第七話 奇跡
あの夜の約束も、涙も、すべてを置き去りにして――
月日はゆるやかに流れながらも、無情に過ぎ去っていく。
そして、そのときが訪れたのは、ある冬の午後のこと。
孤児院の石の小房は、薬草の蒸気と汗の匂いでむせ返るほど満ちていた。
その中央で、小さなベッドに横たわる少女が熱にうなされている。
まだ七つにも満たない、戦災で家族を失った小柄でおとなしい子。
いつも姉の裾をつまんで歩き、
春には花飾りをもらい、
夏には本を読んでもらい、
秋には歌声をせがんでいた。
そしてつい先日も姉の光の花を笑顔で追いかけていた――。
けれど今は、その小さな唇さえ乾ききり、途切れ途切れの息が胸を震わせるだけだった。
まだ七つ。
何も悪いことなんてしていないのに。
家族だけでなく、命まで失おうとしている。
神さま、どうして――。
私は胸の奥で叫ぶことしか出来ない自分がもどかしかった。
光の魔法を使えるのは――白魔導士だけ。
ほとんどの白魔導士は味方の力を底上げしたり、敵の力を削ぐ支援魔法を得意とする。
しかし、ごく一部の素質のある者だけが癒しの御業――治癒魔法を授けられる。
つまり、治癒魔法を行使できる者は王国でも少数であり、神に仕える司祭やシスターでさえ、傷を癒すことのできる者はほんの一握りだった。
だから、貧しい者は薬と祈りにすがるしかなかった。
孤児院も例外ではなく、私たちが助けられる命は限られている。
「しっかり……お願い」
「神よ……」
シスターたちが必死に薬を煎じ、震える声で祈りを重ねる。
だが、その間にも少女の呼吸はますます浅くなり、土気色の頬は蝋細工のように冷たく沈んでいく。
名前を呼んでも、もう返事はなかった。
「このままでは……」
誰かの声が崩れそうに震えた。
(でも……もしかしたら――)
姉も私も、光を操り、灯すことは出来る。
きっと、光属性の魔法――白魔導士の才能はあるのだろう。
でも、正式に光の扱いを学んだことはないし、どうしたら灯した光を癒しの御業に変えることが出来るかは知らなかった。
けれど――。
姉がふっと私を見た。
紫の瞳が短く問いかける。――やってみよう。
私は喉の奥で息をのみ、こくりと頷いた。
「マルグリット司祭……よろしいでしょうか?」
姉の声は落ち着いていた。
司祭ははっとして姉を見つめ、やがて静かに十字を切るように手を掲げる。
「神の御手が共にありますように」
姉は髪を紐でまとめ、袖を静かにたくし上げた。
「冷たい水と清い布を少し……窓を指一本だけ開けてください」
シスターたちが慌ただしく従い、部屋のざわめきが祈りの沈黙に変わる。
私は布で少女の額を拭い、胸元の紐を少し緩めて呼吸の通り道を作った。
「光は弱いところから、ゆっくり……私に合わせて」
「うん、合わせる」
姉アリシアと私は、静かにその子の枕元に並んで座った。
私はぜーぜーと荒い息を吐くその胸元に手をそっと重ね、
姉は小さな手を握って目を閉じた。
――淡い光がにじんだ。
姉の指先からこぼれたそれは花びらのようにひらめき、やわらかく少女の身体を包み込む。
光はすぐに広がり、石壁までも淡く照らし出した。
「……神よ……」
誰かの声が震え、祈りの言葉が熱を帯びる。
青ざめていた頬に血色が戻り、閉じられたまぶたが小さく震える。
私の手の灯りの下で止まりかけていた胸がふっと上下し、少女は息を取り戻した。
「……あ、あぁ……!」
シスターの一人が口を覆い、涙声を洩らす。
「神の御業……これは、”聖女”の奇跡です……!」
ランプの炎さえ揺らめくのを忘れたように、皆がただ息を呑む。
やがて少女はかすれ声で「……ありがと、アリシアお姉ちゃん」と囁いた。
その小さな手が姉の髪に触れようと伸びる。
次の瞬間――部屋は歓声に満ちた。
「すごい!ほんとに治った!」
「神の御業……治癒の奇跡……!」
子供たちは瞳を輝かせ、シスターたちは涙を流し、司祭は深々とひざまずいて祈りを捧げた。
誰もが――自然に――姉へ視線を注ぐ。
その姿は、もう孤児院で育ったただの娘ではなかった。
姉こそは「選ばれた者」だと、誰もが悟ってしまうほどに。
私も、小さな灯を必死にその胸へ押し込むように重ねていた。
けれど、周囲の目は姉ばかりを追う。
皆の歓喜は、姉を――姉だけを包んでいた。
「やっぱりアリシア様は特別です」
「将来、きっと聖女様になられるでしょう」
声が飛ぶたび、私の手の中の光は小さく震えた。
(私の灯は役に立ったのかな……)
姉のまばゆい光が部屋を満たすほど、私の存在は影となり、かすんでいく気がした。
そのとき、マルグリット司祭が私のそばに膝をつき、白い皺だらけの手で静かに頭を撫でてくれた。
「お姉さんはお姉さん。あなたはあなた」
言葉は柔らかく、しかし揺らがない。
暖かかった。そう言ってもらえて嬉しかった。
それなのに、胸の奥で何かが引き裂かれたような感覚――。
姉は振り返り、いつものように微笑んだ。
その慈愛に満ちた表情は淡い光に縁どられ、銀糸の髪は光をはらんで白銀に燃え立つ。
――その瞬間だけ、姉は人ならざる存在のように神々しかった。
「セレナだって、やればできるじゃない」
その優しさもまた、燈火のように暖かい。
「わたしだって、二人一緒だからできたのよ」
姉の言葉はいつも通り。何も変わらない。
(姉がそう言うのなら、きっとそうだ)
私も、いつもの笑顔を姉に向け、小さく頷いた。
けれど、その暖かさの縁に、小さな痛みが触れる――心の奥をそっとつままれるように。
――きっと、いくら手を伸ばしても、姉の背中には届かない、と。
その光は、私には眩しすぎたから。
***
厳しい冬を超えて春の気配が漂い始めたころのこと。
サン・クレール孤児院の門前に、孤児院には不釣り合いなほど豪奢な馬車が停まった。
黒漆に金の紋章を刻み、四頭立ての白馬が吐く白い息が寒空に淡く溶ける。
孤児院の子供たちは窓にへばりついて歓声を上げ――
シスターたちは慌てて身なりを整え、門に出迎えた。
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