第六十二話 断罪
(神を超えた? なら――私は、“人”として抗う!)
胸の奥で、ぽっと小さな火が灯った。
まだ震える膝を押さえ、ぐっと息を吸い込む。
(負けない……絶対に……!)
――私たちは、神みたいにはなれない。
だからこそ、弱くても、怖くても、それでも前に進む。
それが、“人”なんだ。
(――ミリア。あなたを、必ず助けるから……!)
その時――。
「――黙れ!」
エリアスの咆哮が、空気を裂いた。
びくりと肩が跳ねる。
「なぜ貴様はそこまでして――神を、人を裏切る!?」
「……裏切る?」
ザハルトの口元が、ゆっくりと歪んだ。
次の瞬間、広間に響いたのは狂ったような笑い声。
「ふ……ふふふ……ははははははははは――っ!」
耳の奥が痛い。
光と音が渦になって押し寄せ、息が詰まる。
思わず一歩、後ずさった。
「裏切ったのは、私ではない」
その声は冷たくて、けれどどこか――壊れたように静かだった。
「私は――裏切られたのです」
その顔を見た瞬間、胸の奥がざわついた。
何かを失って、それでも笑おうとしている人の顔だった。
エリアスの声が鋭く響く。
「どういう意味だ!」
「どういう意味か? ふ……勇者のあなたには、永遠にわかるまい」
胸の奥が、ざらりとした。
その言葉が、どこか自分の痛みに触れたような気がして――息が止まる。
「私は、絶望した」
静かな声。
誰に向けたでもない、深く沈むような響き。
ゆらめく光の中で、ザハルトの瞳だけが異様に鮮やかだった。
その奥で――誰かが泣いているように見えた。
「だから私は決めた。
神に祈るのではなく――私が神になるのだと」
空気が止まった。
その言葉に滲むのは、怒りでも憎しみでもない。
胸の奥で、何かが落ちる音がした。
「今日は気分がいい。
いや、これまでで一番だ。最高の気分ですよ。
――どうです? この“神となった私”に仕える気はありませんか?
あなたたちなら、天使の素体として申し分ない。
共に――“楽園”を創ろうではありませんか」
「ふざけるな!」
「断る!」
「ありえない!」
「笑止!」
皆の叫びが一斉に響く中、私だけは――動けなかった。
喉も、身体も、氷みたいに固まっていた。
(どうして……)
神を超えたいなんて、正気じゃない。
なのに、その声が、どうしようもなく――悲しかった。
まるで、すべてを諦めた人の声だった。
(……裏切られたって、誰に?)
胸の奥が、ちくりと痛んだ。
その痛みがどこから来るのか、自分でも分からない。
彼の瞳の奥で――確かに誰かが泣いていた。
でも、何かが心の奥でざわめいて、
まるで知らないはずの痛みが、自分のものみたいに滲んでくる。
(わたしも……知ってる、この感じ……)
胸がきゅっとして、泣きたくなるような、どうしようもない感覚。
何かがつながりそうで、つながらない。
靄の中で、見えない糸を、必死に手探りで結ぼうとしているような――
――ほんの一瞬、足が地面に縫いとめられた。
「セレナ!? 支援を!」
姉の声――一気に現実に引き戻される。
まずい、もう戦闘は始まってる!
「うんっ!」
私は杖を構え、詠唱を紡ぎながら走り出す。
心臓がまだ震えている。けれど、止まれない。
仲間の足元に、光の魔法陣が一斉に咲いた。
――支援、開始。
***
光の矢が降り注ぐ中、私は息を切らしながら支援の花を咲かせ続けた。
ザハルトがこちらへデバフを投げれば、すぐに上書き。
ミリアに強化が乗れば、皆の防御と姉の魔力を積み増す。
魔法陣が交差し、空気がうなる。
ひとつの詠唱が遅れれば、誰かが死ぬ。
焦げた石の匂い、焼けた金属の味。
それでも、私たちは声を重ねて戦った。
――そんな応酬の最中、私は見ていた。ミリアの“縫い目”が、少しずつ広がっていくのを。
「ふむ……これは埒があきませんね」
顎に手を添えるザハルト。
冷静すぎる声が、空気をさらに冷たくした。
その目は、もう父を名乗る者のものではない。
冷たくて乾いた――創造主の眼だった。
「ミリア――“聖なる大弓”です」
空気が止まった。言葉の重みが胸を殴る。
(まさか……姉の、聖女の奇跡を――!?)
「はい、お父様」
頷いた刹那、彼女の掌に白光が集う。
空気がひりついた。
――『魔力上昇』×7!
ザハルトの詠唱が、ミリアの足元に魔法陣を重ねた。
胸の前で光が弧を描き、姉の祈りと同じ形をなぞっていく。
それは――“天使の断罪”。
「見なさい。聖女の奇跡と同一構造――いえ、強化された魔法式。
私の“天使”は、祈りの奇跡を超える!」
ミリアの背後に巨大な純白の魔法陣が咲いた。
それは祈りの奇跡ではない。神を模した“偽りの奇跡”。
「やめて! それ以上魔力を使ったら――!」
私の声は光に呑まれた。
「放て」
指先が下り、冷たい笑みが薄く刻まれる。
『――聖なる大弓……』
閃光。世界が歪む。
熱風が肌を裂き、耳の奥が爆ぜた。
「――姉さん!」
――『速度上昇』×2!
