第五十八話 心臓へ
砦の内部は、まるで迷宮だった。
石造りの廊下は複雑に折れ曲がり、行き止まりや分岐がいくつも現れる。
湿った空気が肌にまとわりつき、遠くから響く足音と鎧の軋みが、耳の奥にこびりつくように残った。
壁の松明がぱちりと爆ぜるたび、影が波のように揺れる。
「……こっち」
私は先頭に立って歩を進めた。
自然と、姉とフィーネがその後ろに並ぶ。
いつもの潜入では私が最後尾。けれど今回は、殿はフィーネだ。
冷えた石の床が裸足の裏にじっとりと貼りつく。
踏みしめるたび、細かな砂粒が皮膚を刺す。
硬く冷たい感触が、心を一段と細く締め上げた。
影の揺らめき、水滴の落ちる音、扉の向こうの低い声――。
その一つひとつが、判断を迫る合図のように思える。
一つでも誤れば、全員を危険にさらす。
そう思うだけで足がすくみそうになった。
いつも当然のように先頭を進むエリアスの気持ちが、少しだけわかる。
(エリアス……今度から、もう少し優しくするね)
三叉路に差し掛かる。
私は牢から持ち出した藁を一本つまみ、石壁の隙間へそっと差し込んだ。
(……こんなの、きっと誰にも気づかれない。
でも、彼なら――きっと見つけてくれる)
『感覚強化』で研ぎ澄まされた感覚に、魔力のざわめきが触れる。
壁の向こうから漂うどす黒い魔力――ヴェルネに似た、濃密で冷たい気配。
それが血管のように砦全体を脈打たせていた。
その“心臓”の位置を頼りに歩を進める。
巡回の気配が鼓動のように近づいては遠ざかる。
そのたびに目配せと手の合図で息を止め、身を縮めた。
空気がひとつでも乱れれば、たちまち死が忍び寄る。
進むほどに黒い魔力は濃くなり、空気がぴんと張り詰めていく。
まるで細い綱の上を裸足で歩くような緊張感。
石の冷たさが、逆に“生きている”実感を強めていた。
角を曲がった、その瞬間――巡回していた一体のオークと鉢合わせしかけた。
「……っ!」
私は二人に合図し、胸元を押さえて柱の影へ身を滑り込ませる。
小さな衣擦れの音。
姉の唇から漏れるかすかな吐息。
背後のフィーネの押し殺した息。
すべてが、間近に感じられた。
重い足音が近づき、石床に影が落ちる。
続いて、獣のように鼻を鳴らす低い音――。
思わず姉の手をぎゅっと握る。
姉はそっと握り返した。それだけで、少しだけ心が落ち着く。
近い。姉の指先からかすかな震えが伝わり、握った手が汗ばむ。
皮鎧の軋む音、荒い息、床石を引っかく爪の音――そして鼻を刺す獣臭。
心臓の鼓動が耳の奥で鳴り響き、裸足のつま先が硬い石を掴むように震えた。
足音が止まる。鼻を鳴らす音――。
(まずい……気づかれた……!)
その瞬間、フィーネがすっと前へ出た。
闇の中、アラン少年の小さなナイフを逆手に構え、息を吸う音すら立てず――一歩。
シュッ――。
細い銀線が闇を裂く。
オークの喉元から赤が闇に散った。
崩れ落ちる巨体を音を立てぬよう受け流し、静かに床へ横たえる。
「……見事」
私は小声で呟き、三人がかりで暗がりへと死体を引きずった。
鼻が曲がりそうな臭いに耐え、歯を食いしばって引っ張る。
(こんなに重いの……?)
