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第七十一話 死霊の館

「……みんな……待って……たんだよ……?」


ぞわり、と肌の上を冷たいものが這う。

見開いた瞳の奥で、時間が凍りついた。


空気が――止まった。


――少女の口が、あり得ないほど大きく裂けた。

膝をついたまま後ずさる姉の肩口へ噛みつく――


「――っ! アリシア!」


ひゅ――っ、トン。


エリアスの叫びを、乾いた矢音がかすめる。


少女の眉間に、水鳥の羽根の矢が突き立った。

矢羽が朝の光を受け、淡く輝く。


次の瞬間、姉の左右にエリアスとバルドが駆け込む。


隣でフィーネが、ふーっと息を吐き、弓の弦を戻して素早く次の矢を番える。

横顔に迷いは欠片もない。


「走れっ!」


フィーネの声に、私は地面から足を剥がすようにして走った。


少女の体がびくりと跳ね――


キャーーーーーッ!!


耳を裂く悲鳴が、少女の喉の奥から街中へ響き渡る。

笑ったように口を開いたまま――

糸の切れた人形のように、ぱたりと倒れた。


その瞬間。


「……う、あああああああああああああ……っ!」


地の底から響くような呻きが、一斉に街全体に満ちる。

耳からではない。

体の隙間から染み込み、内臓へ届くような振動そのもの。


「姉さんっ!」


膝をついたままの姉を抱き起こす。

震える瞳――だが次の瞬間、姉は強く息を吐き、瞳に再び光が宿る。


「……大丈夫、セレナ。――立てるわ」


私の手を借りて立ち上がると、姉は聖杖を強く握りしめる。


五人は姉を中心に円陣を組んだ。


振り向くと――さっきまでいた路地の建物の扉が、ばたん、と開いた。

閉ざされていた扉が次々と開く。

次いで花壇の土が盛り上がり、しおれた花々がまき散らされる。

続けて窓。さらに路地の奥、馬小屋、物置――


あらゆる場所から、“それ”が溢れた。


目を疑う。

まるで街そのものが呻きながら目を覚ますかのように。

家々の奥から人影――いや、“死者”が――よろめき出てくる。


(……まさか、みんな……!)


息が詰まり、胃の底が氷のように冷たくなる。

街中に眠っていた死者が――一斉に、目を覚ました。


腐った肉が軋み、骨が砕ける音が重なり合う。

足音と呻きが波のように押し寄せた。

石畳を踏み鳴らす響きは無数の鼓動の合唱――。


風が逆巻き、腐臭と花の香りが渦を巻く。


(……そんな、嘘……でしょ……)


胸が凍り、喉が乾く。

息だけが、ひゅう、ひゅうと掠れて漏れた。


腕が震え、白杖を握る手に力が入らない。

膝裏が抜けそうになるのを、必死に踏みとどまる。


それは、怨嗟と恐怖の壁が押し寄せて来るようだった。


花壇を踏みしだき、何百、何千という死霊が――

五人を囲み、呻きを上げる。


「くるぞ!」


バルドが咆哮し、巨大な盾を構える。

押し寄せた死霊を一撃で押し返し、骨のような腕が砕け飛ぶ。


エリアスの剣が光を纏い、斬り払うたび白い閃光が走る。

焼けるような臭気とともに、数体の死霊が弾き飛ぶ。


フィーネの矢が迷いなく次々と放たれ、放つたびに一体が崩れ落ちる。

――彼女はすでに気づいていたのだ。


「噴水を背後に密集!」


エリアスの鋭い指示。

全員が即座に動く。


姉が両手を合わせ、白い光を広げた。


――『浄化』!


光の波が広場を満たし、数体の死霊が蒸発するように消える。

腐臭が焼け焦げる匂いへ変わり、白い靄が立ちのぼる。


私も続けて詠唱する。

喉の震えを押さえ込み、声が裏返らぬよう必死に――


――『浄化』!


光が弾け、何体かが崩れ落ちた。

だが――焼ける肉の臭いの向こうに、なお何百体も立っている。


(これじゃ……きりがない!)


