第六十九話 故郷
再びフォルテア砦に戻った私たちは、歓声とともに討伐軍に迎えられた。
作戦会議では、パルミール平原を北上し、一気にルクレール領を奪還する――という計画が伝えられる。
ルクレール領。
それは、私たち姉妹の故郷だった。
「ここまで来た」という想いと、再び蹂躙された故郷を見るかもしれないという恐怖。
ふたつの感情が胸の奥でせめぎ合う。
けれど第一師団の士気は高く、私たちもその熱に押されるように出立した。
道中、いくつもの砦や街、村を奪還した。
傷ついた街並み。
魔族の支配の下で怯えながらも、細々と生き延びていた人々。
ある街では、領主一家を館の地下から救い出すこともあった。
人々の涙と歓声に迎えられるたび、否応なく軍の士気は高まっていく。
そして――。
ロベール卿率いる第一師団は進撃を続け、ルクレール領の中心、花の街フィオーレの手前に辿り着いた。
私たちの故郷であり、領主館が建つ街。
その目前で軍は足を止めた。
その日の野営でのこと――。
***
焚き火がぱちぱちと音を立てて弾けた。
焦げた木の香りが夜気に溶け、星の光がかすかに煙に滲む。
私は丸太に腰を下ろし、隣には姉。
私は白湯の椀を両手で支えて、じっと湯気のゆらぎを眺めていた。
少し離れたところで、フィーネが弓の弦を確かめながら黙々と手入れをしている。
――ピーン……。
時折、彼女が弦を弾く音が夜闇に溶けていった。
バルドとエリアスは向かいで小声を交わし、その声が静かな夜気に紛れて消えていく。
近くの焚き火からは、兵たちの明るい声が風に乗って流れてくる。
「すごいな、フォルテア砦を出たのはついこの間なのに、もうルクレール領まで来るなんて」
「ああ、勇者様たちの活躍あってこそだ」
「魔王軍も組織だった抵抗はないし、このまま魔王城まで――」
「そうだな。それに奪還した街や村の人の笑顔、忘れられない」
「確かに。ああいう笑顔が勇気をくれるよな」
私は思わず顔をほころばせた。
――ある街の領主館。
鬼将を倒した私たちは、屋敷の地下へと進んだ。
湿った空気の漂う地下牢。
「――ひっ!」
足を踏み入れた瞬間、奥から小さな悲鳴が上がった。
姉が聖衣を揺らし、牢の前に進み出て静かに告げる。
「王国軍です。助けに来ました」
暗がりの奥から覗いた人々の顔。
あの安堵と涙――あれこそ、私たちが戦う意味だった。
――ぱちっ。
焚き火が小さく爆ぜ、炎がゆらめき、現実へと戻る。
フィーネがふっと呟いた。
「……順調すぎる。
魔族の思考を読むのは難しい。けれど、愚かではない」
一瞬、焚き火の音さえ遠のく。
誰もが言葉を失い、火の粉が舞い上がる音だけが耳に残った。
風が止まり、夜が深く沈む。
*
「アリシア、大丈夫か?」
焚き火越しにエリアスが問いかける。
姉は小さく頷き、炎を見つめたまま微笑んだ。
「……ええ。わたしなら大丈夫。
でも……明日、現実を見るのは少しだけ怖いわ。
小さいころ、噴水に母の花冠を浮かべたの。
白い花がくるくる回って、まるで風に踊る天使の輪みたいで……。
あの噴水が壊れていたら、きっと泣いてしまうかも」
私はその言葉を聞きながら、記憶の奥をたどった。
あのとき、風が水面を撫で、花冠が光を受けて回った。
姉の笑顔が眩しくて、私はただ見とれていた。
エリアスが少しだけ笑って言った。
「噴水が壊れていても、思い出は壊れないさ。
……その光景は、いつまでも心の中に残ってる」
その言葉に、姉の肩がかすかに揺れた。
焚き火の光が彼女の頬を照らし、柔らかく微笑む。
バルドが静かに頷く。
「故郷というのは、どんなに時を経ても心の奥で生き続ける。
だからこそ、たとえ壊れていても――受け止めねばならん」
普段ほとんど言葉を口にしないバルドが、こんなにも饒舌に。
けれど、それだけ彼なりに姉を気遣っているのだろう。
「……うん」
姉の肩がわずかに揺れる。
その横顔を見て、私の胸も静かに締めつけられた。
「セレナ」
姉がこちらを向く。
「明日、何があっても落ち着いてね。……まだ旅の途中。
わたしたちは魔王を討つまで、歩みを止めるわけにはいかないのだから」
「うん……分かってる」
そのとき、再び弦の音が鳴った。
フィーネが手を止め、目を細めて空を仰ぐ。
「……風は変わらない。
街が壊れても、あの風はきっと同じ。明日は……晴れるわ」
その声は淡々としているのに、不思議と胸の奥が温かくなる。
エリアスが微笑み、バルドも静かに頷いた。
炎が大きくはぜ、光がみんなの顔を照らす。
夜空には無数の星が瞬いていた。
けれど、どこかで風がざわりと音を立てた気がした。
その一瞬、火の粉が流れ星のように尾を引いて消える。
――まるで、誰かの祈りが風にさらわれていくみたいに。
焚き火の火の粉が夜空へと舞い上がり、星とひとつに溶けていく。
その夜、誰もが“明日こそ”と信じていた。
***
私たちはロベール卿の命で、夜明けとともにフィオーレへ斥候に出ていた。
――フィオーレを一望できる小高い丘を、一歩一歩踏みしめる。
「冷えるわね……」
「うん……」
私は姉のマントの裾をそっと掴み、小さく頷く。
「……やっぱり、緊張する?」
「……だって、もしかしたら……」
「そうね。あの街のどこかに、父や母、兄が――生きているかもしれないものね」
姉の声は、かすかに震えていた。
夜明け前の風が、冷たく二人の間を抜けていく。
期待に高鳴る胸と、燃え尽きた故郷を見るかもしれないという恐怖。
二つの感情がせめぎ合い、体の奥がよじれるようだった。
そんな心を抱えながら、姉に続いて歩く。
エリアスを先頭に、私たちは朝靄に煙る木立の間を進む。
坂が緩くなった頃――。
「もうすぐ街が見える。身を低くして……」
エリアスの声。
私はすっと腰をかがめる。
「……灯りが見えるわ」
姉が指さす先。霧の向こうにちらちらと灯る明かりがあった。
懐かしい街並みの輪郭が、霧の帳の中にうっすらと浮かび上がる。
「……フィオーレだ……」
その名を口にした瞬間、胸の奥がきゅっと締めつけられる。
朝靄に煙る家々の屋根、中央広場の噴水、花の咲く街路。
記憶の中の景色と重なった。
花の香りが漂い、ぽつぽつと灯りがともっている。
……なのに、風の音もしない。
灯りは確かに灯っているのに、どの家の窓も、誰の姿も見えなかった。
まるで“街そのものが息を潜めている”ようで、背筋がぞくりとする。
まだ朝早いせいかもしれない。
けれど――あの頃とまるで変わらぬ景色。
私は口元を手で覆い、目を見開いた。
「……姉さん、これは……もしかしたら……」
私の声は、風に溶けて消えた。
姉は目を細めて街を見つめたまま、そっと手を握ってくる。
その手のひらの震えを感じながら、私はただ祈るように唇を噛みしめた。
姉の瞳の端が、小さくきらめいた。
東の空がわずかに白み始め、光が差し込む。
――けれど、その光は、眠る街を照らす鎮魂のように、どこか冷たく感じられた。




