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第六話 月下の約束

外気はひやりと澄み、夜の静けさを際立たせていた。

アリシアとトリスタンが向かったのは、孤児院の裏手にある小高い丘。

夜空を遮るものはなく、王都の灯が遠くにきらめいて見える。


私は繁みの影に身を潜めながら、月下に立つ二人を見つめていた――。



丘の上。


月明かりに照らされて、二人は並んで立っている。

遠くに王都の灯が瞬き、夜風が草を揺らす。


しばしの沈黙のあと、トリスタンが口を開いた。


「……侯爵領での舞踏会以来ですね」


姉は驚いたように瞬きをして、やがて微笑む。


「ええ、本当に……お久しぶりですわ」


「……あの時は、すみませんでした。足をもつれさせてしまい」


「いいえ。……最後まで堂々と踊られて、素敵でしたわ」


淡い光に照らされた姉の横顔は、まるで月そのもののように清らかだった。


トリスタンは短く息を吐き、照れ隠しのように笑う。


「今なら……もう少しは踊れると思います」


「まあ……」


月光の中で、その頬がわずかに色づいて見えた。

けれど、次の瞬間、姉は俯いて続きの言葉を詰まらせた。


沈黙が落ちる。

ただ夜風だけが、さざ波のように草原をなでていく。


「すみません、思い出させてしまい……」


姉の様子に気付いたトリスタンは背筋を伸ばして、頭を下げる。

トリスタンの拳が、腰元でぎゅっと握られていた。


「……いいのです。辛いのはわたくしだけではありませんの……」


俯いたままの姉の指先が震えているのに気付いた。

そのとき、私の胸にも懐かしい思い出が去来し、思わず胸元に手を添えた。


あのとき、屋敷の庭に響いていた笑い声が、胸の奥でよみがえる。

花が咲き乱れ、緑あふれる屋敷。

父母や兄、使用人や騎士、そしてその子供たちの笑顔。

あの中にトリスタンもいたのだろうか。

そして――その輪の中心で宙に舞う光の花びらを纏った姉が、微笑んで私を手招きする。


あの頃は当たり前に続くと思っていた。

けれど、もう決して戻らない過去。


胸の奥がきゅうっと縮み、息をするのも痛い。


そして――

夜風の音に包まれた静寂の中、二人は同時に口を開いた。


「あの――」


声が重なり、二人とも言葉を飲み込む。

互いに俯き、頬を染め、月明かりに照らされて黙り込む。


胸の奥が再びちくりと痛む。

けれど、二人から目を逸らせなかった。



「……あと三年」


唐突にトリスタンの言葉が落ちた。

姉はきょとんと瞬きをする。


「……?」


「あと三年待ってください。

 私は勇者の祝福を受け、魔王を討ち――

 大恩ある御父上のためにも――何より、あなたのために侯爵領を取り戻します。

 それに、その頃には、あなたも十六になる――」


トリスタンはそこで言葉を切り、一瞬口を結んだ。

そして姉の瞳を真っ直ぐに見据える。


「必ずお迎えに上がります」


「……!」


その言葉に、姉の瞳が大きく揺れた。


アリシアはふと懐から、一本の簡素な紐のようなものを取り出した。


「……これを」


差し出されたのは、白と銀の糸で編まれた簡素な組紐――

飾り気はない。けれど一目で、心を込めて結ばれたものだとわかる。


夜な夜な針仕事をしていた姉の姿を、私は思い出した。

子供たちのための小物に混じって、確かに姉はずっとこれを編んでいた。


「あなたが戻られると伺って……」


姉はその組紐を、そっとトリスタンの手を取り、手首に巻いた。

トリスタンは腕輪となった組紐を月光に透かすと、姉に向き直り静かに微笑む。


「アリシア様――一生大切にします」


しばし見つめ合う二人。

二人の距離がゆっくりと近づくと、私の心臓はもう破裂しそうだった。

鼓動が二人に聞こえてしまうのではないかと、思わず口をふさいだ。


トリスタンの瞳が揺れ、その手が姉にそっとかかりそうになった瞬間――

姉はかすかに身を引き、そして――


「トリスタン様……わたくしの望みは――」


夜風に揺れる声は、けれど真っ直ぐだった。


「あなたが無事に帰ってくること、それだけです。無理は……しないでくださいね」


「……わかりました。また来年、必ず」


「ええ。お待ちしています」


姉の指先と、彼の手首の白銀の糸が重なり合い、月光に照らされてひとつの影となる。

その光景を、繁みの影から見ていた私は、心臓をぎゅっと掴まれるような思いで息を呑んだ。


