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第七十話 花の街

朝靄の中、丘をゆっくりと降りる。

灌木や繁みの影に身を潜め、一歩ごとに慎重に進んだ。

近づくほどに心臓は早鐘を打ち、背中を冷たい汗が伝う。


街を囲む塀はところどころ破れ、矢が突き刺さったまま。

侵攻の爪痕が生々しく残っていた。


けれど――その時、懐かしい花の香りが鼻先をかすめた。


街の誇りでもある“花の街”――“パルミールに咲く花”という呼び名。

それを象徴する街道の両脇に見渡す限り広がる、街の名の由来でもある“フィオーレ”の花畑が、雑草ひとつなく整えられている。


明らかに、人の手が入っている。


(……花が生きてる。いや、誰かが手入れしてる……!)


私はしゃがんだまま、そっと姉の手を握った。

姉の潤んだ瞳がこちらを見返し、力強く頷く。


(やっぱり――姉さんも同じことを考えてる!)


街の門へと視線を移す。

門は半ば壊れ、倒れたまま。

開かれたその向こうに、門衛の姿はない。


――いや、それどころか。

門の周囲からは人の気配がまるで感じられなかった。


これまで、魔族に支配された数多くの街を見てきた。

けれど、こんな街は初めてだった。

どの街にも、人か亜人兵の姿や、生活の気配が必ずあったからだ。


エリアスが低く言った。


「街の中を確認しよう。生存者を確認の後、魔族がいるなら排除。

 すぐに第一師団が進駐し、街の安全を確保する」


短い指示のあと、仲間たちに目配せし、全員が静かに頷く。

風がわずかに流れ、ふわりと届くフィオーレの花の香り。

懐かしい香りに、胸の奥で何かが弾ける。


母の笑顔、父の背中、兄が呼ぶ声――遠い日々の影が脳裏をかすめた。


私たちは正門を避け、草を踏みしめながら、

塀の一角――大きく崩れた部分へと身を寄せて進む。

朝靄の中、風の音すら息を潜めたように、静まり返っていた。


***


私たちは裏道を抜け、中央通りに出た。

中央広場のほど近く、建物の影から様子を伺った。


妙なことに気づく。

途中で見かけた家々は、扉こそ固く閉ざされているものの、

窓には灯りがともっている――なのに、人の気配がまったくない。


朝だというのに、朝餉の匂いも、竈の煙も、焼きたてのパンの香りもしない。

街の“呼吸”がすっぽりと抜け落ち、

ただ、花の香りだけが漂っていた。


(確かに、人は“いる”。

 この整った街が、誰の手も入らずに保たれるはずがない……)


期待に胸は高鳴ったまま。

けれど、中央広場もまた――がらんとしていた。

やはり、人の気配はない。


噴水は枯れ、池の濁った水面が陽光を鈍く反射している。

けれど、フィオーレを訪れる旅人を最初に出迎える、

あの噴水のまわりの花壇だけは、美しく咲き誇っていた。


――ここも、しっかりと手入れされている。

この街は、きっと“生きてる”……!


私は姉と視線を交わし、そっと頷き合う。


その瞬間――視界の端に、動く影。

花壇へ静かに歩み寄る、小さな少女の後ろ姿が見えた。


ごくり、と喉が鳴った。


年のころは十歳ほどだろうか。

薄汚れたワンピースに、金の髪は色を失い、ぼさぼさのまま。

長く洗っていないのか、光を受けても鈍く沈んで見える。


ぎこちない足取りで花壇へと歩み寄り、

そこに置かれた小さなスコップを手に取ると――

何の迷いもなく、花壇の手入れを始めた。


土を掘る音が、静まり返った広場にかすかに響く。

あまりに日常的で、あまりに場違いなその音が、

逆に胸の奥をざわつかせた。


(……人だ。生きてる……!)


心臓がどくん、と大きく跳ねた。

指先が冷え、息を吸うのも忘れる。


けれど同時に、背筋を冷たい何かがなぞっていった。

この街には“何か”が違う――そんな直感が、喉の奥を締めつける。


「僕が行こう」


エリアスが低く言った。


「いえ、わたしが行きますわ」


姉がそれを制するように静かに立ち上がる。


その一瞬、フィーネの低い声が風に混じった。

その声音は、既に何かを知っているかのような調べ。


「油断はするな」


その声に、空気がぴんと張りつめる。


「何かあれば、すぐに行く」


エリアスは剣の柄に手をかけ、

バルドは盾を引き寄せ、

フィーネは背の矢羽に指を添えた。

私も白杖を強く握り締める。

手のひらが汗で滑るのに、力を緩めることができなかった。


姉はゆっくりと歩み出し、

花壇にしゃがむ少女へと近づいていく。

二人の影が、朝のまだ薄暗い光の中で重なった。


息をするのが怖い。

もし音を立てたら、すべてが壊れてしまいそうで――。


少女は振り向かない。

姉は膝を折り、そっと声を掛けた。


「こんにちは。……少し、お話をしたいのだけれど」


その声は、まるで風の音を壊さぬような柔らかさだった。


少女は――ゆっくりと振り向いた。



その顔を見た瞬間、呼吸が止まった。


白く濁った瞳。焦点が合っていない。

頬の皮膚はところどころ剥がれ、血の気のない唇がわずかに開いている。

口元から乾ききった血が、細い筋のように首筋を伝っていた。


(……あ……)


喉が凍りつく。

頭の奥が、きいんと鳴った。

思考が止まり、体が動かない。


風が吹いた。

そのたった一陣の風で――少女の髪が揺れ、

首の後ろから黒ずんだ糸のような何かが――ぶらりと垂れた。


それが、剥がれた皮膚か、腐りかけた血管か――わからない。

ただ、そこから立ちのぼる微かな腐臭が、

花の香りと混じって鼻を刺した。


(……死霊……!)


理解より先に、体が震えた。

叫びたくても喉が閉じて声が出ない。


少女は――ゆらり、と首を傾けた。

ぎこちない動作。骨が軋むような音。

唇が震え、乾いた音を立てる。


「……お……か……え……り……」


その瞬間、世界が崩れた。


姉が目を見開き、後ずさる。

聖衣の裾が風に舞い、光の中で花びらが散った。


「っ――今行く!」


エリアスの声が鋭く響き、彼は剣を抜くと同時に駆けだした。

バルドが盾を低く構えて突進し、フィーネは弓を引き絞りながら、低く呟いた。


「やはり……そういうことか。ヴェルネの罠だ!」


その声には、もはや驚きもなかった。

まるで――最初から知っていた人の声。


少女の口元が、にやりと裂けた。

唇の端が耳元まで裂け、乾いた血がぱきぱきと剥がれる。

その口から、かすれた声が漏れた。


「……ひめさま……どうして……きて……くれなかったの……?」


かくん、と少女の死霊は首を傾げた。


瞬間、腐臭が風に乗り、広場を満たす。

花壇の花々がひとつ、またひとつと萎れていく。


姉が息を呑み、震える唇から言葉が零れた。


「……そんな……まさか……」


その声は、まるで祈りのように儚く空へと消えた。


朝靄の煙る広場の空気が、音もなく――死んだ。

評価やブクマをしてくださった皆様、本当にありがとうございます。

一つ一つがとても励みになっています。

いよいよ終盤ですが、最後まで楽しんでいただけるよう頑張りますので、引き続きお付き合いいただけたら嬉しいです!

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