第六十四話 祝宴への帰還
フォルテア砦の中庭。
勝利に沸く魔王討伐軍の喧騒の中――。
ふと視線を向けると、アランがミリアを肩で支えながら歩いてくる。
その隣には、涙ぐんだアランの母親の姿があった。
三人は立ち止まり、私の前で深々と頭を下げる。
「あなたのおかげで……息子は、アランは、今もこうして生きています」
「ありがとう、セレナさん」
アランの声は掠れていたけれど、その瞳はまっすぐだった。
続いて、ミリアが小さく頭を下げる。
「あの……救ってくださって、ありがとうございます」
その顔には、もう“縫い目”の跡は一つも残っていない。
柔らかな頬の線も、震える唇も――すべてが、“人”の温かさを取り戻していた。
私は慌てて手を振った。
「そ、そんな……! わたしなんて、ほんとに何も……!」
ふと思い出して、言葉を続ける。
「でもね、あの鍵開け道具とナイフ、すっごく助かったんだ。ありがと、アラン君」
アランは「えへへ」と鼻を指でかいた。
くすくすと笑うミリアと、優しく見守る母親。
その光景に、胸の奥がじんわりと熱くなる。
さっきロベールさんも奴隷商摘発を宣言していた。
きっとミリアちゃんのお父さんも、近いうちに見つかるはず。
(……ひとまず、本当によかった)
ふっと胸を撫でおろす。
やがてフィーネにも丁寧に礼を伝えたあと、三人は姉や勇者たちのもとへ向かっていった。
その背中を見送りながら、ふと胸の奥で思う。
「……家族って、やっぱりいいな」
そう呟いた瞬間、自分で気づく。
あまりに気が早いことに。
「うわ、なに考えてるの、わたし……!」
頬が一気に熱くなって、思わずうつむいた。
けれど、心の奥では――どこか少し、温かく笑っていた。
***
砦の中庭に、再び号令が響いた。
伝令が駆け込み、膝をついて報告する。
「報告いたします!
シャルル王太子殿下より――フォルテア砦奪還を果たされた勇者パーティ並びにロベール卿、
直ちに王都へ帰還されたしとのご命令です!」
その声が途切れた瞬間、ざわめきが広がった。
ロベールは短く目を細め、息を吐くように呟く。
「……ふむ。このタイミングということは、勝利を前提にした早馬か。
信頼の証か、それとも――最前線の現実を知らぬか、どちらだ」
皮肉とも溜息ともつかぬ声音だった。
それでも、その冷静さが場の空気をわずかに落ち着かせる。
「……それで、理由はなんと?」
問われた伝令の騎士は、わずかに肩をすくめて答えた。
「伝聞になりますが……祝勝の宴を催し、戦意を高揚するとの仰せで……」
ロベールの表情が、ほんのわずかに陰る。
「祝勝の宴、か。――残念ながら後者のようだな。
だが、殿下のご下命とあらば従うしかあるまい。
委細はエルステッド卿に任せるとして、勇者パーティ不在では北進は暫くできぬ。
各師団はフォルテア砦に留まり、守りを固め、改修を進めよ」
その言葉に、バルドは拳を握りしめ、姉は静かに唇を噛む。
フィーネはふっと小さくため息をついた。
次の瞬間、エリアスは手甲を外し、無言で地に叩きつけた。
「民は今も苦しんでいるというのに!
魔王軍の準備が整う前の今こそ、一気呵成に北進すべきところを……!
何を考えている、兄上は!」
金属が乾いた音を立て、中庭に響き渡った。
朝の光を浴びた聖剣の鞘が、その音を受けたように鋭く光を返す。
ロベールは音の余韻が消えるのを待ち、静かに言った。
「殿下。数日は王都に滞在することになりましょう。
この機会に英気を養いませ。あなたは我が軍の要――切り替えるのです」
「わかっている。だが……我々が勝ち続ける限り、王宮は何も変わらないんだ!」
その叫びが、胸に刺さった。
姉がそっと寄り添い、手を握ってくれた。
けれど、その手の温もりが、かえって胸のざわめきを浮かび上がらせた。
(……ひとときでも帰れる。それは嬉しい。
でも、どうしてだろう。胸の奥がざわつく。
王都に呼び戻されるのは――本当に、それだけの理由なの?)
王都で祝宴と聞くと、どうしても思い出してしまう――
祝福の日、シャルル殿下が姉を見つめたあの眼差し。
その瞳に宿っていた、あの光を。
思わず姉の手をぎゅっと握りしめ、顔を上げる。
姉も静かに視線を返し、優しく握り返してくれた。
戦いは終わったはずなのに、誰の顔にも笑みはなかった。
その光は――勝利の余韻と共に、静かに新たな影を落としていた。
***
私たち勇者パーティはついに、四人いる魔将のうちの一人を討ち果たした。
魔王討伐軍はこの戦争の要衝となる砦を奪還し、その勝利の報せは瞬く間に全土へと広がっていった。
橋頭保を得た討伐軍は、姉と私の故郷――ルクレール領のあるパルミール大平原への足掛かりを掴んだことになる。
広大なその平原を越えれば、氷壁の手前にそびえる魔王城は、もうすぐそこだ。
こうして戦いが新たな局面を迎える中、王都への帰還命令が下された。
私たちは、それぞれの想いを胸に、帰路へとついた。
***
ヴァルミエール王国――王都キングスフォート。
夜空に鐘の音が響き、花びらが舞い、松明が街路を照らす。
人々の歓声は波のように押し寄せ、その夜――王都は祝福の光に包まれた。
――祝勝の夜。
アカデミー時代を姉と過ごした街。
そんなに昔のことではないのに、久しぶりに見る王都は、どうしようもなく懐かしく思えた。
夜更けまで続いた宴の喧騒が、今も耳の奥に残っている。
翌日、勇者パーティのみんなとサン・クレール孤児院を訪れた私は、
石造りの廊下を歩きながら、胸の奥に静かな灯がともるのを感じた。
昼間の騒ぎが嘘のように、夜の孤児院の中庭はしんと静まり返っている。
月明かりの下、欄干にもたれて見上げた空は、祝宴の眩しさとは違う――澄んだ冷たさを湛えていた。
その隣で、フィーネがぽつりと呟いた言葉。
「……昏き森にも、小さな蛍の光が灯る。
闇を照らすのは、時にそんな小さな光かもしれない」
姉のように太陽にも、月にもなれなくても――
私だって、蛍のような小さな光になれるはず。
そう本気で思えたのは、この夜が最初だったかもしれない。
孤児院からの帰り道、久しぶりにアカデミーの寄宿舎へと寄る道すがら。
まだ祝勝の空気冷めやらぬ中、見上げた王都の空――
それはどこまでも広く、少しだけ冷たい。
昔と同じように、姉と手をつなぎ、王都の大通りを歩く。
あのおだやかな時間がどれだけ大切だったか、今ならはっきりとわかる。
露店の果物の香り、行き交う人々の人いきれ、騒がしい市の喧騒。
ふと隣を見上げれば、いつも姉は微笑み返してくれる。
今つないでいる姉の手の温もりがある限り、私はどこまでも歩いていける。
「姉さん、りんご飴屋さん、再開したみたいだよ」
「あら、セレナはやっぱり食いしん坊ね。ふたつ、頂きましょう」
姉はふわりと微笑んだ。
まるで、王都にそっと咲く一輪の花のように。
あの頃の私は――
これからも、こうして姉と並んで歩いていけばいいと――そう信じていたから。




