を告げていた。


胸の奥が痛い。息ができない。

夢は完全に、砕け散った。


私は足をもつれさせながら、ふらりと視線を巡らせる。


――アンナは?


彼女だけは、生きていてほしい。

そう思って、最後の希望のように名を呼ぼうとして振り向いた――。


振り向いた先に見えたのは、

侍女服や侍従服を着たままのむくろが、幾重にも折り重なった光景だった。


黒ずんだ布。乾いた血。砕けた食器。

ランタンの煤が床に黒い円を描き、

その中央には――もう灯のないランタンの残骸だけが、ぽつんと残っている。


喉から、声にならない息が漏れた。


それは、悲鳴でも嗚咽でもなく――

“信じたかった世界の最期を見送る音”だった。


私は、がっくりと膝をつき、蜘蛛の巣と煤に覆われたシャンデリアを仰ぐ。


「……こんなの、嘘……だ……嘘だぁぁぁぁぁぁぁ――っ!!!」


――世界が、再び沈黙した。



次の瞬間、奥の扉が――ぎぃぃ、と軋む。


ぼんやりとした視界の中、そちらに目をやる。


その隙間から、二つの黒い靄がゆらりと漂い出た。

ただの魔力ではない。

それは、空気そのものが震え、肌が焼けるような圧。


「――っ!」


強い気配に、まるで殴られたような衝撃。

喉の奥が焼け、涙で滲んだ視界が白く弾ける。


一瞬で意識が遠のきそうになった。


エリアスとバルドの、そしてフィーネの呻き声が聞こえる。

膝が石に擦れ、痛みで何とか意識を繋ぎ止めた。


まずい――。


歯を食いしばり、何とかすべての魔法陣を解除する。

それでも、胸の奥を焼くような絶望と、胸が引き絞られるような魔力のうねりが止まらない。


(この感覚――!)


喉の奥から吐き気と共に、あの夜が蘇る。

あの嵐の中。雨と血と死の匂い。

“彼女”の名を、誰よりも知っている。


靄の中心から、二つの影が形を取った。

それは――少年と少女。


少女のあどけない顔。

まるで無邪気な幼女のような佇まい。


忘れもしない――。


私は、歯を食いしばり、立ち上がる。

ありったけの力を込めて、その名を喉から絞り出した。


「……ヴェルネ――!」


――そのとき。


ずっと泣きもせず、叫びもせず、押し黙ったまま椅子に座っていた姉の――

冷え切った手がそっと私の手に触れた。

まるで、失われた温もりを――もう一度、確かめるように――。


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