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第七十二話 夢と現の狭間で

私は姉と並んで、大好きだった侍女長の腕の中にいた。

その温もりに包まれた瞬間――胸の奥で、ひとつの記憶がそっと息を吹き返す。


あの日。

花祭りのざわめきの中、アンナと歩いた陽だまりの道。

笑い声と花の香りが、春風のように頬を撫でていく。

遠い夢のような光景が、ゆっくりと心の底から浮かび上がってきた。


けれど、その優しい記憶は――かすかな震え声に遮られる。


「……侯爵様と奥様、それにお兄様も……お待ちですわ」


掠れた声が、静まり返った庭の空気を震わせた。

胸の奥がきゅっと鳴り、夢の中から、さらに夢のような現実へと引き戻される。


「――本当に……!?」


思わず漏れた私の問いに、アンナは小さく頷いた。

震える指で涙をぬぐい、目元を押さえながら――それでも微笑む。


その笑顔を見た瞬間、胸の奥で何かが弾ける。

息が震え、視界が滲み、頬を伝う涙が止まらなかった。


私は無意識に姉の手を強く握る。

姉もまた、目を潤ませながら静かに微笑んだ。


エリアスとバルドが小さく息をつき、

その口元に、かすかな安堵の色が浮かんでいた。


――けれど、フィーネだけは違った。


弓を下ろしたまま首をかしげ、耳をぴくりと動かす。

その沈黙が、荒れ果てた庭園の冷たい空気に溶けていった。


ふと、あの嵐の夜――ヴェルネと初めて邂逅したときのことを思い出す。


(そうだ、私はもう油断しないって決めたんだ)


そっと片手を背に回し、誰にも気付かれないように指先で小さく魔法陣を描く。


――『感覚強化』。


あれ……陣が完成しない。

魔力が指先からすっと消えた。

まるで、見えない誰かに吸われたみたいに。


指先が一瞬、氷みたいに冷たくなる。


もう一度。


――『感覚強化』。


……だめだ。


(……まだ魔力は残ってるはずなのに)


こんなこと、初めてだ。


けれど、確かにアンナは生きてる。

この鼓動と涙が証拠。心配し過ぎだよね。


きっと緊張の連続から解放されて、感覚が鈍ってるだけ。


胸の鼓動が、まだ高鳴り続けている。


(――もうすぐ、お父様やお母様、お兄様に会える!)


***


アンナが先に立ち、五年ぶりに屋敷の扉をくぐる。

私たちはその背を追い、懐かしい廊下を進んだ。


埃一つない廊下。

想像とは違った。きちんと掃除されてる。


(きっとアンナだけじゃなく、侍女や侍従のみんなも無事だったんだ。

 騎士団の人たちは……無事かな……)


そんなことを想いながら歩くと、昔と変わらないアンナのぴんと伸びた背が目に入った。


刹那、再びあの花祭りの日の記憶が胸をよぎる。


祭りで華やぐフィオーレの大通り。

街の名を冠したフィオーレの花を手にしたアンナが、笑って言った。


「姫様方、こちらをどうぞ」


姉とお揃いの花を髪に挿し、顔を見合わせて笑った。

花の香り、陽の光、道行く人々の笑顔。


「本当に、お似合いですよ」


微笑む店主のおばさん。

花冠を頭に乗せて駆けまわる、子どもたちの声。

――あの景色が、胸の奥で儚く揺れた。


今はもう、あの子供たちも、おばさんも、

祭りを楽しむ人々も、いない。

そう思うと、胸がぎゅっと締めつけられる。


それでも、五年の歳月を生き残った人がいる。

そう信じるだけで、足取りが少し軽くなった。


壁には懐かしい肖像画。

厳しい眼差しの父、穏やかな笑みの母。そして兄と私たち。

燭台には灯がともり、テーブルの花瓶には花が生けられている。


――その光景は“私たちの家”。記憶と完全に重なる。


(お父様……お母様……お兄様……)


名を呼ぶたびに、喉の奥が熱くなる。

屋敷の外の死霊の唸り声はもう聞こえない。


もうすぐ会える。

それだけで、すべてが満たされていた。


やがて館の最奥――重厚な扉の前で、アンナが立ち止まった。

ランタンの炎が古びた木目を照らし、

その影がゆらゆらと私たちの顔に揺らめく。


「……ここで、皆さまがお待ちですよ」


微笑むアンナの嬉しそうな声。


胸がどくん、と脈打つ。

姉が私の手を握り返した。


「行きましょう、セレナ」


「……うん」


手を取り合い、扉の前に立つ。

その向こうには、きっと懐かしい笑顔がある。


ルクレール領陥落の報を聞き、泣き続けた孤児院の夜。

涙を見せずに抱きしめてくれた姉。

そして、あのとき思い出した――孤独のうちに消えるしかなかった私の前世。


それ以来、五年間。

姉との絆だけが私の世界のすべてだった。


けれど、もう絶対に叶わないと思っていた再会が――もうすぐ。


どくん、どくんと鼓動がまるで、廊下に響いてるみたいだ。


(この扉の先に、家族が……)


