第五十九話 白き魔将
「――待て、僕だ!」
低く抑えた声。
緊張が弾け、呼吸が一気に戻る。
まるで胸の奥に詰まっていた空気が、一気に解き放たれたようだった。
扉の隙間から滑り込んだのは――エリアス。
金の髪の下で銀のサークレットがきらりと光る。
続いて、大きな盾を背にした頼もしい鎧姿――バルド。
(エリアス、ちゃんと刺しておいた藁に気づいてくれたんだ!)
姉の頬がゆるみ、ほっそりとした指をそっとエリアスへと伸ばした。
エリアスも微笑んで、指先を重ねる。
その瞬間、ちょっぴり胸が痛んだ。
けれど、それよりも胸を満たしたのは、熱だった。
ようやく――五人が揃った。
私たちはそれぞれ得物を手に、粗末なローブを落とした。
姉の純白の聖衣、フィーネは弓使いの新緑の衣、そして私の白魔導士のローブ。
それに、エリアスの勇者の紋章が刻まれた銀の胸当て、バルドの白銀に輝く鎧と重騎士の大盾。
――勇者パーティ、反撃開始だ。
その瞬間、揺らめく松明の炎が、ほんの一瞬だけ黄金に見えた。
まるで――神様が、私たちを見守ってくださっているかのように。
***
私たちは、白い広間へ続くアーチの左右に身を潜めていた。
冷たい光が壁をなぞり、遠くから、ひゅう、と風のような音が響く。
緊張に、喉がひりつく。
いつものことながら、エリアスの指示は簡潔だった。
「僕の合図で、バルドは盾を押し立てて突撃。僕が続いて切り込む。
フィーネは矢で僕の援護を。アリシアは反撃に備えて結界を。
セレナは――適切な支援を。
相手は魔将だ。油断はするな。だが、気負いすぎるな」
(……なんか、私だけ雑な指示な気がするんだけど)
期待されていないのか、それとも信頼されているのか――わからない。
けれど、今さら気にしても仕方ない。いつものことだ。
私は小さく息を整え、光の向こうを覗き込んだ。
*
真っ白な光に照らされた広間の中央。
ザハルトは、石台にうつ伏せに固定された女性の背に、指先で何かを描いていた。
紫の光が肩から背骨に沿ってぽつぽつと灯り、やがて線でつながっていく。
(……なにを、してるの……?)
薬品と血の匂いが混じり合い、焦げた金属のような甘い臭気が鼻の奥を刺す。
女性の手足は金属の枷で縛られ、口には縄が噛まされている。
身じろぎするたび、鎖が小さく鳴った。
「恐れないでください。あなたは――生まれ変わるのです」
ザハルトの声は穏やかで、まるで祈りを捧げる神官のよう。
その静けさが、逆にぞっとするほど不気味だった。
体の奥が冷え、息が詰まる。
(……生まれ変わるって、なに?)
「想像してみてください。大空を飛ぶ、自らの姿を」
描き終えた彼は、流れるように呪文を囁き、指先の光を刃に変える。
そして、肩口の点線に沿って――すっと動かした。
紫の光が、じゅ、と音を立てて――肉を焦がした。
焦げた匂いが鼻を突き、胃の底が反転する。
「んんっ、んーーーーっ!!」
女性の体がびくびくと跳ね、涙をこぼしながら必死にもがく。
鎖が鳴り、枷が軋むたび、空気が震え、悲鳴のような音を立てた。
(切ってる――!)
理解が追いついた瞬間、息が止まった。
胃の奥がきゅっと締めつけられ、喉の奥から冷たいものが込み上げる。
(やめて……!)
声にならない悲鳴が喉に貼りつき、動けない。
「もう少しの辛抱です。あなたはすぐに、完璧な存在となる」
――その言葉で、胸の奥で何かがぷつりと切れた。
隣でエリアスが、ぎり、と歯を噛みしめる音。
「――やめろっ!!」
張り詰めた空気が裂けた。
彼の声が光のように走った瞬間、バルドが盾を構えて突撃する。
鋼鉄の盾が床を砕き、薬品の瓶が震え、部屋全体が轟いた。
姉も、フィーネも、私も、アーチから一斉に飛び出す。
バルドが作った隙を逃さず、エリアスの聖剣が銀の閃光を描いた――。
「――ミリア」
ザハルトは顔を上げ、淡々と名を呼ぶ。
その名が響いた瞬間、隣の台で鎖が鳴る。
アランが必死に身を起こそうとして――縄越しに声にならない叫びを上げていた。
『――聖なる結界よ……』
広間の奥、幕の裏から鈴の音のような声。
声の主の姿はまだ――ない。
(聖なる結界!? 姉さんじゃない!? 誰――?)
キィン、と甲高い音が室内に反響する。
光の膜が一瞬で広がり、エリアスの聖剣を弾いた。
波紋が水面みたいに揺れ、空気が震える。
「なっ……光の障壁!?」
エリアスが驚きの声を上げた。
「困りますね。創造というものは、繊細な作業なのですよ」
ザハルトは肩をすくめ、ため息をつく。
「……光の魔法……!?」
姉と私は、同時に声を上げた。
その瞬間、フィーネの肩がぴくりと震えた。
普段どんな状況でも崩れない彼女が、息を呑む。
まるで――何かを“思い出した”みたいに。
「何を驚いているのです?」
淡い光の向こうで、ザハルトは静かに微笑んだ。
その瞳は血のように赤い。――魔族の色。
「私は“ザハルト”。魔将などと呼ばれていますが――
今はしがない白魔導士に過ぎません」
「魔族が……白魔導士、だと!?」
エリアスが剣を構え直し、光の障壁を睨む。
一方、姉の表情が凍りつき――祈るように胸元のペンダントを握りしめる。
“光”は人にこそ宿る聖なるもののはず。
それを“魔”が操る――そんなはずがない。
信仰そのものが揺らぎ、胸の奥で世界が軋む音がした。
でも、きっと姉が一番動揺している――。
「動揺するな」
バルドが低く唸り、盾を構える。
「……バルド……」
姉は胸元をぎゅっと握る。
けれど彼は姉に目を移すと、力強く頷いた。
「あれは“魔族”だ。忘れるな」
その一言が重く響き、心まで震えるようだった。
姉は息を呑み、小さく頷く。
紫の瞳がまっすぐにザハルトへと向けられた。
(バルドさん――ありがとう……)
ザハルトはゆっくりと一歩、前に出た。
純白のローブが淡く光を返す。
両手を広げ、天を仰ぐと――恍惚とした笑みを浮かべた。
「しかし、私はまもなく――神となる者なのです!」
その声音に狂気も迷いもない。
ただ、絶対の確信だけ。
……それが、いちばん恐ろしかった。
(神になる……魔族が……?)
けれど、こちらを見据えるその紅い瞳。
それは、神を見上げる者の目ではなかった。
神を見下す目――本当に自分が神になれると思っている者の目だった。
「勇者パーティの皆さん。心よりお待ちしておりました」
ザハルトの唇が静かに弧を描く。
「ようこそ。“天使の園”へ――」
(――天使の園……! 誘い込まれた!?)
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