――『魔力上昇』×3!
『――聖なる盾よ!』
姉が杖を掲げ、光のはなびらが一気に収束し、二重の花が咲く。
白と白が衝突した。
耳をつんざく音。光の欠片が雨のように降り注ぎ、床石が焦げる。
顔を庇いながら前を見る――一重の花が残っていた。
軋みながらも、まだ守っている。
「もう一度だ、ミリア! 今度こそ完璧に!」
ザハルトの唇から再び詠唱が流れた。
――『魔力上昇』×7!
ミリアの身体がびくんと震えた。
顔・腕・脚の縫い目から光が滲み、糸が一つ、また一つ弾ける。
内側の光が心臓の鼓動みたいに脈打つ。
「お父様……あつい……あついの……!」
「耐えろ! もう少しだ!」
ザハルトの声が震える。
(やめて……お願い……壊れてしまう!)
ミリアの顔が歪み、翼が焼けるように崩れた。
光が全身の縫い目から血のように散った。
その時――。
「ミリアぁぁぁ――!」
アランの声が空を裂く。
彼は光の奔流を突き抜け、崩れ落ちるミリアを抱きとめた。
「しっかりしろ! ミリア!」
ミリアは弱く首を振り、祈りのようにこぼす。
「……たす……けて……」
胸が張り裂けそうになる。――あの時と同じ声。
だが光は止まらない。
ミリアの身体は眩い輝きを溢し続け、裂け目の奥から魂が溢れ出す。
溢れ出した光はザハルトを焼いた。
光が過るたび、ザハルトの魔族の身体から煙が上がる。
「なぜ……だ?」
ザハルトの呟きが、次の瞬間、絶叫に変わった。
「なぜだぁ――ッ!! なぜだ、なぜだ、なぜだッ!!」
ミリアの魔力が暴れ、壁石が爆ぜる。
天井が鳴り、床がきしむ。
「バルド!」
エリアスの叫び。私は杖を構える。
バルドが盾を前に、一直線にザハルトへ突進した。
「来るなぁ――っ!!」
――『鈍足』『鈍足』『鈍足』――!
叫びを上げたザハルトは一歩、二歩と下がりながら漆黒の魔法陣を次々と紡ぐ。
バルドの足が止まりかける。
――『俊足』×5!
光陣同士がぶつかり合い、火花を散らす。
床が砕け、足元が揺れた。
「隙を作る……!」
フィーネが叫んだ。
私は息を深く吸う。
みんな、とっくに限界は超えてる。でも――
「――私も、絶対に諦めない!」
震える指先で白杖を握り締め――
――『命中率上昇』×5!
矢が一直線に走る。
だが、ザハルトはなおも短い障壁を張り、弾いた。
火花、震える空気。焼け焦げた匂い。
「この程度――!」
その瞬間、バルドの背後から跳ぶ影。
「――終わりだ!」
聖剣が光を帯びて軌跡を描いた。
ザハルトの胸を貫いた刃が、背中から抜ける。
光が弾け、神殿を思わせる広間の柱が震えた。
膝をついたザハルトは、真っ黒な血を吐きながら笑う。
「ふ……ふはは……神になっても、結局は裏切られるのか……!」
アリシアが一歩、前に出た。
杖の先を、静かに地へ。
その瞳には、怒りも、悲しみも――何の感情も感じない。
“聖女”の瞳だった。
「……違うわ、ザハルト。
誰もあなたを裏切ってなどいない」
ザハルトの顔が歪む。
「ならば、なぜだ……! なぜ私は――!」
「あなたは魔に落ち、人をやめた。
あなたが裏切ったのはあなた自身という”人”。
絶望にもがき、苦しんでも、それでも前へ進む――それが“人”よ!」
(姉さん……!)
胸が苦しくて、思わず胸元をぎゅっと掴んだ。
沈黙。
姉の聖杖が淡く光り、『浄化』の光が灯る。
「人を捨て魔に落ち、神を名乗り、多くの命を奪った。
……もはや、救う理由など一つもない」
「やめろ……! 私はまだ――!」
「――終わりよ、ザハルト」
光が奔る。
ザハルトの叫びが、空気を裂いた。
「なぜだ……私は……神に……!」
姉はほんの少しだけ目を伏せ、そして言った。
「だめよ、あなたは、ただの人として終わるの。
それが――あなたに残された、唯一の“救い”よ」
その瞬間、杖の先から純白の光が走った。
静かに、確実に、ザハルトの身体を包み込む。
光が肌を焼く。
錯乱した彼の叫びが、反響して消えた。
「やめろ……やめてくれ……姉上! 私は……神に……!」
(姉上……? ザハルトの姉?)
意味がある言葉なのかはわからなかった。
それでも、それは私の心に小さな棘となって残る。
アリシアはゆっくりと瞼を閉じ、短く息を吐いた。
「……願わくば、罪を悔やんで眠りなさい。
せめて人として終われたこと――神に感謝することね」
光が収束したとき、そこには哀れな男が目を見開いたまま倒れていた。
その瞳は――もう赤ではない。
けれど、その銀色の瞳は、徐々に色を失っていった――。
「ミリア!」
――アランの声が静寂を裂いた。




