表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
69/100

第六十九話 故郷

再びフォルテア砦に戻った私たちは、歓声とともに討伐軍に迎えられた。

作戦会議では、パルミール平原を北上し、一気にルクレール領を奪還する――という計画が伝えられる。


ルクレール領。

それは、私たち姉妹の故郷だった。


「ここまで来た」という想いと、再び蹂躙された故郷を見るかもしれないという恐怖。

ふたつの感情が胸の奥でせめぎ合う。

けれど第一師団の士気は高く、私たちもその熱に押されるように出立した。


道中、いくつもの砦や街、村を奪還した。

傷ついた街並み。

魔族の支配の下で怯えながらも、細々と生き延びていた人々。

ある街では、領主一家を館の地下から救い出すこともあった。

人々の涙と歓声に迎えられるたび、否応なく軍の士気は高まっていく。


そして――。


ロベール卿率いる第一師団は進撃を続け、ルクレール領の中心、花の街フィオーレの手前に辿り着いた。

私たちの故郷であり、領主館が建つ街。

その目前で軍は足を止めた。


その日の野営でのこと――。


***


焚き火がぱちぱちと音を立てて弾けた。

焦げた木の香りが夜気に溶け、星の光がかすかに煙に滲む。

私は丸太に腰を下ろし、隣には姉。


私は白湯の椀を両手で支えて、じっと湯気のゆらぎを眺めていた。


少し離れたところで、フィーネが弓の弦を確かめながら黙々と手入れをしている。


――ピーン……。


時折、彼女が弦を弾く音が夜闇に溶けていった。


バルドとエリアスは向かいで小声を交わし、その声が静かな夜気に紛れて消えていく。

近くの焚き火からは、兵たちの明るい声が風に乗って流れてくる。


「すごいな、フォルテア砦を出たのはついこの間なのに、もうルクレール領まで来るなんて」

「ああ、勇者様たちの活躍あってこそだ」

「魔王軍も組織だった抵抗はないし、このまま魔王城まで――」

「そうだな。それに奪還した街や村の人の笑顔、忘れられない」

「確かに。ああいう笑顔が勇気をくれるよな」


私は思わず顔をほころばせた。


――ある街の領主館。

鬼将オーガー・ジェネラルを倒した私たちは、屋敷の地下へと進んだ。


湿った空気の漂う地下牢。


「――ひっ!」


足を踏み入れた瞬間、奥から小さな悲鳴が上がった。

姉が聖衣を揺らし、牢の前に進み出て静かに告げる。


「王国軍です。助けに来ました」


暗がりの奥から覗いた人々の顔。

あの安堵と涙――あれこそ、私たちが戦う意味だった。


――ぱちっ。


焚き火が小さく爆ぜ、炎がゆらめき、現実へと戻る。


フィーネがふっと呟いた。


「……順調すぎる。

 魔族の思考を読むのは難しい。けれど、愚かではない」


一瞬、焚き火の音さえ遠のく。

誰もが言葉を失い、火の粉が舞い上がる音だけが耳に残った。

風が止まり、夜が深く沈む。



「アリシア、大丈夫か?」


焚き火越しにエリアスが問いかける。

姉は小さく頷き、炎を見つめたまま微笑んだ。


「……ええ。わたしなら大丈夫。

 でも……明日、現実を見るのは少しだけ怖いわ。

 小さいころ、噴水に母の花冠を浮かべたの。

 白い花がくるくる回って、まるで風に踊る天使の輪みたいで……。

 あの噴水が壊れていたら、きっと泣いてしまうかも」


私はその言葉を聞きながら、記憶の奥をたどった。

あのとき、風が水面を撫で、花冠が光を受けて回った。

姉の笑顔が眩しくて、私はただ見とれていた。


エリアスが少しだけ笑って言った。


「噴水が壊れていても、思い出は壊れないさ。

 ……その光景は、いつまでも心の中に残ってる」