私は静かにバルドに感謝を捧げた。
その後も、いくつものニアミスがあった。
曲がり角の巡回兵。開いた扉の向こうを横切る影。
息を殺し、鼓動すら邪魔に思えるほどの静寂の中を進む。
やがて――血と薬品の混じった匂いが漂ってきた。
薄暗い廊下の突き当たりに、重厚な鉄扉。
そこから、あの“どす黒い魔力”がじわじわと漏れ出している。
同時に、わずかな“光”の気配。
けれどそれは、黒い瘴気に押し潰され、はっきりとしない。
――でも、きっとここにアランもいるはず。
息を呑み、二人に目配せする。
「……ここだ」
そっと取っ手に手をかけた。
チリ、と小さな音――大丈夫。
軋む音をできるだけ抑えて扉を押し開ける。
わずかな隙間から、冷たい空気が頬を撫でた。
血と薬品、そして――焦げたような匂い。
三人は視線を交わす。
頷き合い、音もなく暗闇の中へ滑り込んだ。
――砦の心臓へ。
***
そこは、焦げと薬品と鉄が混ざりあったような、鼻の奥に刺さる匂いで満たされていた。
息をするたび、喉の奥が焼けるように痛む。
私たちは素早く、木製の重厚な棚の裏に身を滑り込ませた。
背中が冷たい壁に貼りつく。心臓の鼓動が音になって響きそうで怖い。
ゆらめく松明の灯りがぼんやりと部屋を照らし、
重厚な棚が左右にずらりと並んでいた。
ここは――たぶん倉庫だ。
並んだ棚の向こうにはアーチが開き、そこから光が差している。
その先に、きっとアランがいる。
息をつき、棚に並んだ大きな瓶の間からそっと覗く。
――その瞬間。
瓶の中で、それがゆらりと動いた。
白濁した液体の中へと、ゆっくりと視線が吸い寄せられる。
液体に浮かんでいたのは――人の首。
いや、“人のような”何かの首。
私は思わず口元を押さえた。まだ声は出していない。
その目は見開かれ、泡の中でゆっくりと回転しながら私の方を向き――目が合った。
熱いものが喉の奥からこみ上げる。
それを必死で飲み込み、冷たい床に手をつく。
目を逸らしても、閉じた瞼の裏でまだ“見られている”気がした。
姉がそっと肩に手を添えた。
その温もりで、どうにか現実に引き戻される。
見上げれば棚には――瓶詰めの臓器、魔物の頭部、何かの赤ん坊、人の一部。
ぎっしりと詰まった狂気の芸術。悪魔の造形。
視界の端が揺れ、吐き気を堪えながら、やっとのことで立ち上がる。
(……何のために、こんなことを)
改めて、光で満たされたアーチの向こうを覗く。
光に目が慣れると――向こうには広い空間。
そこは、錬金術の研究室――あるいは、医術と呼ぶにはあまりに歪な“施術室”。
奥に石の台が二つ――その上にそれぞれ人が横たわっている。
動いてはいない。きっと、どちらかがアランだ。
小さな白い灯りを感じる。きっと、まだ無事だ!
そのとき――空気が沈んだ。
熱でも冷気でもない、圧。
息を吸うだけで肺の奥が重くなり、喉の奥で空気が擦れる音がした。
真っ白なローブに身を包んだ男が、ゆったりと現れる。
あの禍々しい瘴気――魔将ザハルト!
その指先が空をなぞるたび、空気がきしむ音がした。
壁に掛けられた金属具が、誰も触れていないのにかすかに揺れる。
(何をしてるんだろう……)
ごくり。私は唾を飲み込む。
(でも、どうやって助けたら……。武器は少年のナイフだけ……
姉の『聖なる大弓』なら、聖杖がなくても『魔力上昇』×5で補える?
こんなとき、きっと――エリアスなら迷わないのに)
悔しさが喉を刺す。
それでも、足を止めるわけにはいかない。
――そのとき。
扉が、かすかに軋んだ。
(……誰か来る!)
背筋が氷のように固まる。
音はほんのわずか――それでも、全身の血が逆流するような感覚に襲われた。
まずい! 気づくのが遅れた!
姉と目が合う。
互いに息を止め、わずかに頷き合う。
姉は右手を上げて制し、私の前に出る。
私はその背中を守るように身を低くした。
冷たい汗が背筋を伝う。
鼓動が、耳の奥で壁を叩くように鳴る。
扉の向こうから、誰かの気配。
一歩、また一歩。
靴底が石を踏む乾いた音が、まるで砂時計の粒が落ちるように近づく。
フィーネが音もなく前に出て、ナイフを逆手に構えた。
空気が切り裂かれるように張り詰める。
姉の唇がわずかに動く。
――来る。
次の瞬間、取っ手がゆっくりと回る音。
全身の神経が、その一点に集中する。
一瞬の静寂。
扉が音もなくわずかに開く――。
「――待て、僕だ!」