――けれど、その瞬間。


フィーネの矢羽が、かすかに震えた。

弓を離さぬまま、鋭い瞳が扉の隙間を射抜く。

わずかに唇が動くのが見え、誰にも聞こえぬほどの声で彼女は呟いた。


「……整いすぎている。何かおかしい……」


一瞬、空気が凍りつく。


『ヴェルネの罠だ』――あのフィーネの言葉が脳裏をよぎる。


けれど、私は首を振った。


(フィーネ、心配しすぎだよ。

 アンナは……あのアンナなんだ。

 きっと、五年間みんなで助け合って、ここに立て籠もってたんだよ。

 ――お父様なら、そのくらいやってのける)


そう、信じるしかなかった。


だって、そうじゃないと、この胸の高鳴りが嘘になってしまう。


期待と安堵と、ほんの少しの震えを抱えたまま――

姉の手のぬくもりを感じながら、アンナが両手で扉を押し開けるのを見つめていた。


***


扉が――音を立てることすら忘れたように、静かに開く。

眩い光が、まるで夜明けのように廊下へ流れ込んだ。

空気がきらめき、時間そのものが逆流していくよう。


目が慣れてくると、その先に広がっていたのは――

信じられない光景だった。


まぶしいほど明るい広間。

天井のシャンデリアはすべての灯がともり、壁の絵画も、磨かれた床も、五年前のまま。

いや、それどころか――当時よりずっと美しい。


「……うそ……」


思わず声が漏れる。


花々が飾られたテーブル。

窓の外には季節外れの花畑が揺れ、

パルミール平原の風が柔らかくカーテンを揺らしている。


風が通り抜け、花の香りが胸をくすぐった。

まるで、時の流れさえ香りに溶けてしまったように。


長テーブルの奥には――見間違えようのない父と母。

その隣に、笑顔の兄が立っていた。


「よくぞここまで来てくれた」

「お帰りなさい、アリシア、セレナ」

「お前たちの帰りを待っていたよ」


父と母、兄の懐かしい声が響いた瞬間、胸の奥がじんと熱くなる。

涙があふれて、頬を伝う。


姉の肩が震え、唇が震えながら笑みを作る。


「ただいま帰りました……。

 お父様……お母様……お兄様……!」


駆け寄ろうとすると、誰かが袖を掴んだ。

見ると、そこには――あの懐かしい顔。


「花屋のおばさん……!」


「姫様、無事でよかったねえ、ほんとに!」


そう言うと店主はフィオーレの花を二輪、姉と私に手渡した。そっと近づいたアンナが微笑んで、姉と私の髪に挿してくれた。


(また、姉さんとお揃いだ)


姉と顔を見合わせて笑い合う。


「お似合いですよ、アリシア様、セレナ様」


アンナがにっこりと微笑んだ。


すると、笑いながら子どもたちが駆け寄ってきた。

祭りの日と同じ花冠を頭にのせ、無邪気に笑っている。


夢にまで見た光景。

あまりに懐かしくて、息をすることすら忘れそうになる。


振り向けば、周りには騎士団の面々。

磨き抜かれた甲冑に身を包み、皆朗らかに笑っていた。


テーブルにはパンとスープ。

焼きたての匂いが、鼻をくすぐる。


「さあ、お祝いよ。冷めないうちに頂きましょう」


母が柔らかく笑い、椅子を勧める。

温かい手が背を押す。


(――こんなことって、あるの……?)


生きてる。みんな、生きてる。

信じられない。けれど、目の前にあるのは確かな光景。


姉がそっと囁く。


「……セレナ、夢みたいね」


私は頷いた。


「うん。……でも、これは現実だよ」


父はエリアスたちに声をかける。


「これはこれは王子殿下に、公爵閣下のご子息ではないか」


父が両手を広げ、広間の入り口に呆然と立つエリアスとバルドを出迎えた。


姉と私も二人を手招きする。


エリアスは剣の柄から手を離し、微笑んだ。


「……まさか、生きていたとは。奇跡だな」


父母に頭を下げ、バルドは静かに肩を震わせた。


「さすがは、父の盟友――“北の狼”、ルクレール侯爵閣下だ……」


ふたりの目尻がきらりと光る。

そんな姿、初めて見た。


けれど――何かが違う。

視線の奥が、ぼんやりと霞んでいる。

まるで夢の中で笑っているみたいだ……。


(フィーネ……?)


声をかけようとしたけれど、喉の奥が冷たくなって、言葉が出なかった。


フィーネは広間の手前、扉の外に佇んだままだった。

彼女の矢羽が、再びかすかに震えた。

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