その言葉に、姉の肩がかすかに揺れた。

焚き火の光が彼女の頬を照らし、柔らかく微笑む。


バルドが静かに頷く。


「故郷というのは、どんなに時を経ても心の奥で生き続ける。

 だからこそ、たとえ壊れていても――受け止めねばならん」


普段ほとんど言葉を口にしないバルドが、こんなにも饒舌に。

けれど、それだけ彼なりに姉を気遣っているのだろう。


「……うん」


姉の肩がわずかに揺れる。

その横顔を見て、私の胸も静かに締めつけられた。


「セレナ」


姉がこちらを向く。


「明日、何があっても落ち着いてね。……まだ旅の途中。

 わたしたちは魔王を討つまで、歩みを止めるわけにはいかないのだから」


「うん……分かってる」


そのとき、再び弦の音が鳴った。

フィーネが手を止め、目を細めて空を仰ぐ。


「……風は変わらない。

 街が壊れても、あの風はきっと同じ。明日は……晴れるわ」


その声は淡々としているのに、不思議と胸の奥が温かくなる。

エリアスが微笑み、バルドも静かに頷いた。

炎が大きくはぜ、光がみんなの顔を照らす。


夜空には無数の星が瞬いていた。

けれど、どこかで風がざわりと音を立てた気がした。

その一瞬、火の粉が流れ星のように尾を引いて消える。


――まるで、誰かの祈りが風にさらわれていくみたいに。


焚き火の火の粉が夜空へと舞い上がり、星とひとつに溶けていく。

その夜、誰もが“明日こそ”と信じていた。


***


私たちはロベール卿の命で、夜明けとともにフィオーレへ斥候に出ていた。


――フィオーレを一望できる小高い丘を、一歩一歩踏みしめる。


「冷えるわね……」


「うん……」


私は姉のマントの裾をそっと掴み、小さく頷く。


「……やっぱり、緊張する?」


「……だって、もしかしたら……」


「そうね。あの街のどこかに、父や母、兄が――生きているかもしれないものね」


姉の声は、かすかに震えていた。

夜明け前の風が、冷たく二人の間を抜けていく。


期待に高鳴る胸と、燃え尽きた故郷を見るかもしれないという恐怖。

二つの感情がせめぎ合い、体の奥がよじれるようだった。

そんな心を抱えながら、姉に続いて歩く。


エリアスを先頭に、私たちは朝靄に煙る木立の間を進む。

坂が緩くなった頃――。


「もうすぐ街が見える。身を低くして……」


エリアスの声。

私はすっと腰をかがめる。


「……灯りが見えるわ」


姉が指さす先。霧の向こうにちらちらと灯る明かりがあった。

懐かしい街並みの輪郭が、霧の帳の中にうっすらと浮かび上がる。


「……フィオーレだ……」


その名を口にした瞬間、胸の奥がきゅっと締めつけられる。

朝靄に煙る家々の屋根、中央広場の噴水、花の咲く街路。

記憶の中の景色と重なった。


花の香りが漂い、ぽつぽつと灯りがともっている。


……なのに、風の音もしない。


灯りは確かに灯っているのに、どの家の窓も、誰の姿も見えなかった。

まるで“街そのものが息を潜めている”ようで、背筋がぞくりとする。


まだ朝早いせいかもしれない。

けれど――あの頃とまるで変わらぬ景色。


私は口元を手で覆い、目を見開いた。


「……姉さん、これは……もしかしたら……」


私の声は、風に溶けて消えた。

姉は目を細めて街を見つめたまま、そっと手を握ってくる。

その手のひらの震えを感じながら、私はただ祈るように唇を噛みしめた。


姉の瞳の端が、小さくきらめいた。


東の空がわずかに白み始め、光が差し込む。

――けれど、その光は、眠る街を照らす鎮魂のように、どこか冷たく感じられた。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