息が荒くなり、指先が震える。

魔力の流れが荒れ、胸の奥が焼けつくように熱い。

心臓の鼓動が速すぎて、視界がにじむ。


――ばしゃり。


背中に、冷たい飛沫。振り向いた瞬間、噴水の中で泡が弾ける。

ぶくぶくと膨れた死体が水面を破り、立ち上がった。

水草の絡みついた腕が、救いを求めるように姉の聖衣を掴もうと――。


腐りかけた肌、露出した骨、白く膨れた指先が光を反射する。

その腕が届く刹那――聖剣の閃光。


エリアスの一撃が、死霊を真っ二つに裂く。


「まっすぐ、領主館へ!」


エリアスの叫びが響く。

見れば――広場正面、領主館の柵の向こうだけが、奇妙な静けさに包まれている。

まるでそこだけが、この世と地獄の境界のようだった。


「むうんっ!」


バルドが盾を掲げて突撃した。

十体以上の死霊が吹っ飛ぶ。


そこへ私と姉の浄化の祈り、フィーネの矢が重なる。

エリアスが飛び込み、一気に血路を開いた。


領主館の柵が見えた。


――ほんの一瞬の隙間。


「――今だ!」


エリアスの叫び。即座に私は白杖を掲げる。

一瞬の沈黙――そして。


『俊足』×5――!


詠唱と同時に五人の足元に五重の光輪が浮かぶ。

足裏から熱が駆け上がり、心臓がひときわ強く打つ。


五人の足が、一気に軽くなった。


「走れ!」


再びエリアス。

バルドが殿を務め、私たちは駆け出す。


石畳を蹴る音が響き、腐臭の風を裂きながら――

私たちは一気に領主館の柵へ走り抜けた。


がちゃり。エリアスが扉を押し開ける。


――全員が飛び込み、すぐにバルドが柵を閉める。


次の瞬間――


がちゃん!

死霊の第一波が柵に激突。


がちゃ、がちゃがちゃ――。

群れが柵に取りすがり、手を突き出し、呪詛のような呻きを上げる。

金属が悲鳴を上げるたび、私の心臓も締めつけられた。


(……なんとか、持ちこたえそう……)


けれど、見回せば、屋敷全体が死霊の群れに囲まれている。


(……閉じ込められた――!)


肩で息をしながら視線を上げる。

そこにあったのは――荒れ果てた花壇。


そして、懐かしい屋敷の姿。


手入れの失われた花々の向こう、死霊のざわめきの中で、あの頃と変わらぬ屋敷だけが――静まり返っていた。


***


ふっと、屋敷の扉が――ぎいぃ……と音を立てて開く。


暗がりの中央で、ランタンの灯がゆらめいた。

灯を掲げる影が、こちらをじっと見つめている。


緊張が走る。

エリアスは剣の柄に手をかけ、バルドは皆の前で大盾を構えた。

フィーネは矢を番え、姉は聖杖を強く握り締める。


影が、一歩、二歩と前へ。

昇り始めた朝日が、その姿を照らし出す。


――侍女服の女性。


(……アンナ?)


息が止まり、背筋が凍り付く。


それは――私たち姉妹を子どもの頃から可愛がってくれた侍女長だった。


まさか、アンナまで――。

胸の奥が、どす黒く塗りつぶされていく。


さらに一歩、二歩。

アンナはゆっくりと階段を降りる。


その顔が、朝の光に照らされた。


真っ青な顔。けれど――


――その瞳に、きらりと光るもの。


(……涙?

 死霊が、涙を――?)


かしゃり――エリアスの手が剣の柄にかかり、バルドが盾を起こす。

フィーネの指が弓弦を強く引き絞る音。

けれど、姉も私も――足が縫い付けられたように一歩も動けない。


張り詰めた空気が、ひときわ高く震え――


「待って!」


姉の声が響いた。


その瞬間、アンナはランタンを放り投げ、駆け出した。

迷いも恐れもなく、まっすぐ――私たち姉妹の下へ。


「アリシア様! セレナ様!」


衝突するように、私たちは抱きしめられた。

その温もりは、あまりにも現実的で、あまりにも懐かしい。


胸の奥で息が弾ける。


「――アンナ……なの?」


姉が震える声で呟く。


「お嬢様――!」


抱き返した腕の中に、確かな鼓動があった。


――生きてる人の音、生きてる人の声。


震えながら、私は心の中で呟く。


(アンナは……生きてる……!)


荒れ果てた庭園に転がったランタンは、まだ消えずに光を揺らしていた。

その小さな灯が、まるで“生”を証明するように。

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