第六十六話 黄昏
その青年は、振り向いた私の前で立ち止まり、ふうっと息を整えた。
「アリシア! それに妹御も!」
(……相変わらず“おまけ扱い”。
でも、今回は認識されてるだけマシかも)
陽光を反射する金茶の髪。整った顔立ちに、屈託のない笑顔。
その貴公子ぶりに、道行く女性たちが思わず振り向く。
ジュリアン・アルノー。
冒険者アカデミー時代の同期で、かつてのクラスのまとめ役。
少し大人びたようにも見えるけれど、あの頃のまま――どこかほっとするような笑顔だった。
姉がゆっくりと振り向く。
わずかに目を見開いてから、いつもの穏やかな笑みを浮かべた。
「まあ……ジュリアンさん」
「久しぶりだね。まさかこんなところでお会いできるとは」
ジュリアンは胸に手を当て、貴公子然とした仕草で頭を下げる。
姉は微笑を湛えたまま、抑揚のない声で静かに言った。
「お変わりなくて、何よりですわ」
「ふふ、アリシアこそ。実は昨日、アカデミーのみんなと話していたんだ。
“勇者パーティが王都に戻っているらしい”って。
もしかしたら会えるかもしれないね、なんて」
(これ、確実に王都中を探して歩いてたやつじゃん……)
ジュリアンはふっと息を吐き、目を伏せる。
「本当に……運命ってあるんだな」
姉はほんの少し首を傾げ、視線を逸らした。
(まさかの“運命”発言……姉さん、完全に困惑してる)
「そうだ、俺、ついにDランクになったんだ。
まだ勇者への道は遠いけど……少しずつでも、歩みは止めない」
胸元から銀に輝く冒険者証を取り出し、太陽にかざす。
「まあ……変わらず励んでいらっしゃるのですね」
アリシアは軽く微笑んだ。けれど、その声音にはほとんど波がない。
(ジュリアン嬉しそうだな……。でも、君もまだまだだね。
なぜなら我ら“白銀の閃光”はAランク(仮)なのだよ。精進したまえ)
私はこっそりほくそ笑む。
「それから、聞いたよ。あのフォルテア砦で、四魔将の一人を討ち取ったって」
姉は目を伏せた。
胸がきゅっとした。
確かにザハルトは斃したけれど――救えた人より、救えなかった人のほうが多かったんだ。
「それで、みんなは“魔王討伐も時間の問題ではないか”なんて言うけど――」
姉は少しだけ睫毛を上げ、ジュリアンは遠い目をした。
「――俺にはわかる。
それは、想像もつかない困難が待ち受ける、遠い道のりだってことくらい……」
(ジュリアン……案外、空気読めるやつなのかも……)
しかし、姉はにっこりと笑って答えた。
「ええ、覚悟はできてますわ。
ですから、今日くらいはこうして、静かに過ごしているのですわ」
ぴしゃり。
沈黙。
風が通り抜け、二人の間の空気がゆっくりと固まる。
(おーい、ジュリアン。終わり、終わりだってば!)
……まだ沈黙。
姉はにっこりしたまま動かない。完全に“待ち”の構え。
肝心のジュリアンは固まったまま。
(だめだ……“案外空気読めるやつ”、訂正!)
祝祭の余韻で賑わう大通りの中、三人が立ち止まったまま。
道行く人が、ちらほらと振り返る。
「何かしら? 別れ話とか……?」
「それにしても、綺麗なお嬢さんね。どこかのご令嬢かしら?」
「あの方も、どこかの貴公子かしら?」
(まずい……せっかく二人とも目立たない服装で来たのに……)
姉の美貌と珍しい銀の髪は、それだけでも目立つ。
誰かに“聖女”だと気付かれたら、この時間は終わってしまう――。
――やがて、ジュリアンが口を開こうとした瞬間。
「アリシア?」
聞き慣れた声。姉が振り返る。
「エリアス……それにバルドも……」
(おお! やっぱり頼りになる!)
その瞬間、ジュリアンが硬直した。喉が上下する。
すぐそばにバルド。二人とも約束通り、目立たない庶民の装いだけど――
どこか尋常ではない気配を纏っていた。
「……約束の時間まで、バルドとぶらぶらしていたのだが……」
エリアスの眉が寄る。
「……何か困りごとかい?」
姉はふっとため息をつき、エリアスに微笑んだ。
「いえ、アカデミーの“同窓生”と、道でたまたまお会いしただけですのよ」
(なるほど……姉はやはり“友人”とは言わなかった……)
そのとき、半分裏返った声が飛び出した。
「あの、エリアス殿下! アルノー準男爵家のジュリアンと申します!
