第六十五話 インターリュード
――ゆっくりと目を開ける。
柔らかな朝の光が、頬を撫でた。
「……ん……」
……ここ、どこ?
見覚えのある天井。
けれど、いつもの天幕の布じゃない。
ふと、視界に影が差した。
「……セレナ、起きて。もう朝ですよ」
姉さん――。
そうか、ここは寄宿舎。王都に戻ったんだ。
「ん……あともう少し……」
自分でも驚くほど間延びした声が出て、思わず笑ってしまう。
姉が目を瞬かせ、口元を押さえて微笑んだ。
窓辺には、昨夜灯したキャンドルの残りが小さく傾き、
芯の先には、まだわずかに光の名残が揺れている。
前夜――。
私と姉はキャンドルを挟み、夜更けまで他愛のない話をしていた。
戦いのこと、仲間のこと、幼い頃の思い出のこと。
姉の穏やかな声を聞いているうちに、胸の奥の緊張の糸が少しずつほどけていった。
「ふふ。あなたが寝坊なんて、珍しいわね」
「うぅ……昨日、夜更かししちゃったんだもん」
――姉だって同じ。
そんな言い訳をしながら、二人で顔を見合わせて笑った。
その笑い声が、朝の光に溶けていく。
――そう、これはいつか取り戻したかった朝。
姉が窓を開けると、涼やかな風がふわりと吹き込む。
遠くで街のざわめきが始まり、焼き立てのパンと花の香りがやさしく混ざり合う。
今日は休日。アカデミーの喧騒も、まだ静かだ。
外では小鳥が窓辺をかすめて飛び、遠くで鐘の音がひとつ、静かに響いた。
(……平和って、こんな香りがするんだ)
ほんの一週間前まで前線にいたのが嘘みたい。
血と煙の匂いが染みついた世界が、今では遠い夢のように感じる。
姉が椅子に腰を下ろし、髪を結いながら振り向く。
背筋を伸ばし、髪紐を口に咥えて、銀の髪を持ち上げる。
朝の光が髪に反射し、紫の瞳がきらりときらめいた。
――何の変哲もない光景。
けれど、それは戦場の“聖女”アリシアではなく、あの頃の姉の姿だった。
その一瞬が、なぜだか永遠に思えて、胸が締めつけられる。
息を呑む私に気づいた姉は、きょとんとして微笑む。
「今日は夕方まで時間があるわね。せっかくだから、街を歩いてみましょうか」
「うんっ!」
胸の奥がぱあっと明るくなる。
ずっと姉と行きたかった市場も、露店も――今日は全部、回れそう。
久しぶりに“普通の姉妹”に戻れる。
そんな気がして、私は小さく息を弾ませた。
***
活気溢れる市場を見て回った後、大通りに面したカフェに入った。
窓際のテラス席からは街路樹の緑が見え、
風が白いレースのカーテンをやわらかく揺らしている。
通りのざわめき、行き交う人々のさざめき。
カップを置く音さえ、どこか穏やかに響いた。
「いい香り……」
運ばれてきたのは、焼きたてのハーブパンとクリームスープ。
スープの上には砕いたナッツと香草が散らされ、
ひと口すすると、じんわりと体の芯まで温かさが広がる。
「どう? 気に入った?」
「……前線の食事とは、全然違う……」
言いかけて、はっとして口を押さえた。
姉が静かに微笑み、グラスを傾ける。
「いいのよ。そうやって感じられることが――生きているってことかも」
「……うん」
その言葉が、胸の奥でゆっくりと溶けていった。
そっか……。生きているってこういうことなんだ……。
――そう思えることが、こんなにも幸せだなんて。
そう言いながら、姉はパンの端をちぎって私の皿に置いた。
「食べなさい。冷めないうちに」
「……子ども扱いしないでよ」
「ふふ、そうねえ……子どもというより、手のかかる妹?
わたしにとっては、いつまでも」
遠くに霞む北門の楼閣。
まるで何事もなかったように続く人々の営み。
あの初めての戦場の記憶が、遠く霞んでいく。
パンをちぎりながら、窓の外を見やる。
笑い声、風の音、鳥のさえずり。
――ほんの一週間前まで、決して耳に入って来なかった音たち。
(……ここが、わたしたちの守っている世界……)
胸の奥が、少しだけ熱くなる。
姉がそっと視線を合わせてくれて、
そのやわらかな眼差しに、また少し救われた気がした。
「姉さん、次どこ行こうか?」
「……そうね。んー、セレナの行きたいところ、かしら?」
スープの湯気の向こうで、姉の瞳がやわらかく揺れた。
昼下がりの光がその頬を染め、
世界が少しだけ、懐かしく見えた。
***
昼食を終えて店を出ると、
街路の喧騒がふたたび耳に戻ってきた。
往来には旅人や兵士の姿も混じり、
祝勝の空気がまだどこか弾んでいる。
風が旗をはためかせ、子どもたちの笑い声が通りを駆け抜けた。
昼下がりの光が隣を歩く姉の頬を染め、
世界が、少しだけ――優しく見えた。
姉の横顔を見ながら、そっと息を整える。
胸の奥が、静かに満たされていく。
(――この時間が、ずっと続けばいいのに)
そして――そのざわめきの中に、聞き覚えのある声が混じった。
「おーい!」
(……え?)
思わず振り向く。
人の波をかき分けながら、こちらへ近づく青年がいる。
見間違えるはずがない。
陽の光を弾くさらさらの金茶の髪、きらりと光る白い歯。
屈託のない笑顔で、弾むように駆けて来る――。
眩しすぎて、ほんの一瞬――世界が止まった気がした。
――ジュリアンだった。
胸の奥が、不意にざわめく。
もちろん、懐かしさも、嬉しさもある。
けれど――なぜこの人は、いつもこういうタイミングで現れるのだろう。
そんな呆れにも似た想いが先に立つ。
私は、その“無邪気な笑顔”に、ほんの一瞬だけ言葉を失った。
……けれど、次の瞬間には、また騒がしい現実が押し寄せてきた。