それは、月下で交わされた、騎士と少女の――淡くて儚い約束だった。


***


半年ほど後のこと。


その日――

孤児院に、一通の封蝋の押された手紙が届けられた。


「……騎士団から……」


マルグリット司祭はほんの少し眉を寄せながら封を切った。

蝋を割る音、羊皮紙の匂い――

羊皮紙を広げたその声は、最初は朗々としていた。


「サン・クレール孤児院のマルグリット司祭様へ。騎士団所属、トリスタン・ヴァレンヌ卿は――」


そこで、司祭の声が途切れた。

目が大きく揺れ、唇が震える。


「……魔王軍の急襲において、勇敢に戦い……仲間を逃がすために……殿を務め……」


言葉が続かず、司祭は胸元を押さえ、手紙を取り落とした。

床に紙が散り、その中から――千切れた組紐がはらりと落ちた。


「……っ!」


姉の瞳が見開かれる。

その組紐は、彼女が夜な夜な編んでいたもの。

トリスタンに託したはずの約束の証。


震える指でそれを拾い上げた姉は、口元を押さえたまま走り出す。

外の扉を乱暴に開け放ち、庭へ、きっとあの丘へと、夜気へと駆けていく。


(……まただ。大切な人は、いつも私たちを置いて行ってしまう――)


私は一歩も動けず、その背をただ呆然と見送るしかなかった。



しばらくして丘へ登ると、夜空には幾千もの星が瞬いていた。

姉はあの日と同じ満天の星空の下、草の上にぽつんと腰を下ろしていた。

ただひとり、ぼんやりと空を見上げて。


(……姉さん……)


声をかけようとしても声が出なかった。

けれど、私の気配に気づいたのか、姉は振り返った。

その目尻は赤く、けれど笑みを作って手招きした。


「セレナ、こっちにおいで」


隣に並んで座ると、姉は少し間を置いて、ぽつりと呟いた。


「ねえ、あのね。……トリスタン様はお星様になったんだよ」


銀色の髪が月明かりに透け、声はかすかに震えていた。

姉は、泣き顔を隠すように、夜空へと視線を上げる。


「うん……お空から見守ってくれてるんだね」


そう答えると、姉は一瞬だけ「う……ん……」と唇を噛んだ。

そのまま堪えきれなくなったように、後ろから私をぎゅっと抱きしめる。


「わたしたちは、ずっと一緒」


思わず喉が詰まり、言葉が出ない。


「……うん」


私はかすれた声でそう返し、姉の腕を握り返した。


私を抱きしめる姉の手の中で、何かが風に揺れた。

指先に触れた組紐の繊維がざらりと引っかかり、湿った温度が伝わった。


簡素な糸を編み込んだ、千切れてしまった腕輪。

姉の手から零れる短い一片に、かすかに文字が浮かんでいた。


――《永遠の愛》。


胸がぎゅーっと締め上げられ、息が詰まった。

子供の私にはまだ、その言葉の深さを理解できなかっただろう。


けれど、前世をほんの少しだけ思い出した私には――

それが姉の心をすべて託した証であることが、わかってしまう。


(……姉さんは、こんなにも……)


そう思った瞬間、胸の奥が決壊した。

私はもう、こらえられなかった。


「……いやだぁ……っ!」


嗚咽がこぼれ、あふれた涙が頬を伝い、声にならない声で泣きじゃくる。

姉はそんな私を強く抱きしめた。姉の肩越しに伝わる浅い呼吸が、震えながらも絶えず続いていた。


涙に滲んで映る姉は声を出さず、顎を引いて黙ったまま唇を震わせ――

背中越しの身体と抱きしめた腕から伝わる微かな震えが、言葉の代わりだった。

ただ静かに、けれど途切れることなく、姉の頬を伝う粒だけが月明かりに光っていた。


夜空の星々が瞬く。

その中に、きっと彼もいる。

そう信じたい姉の震える嗚咽が、私の心をさらに締めつけた。



夜風が草の匂いを運び、涙で詰まった喉にひんやりと沁み――

やさしく二人の髪を撫で、切れ端の糸をそっと揺らした。

まるで彼の想いが今もなお、姉の傍らにあるかのように。


「お姉ちゃんは……置いて行かないで……」


姉は私をもう一度強く抱き締めた。


「うん……」


姉のかすれた声が、焼けるような胸にじんと染みる。


(……置いて行かれないようについて行くんだ……)


だからこそ、このとき私は誓った。


(見ていてくださいね……。

 私は――絶対に、姉さんをひとりにしないから――)


見上げた夜空に瞬く幾千もの星。

その一瞬のきらめきが、彼の眼差しと重なり――『ありがとう』と微笑んだように。


そう――確かに見えた。

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