妹御……じゃなくて、妹君の友人です!」
直立不動のまま、ぎこちなく礼をするジュリアン。
(なぜ、姉ではなく私!? しかも“妹君”って……。ジュリアン、やっぱり私の名前覚えてない……)
「そうか、アルノー家の……」
エリアスは手を差し伸べた。
ジュリアンは目を丸くし、おずおずと手を伸ばすと、固く握手を交わす。
「あの……皆さんに、俺、憧れてるんです。
バルドさんとも、握手させて頂いても……?」
バルドは無言でぐいと手を差し出す。
その大きな手とジュリアンの震える手が、ぎゅっと固く結ばれた。
「あの……ありがとうございます!
俺、今日のこと、一生忘れません!」
エリアスは柔らかく微笑んだ。
「ありがとう。君も励むといい」
「はいっ!」
「ところで、アリシアたちを借り受けてもいいかな?」
「もちろんです! これからも頑張ってください!」
「それでは――精励したまえよ」
エリアスはその言葉を残し、姉に目配せする。
姉は小さくジュリアンに会釈した。
――ほんの一瞬の、姉とジュリアンの視線の交差。
姉はエリアスの隣へと歩き出し、バルドも続く。
私はその場でそっとジュリアンを見上げた。
目が潤んでる……。
そりゃそうか、憧れてた人たちと握手して、声まで掛けてもらえたんだから。
よかったじゃん、ジュリアン。
私は「じゃ、またね」と言葉を残し、姉たちのもとへ駆け出した。
途中、一度だけ振り返る。
ジュリアンは、通りの真ん中で私たちをじっと見送っていた。
(一生、忘れない……か)
風が人の声をさらっていく。
……彼に次に会うのは、きっともう少し先――そんな気がした。
*
広場でジュリアンと別れたあと、
私たち四人は、待ち合わせの時間まで城下を歩くことになった。
「こうして歩くのも、ヴァルモア以来かしら?」
姉が微笑む。
その横顔に、エリアスとバルドの視線が自然と向かう。
(……あ、この距離感。あのときは任務だったし、なんか違う……)
三人の少し後ろを、私は一人でついていく。
石畳の通りには露店がいくつも並び、
果実や布地の香りが風に混じって流れてくる。
姉は楽しそうに足を止めては振り返り――
「セレナ、見て。これ、可愛らしいわね」
と小瓶や布細工を指さし、
「これ、案外エリアスに似合うかも」
「あら、すごく重そう。バルドなら持ち上げられるかしら」
なんて冗談を口にしては、私たちを和ませる。
エリアスは、不慣れな通り歩きに少し戸惑いながら、真顔でつぶやく。
「……人と人が、こんなに近くをすれ違う。
それでも交わることなく、それぞれの目的地へ向かう。
なるほど、これは“人生の縮図”とでも言うべきか」
姉がくすっと笑った。
(なんだか、詩人みたい。やっぱり王子様なんだな……)
そう思っていると、隣でバルドが口元をわずかに緩めた。
いつも寡黙な彼の表情が柔らぐのを見て、私の胸も少し温かくなる。
人々の笑い声、焼き菓子の甘い匂い、風に舞う花びら。
戦場では決して感じられなかったものばかりが、
今はこんなにも身近にある。
(……勇者と聖女と盾が、こんなに目立って歩いてて大丈夫かな……)
確かに三人は、目立つ。とにかく目立つ。
心の中でひやひやしながらも、それでも――感じていた。
姉は微笑み、エリアスは時折目を丸くし、バルドはただ口元を緩めて見守る。
この穏やかな時間の中で、
三人の距離が、戦場にいたあの頃よりも確かに近づいている――と。
夕陽が傾き、四人の影が長く伸びる。
王都の灯がひとつ、またひとつと灯っていく。
「……そろそろ、時間ですわね」
姉の声が、ほんのり黄金の光をまとって、ふわりと広がる。
「そうだな」
エリアスが頷き、バルドも静かに歩き出す。
三人の後ろ姿を見つめながら、ふと、ちくりと胸が痛んだ。
(姉さんが、いつか――どちらかの手を取る日が来るのかな……)
*
夕陽が傾くころ、王都の空は金と紅に染まり始めていた。
遠くで鐘の音が鳴り、街のざわめきが少しずつ静まっていく。
丘の上にそびえる大聖堂が、光を受けてゆっくりと輝きはじめる。
白い石壁が夕陽を反射し、尖塔の影が長く地に伸びていた。
その入口の脇――壁にもたれて立つ、一人の影。
フィーネだ。
彼女はまっすぐこちらを見ると、長い耳がぴくりと揺れた。
「揃ったな。……では、行こう」
エリアスの言葉に促され、私たち五人はゆっくりと大聖堂の中へと足を踏み入れる。
重厚な扉が開くと、冷たい空気と淡い香が流れ込んだ。
ステンドグラスは七色に輝き、
天井の高みから差し込む光が、聖像と祭壇を金色に照らしている。
正面に、一人の神官の女性が立っていた。
白衣の裾を揺らしながら、深く頭を下げる。
「皆さま。大司祭様がお待ちです」
私はごくりと喉を鳴らし、
姉たちの背中を追うように、一歩、また一歩とその中へ進んだ。
(……空気が違う。
話があるって――なんだろう)




