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第五十七話 素体狩り

「――いやぁぁぁぁぁ!!」


甲高い女性の悲鳴が、静寂を切り裂いた。

声は石壁に反響し、やがてひび割れたように途切れる。


金属の軋む音、鎖を引きずる重い足音。

鉄格子の向こう、暗い通路の奥から、一体のオークが女性を引きずりながら前を通り過ぎていった。

引きずる音はやがて遠ざかり――代わりに、凍りつく静けさだけが牢内を支配する。


「……こうやって毎日、誰かが連れていかれるんだ……」


母が震える声でぽつりと言う。

その瞬間、胸の奥で何かが固く音を立てた。


ここには――多くの人が囚われ、あんなふうに順番に、奥へと連れていかれている。

そして――誰も、帰っては来ない。


――やがて、足音が二つ。

一つはオークではない。


鉄格子の向こうに現れたのは、一匹のオークと――一人の男だった。


「ザハルトさま――こぢらの牢でぐ」


その名が響いた瞬間、空気の温度がわずかに下がった。


(ザハルト……様!?)


その男は背が高く、若々しい顔つきに純白のローブをまとっていた。

まるで神官や司祭のような静謐な佇まい。

けれど――瞳は血のように赤い――魔族だ。


一歩ごとに、ぞくりとする静けさと威厳を運んでくる。

オークの耳は伏せられ、服従の意思を示している。


一目でわかった。明らかに、ただの魔族ではない。

外見は、まるで神に仕える聖職者のよう。だが、纏う空気が異質すぎる。

血と薬品が混じったような匂いがわずかに漂い、近づくだけで鳥肌が立つ。

その存在は、まるで偽りの光で隠された“瘴気の核”そのものだった。


姉の肩が小さく震え、瞳が見開かれる。

まるで、”聖女”の光が、穢れに触れたかのように。

フィーネの耳はフードの中で、ぴくりと動いた。


(この男が――きっと魔将だ!)


ザハルトと呼ばれた魔族は、牢の中の私たちをざっと見渡し、満足げに微笑んだ。


「……ふむ。……この牢は、良い素体が揃っていますね」


その言葉は、まるで豊作を喜ぶ司祭のよう。


(“素体”……っ! ”人さらい”は、その”素体”狩り!?)


意味はわからなくても、その響きに背筋が凍る。


視線は氷の刃のように冷たく刺さる。

全てを見透かすような瞳に吸い寄せられ、必死に目を逸らす。

その視線が最も長く止まったのは――やはり姉。


(……バレた……?)


ひとりでに肩が震え、握った手に汗がにじむ。


永遠にも思える沈黙――。


だがザハルトは、口角をわずかに上げただけ。

吐き気を催すほどの、不気味な余裕。


「今日は子どもが一人必要です。では――」


空気が、一瞬にして張り詰めた。

私は思わず拳を握りしめ、祈るように心の中で叫ぶ。


(私を……! 私を連れていけ……!)


子ども――私とアランのどちらか。

心臓が跳ねる。


ザハルトは両手を胸の前で組み、祈るように瞼を伏せた。

そして、まるで祝福を与えるように指先を伸ばす。


だが、ゆっくりと伸ばされた指が示したのは――アランだった。


「……君にしよう。匂いが似ているからね」


ザハルトの声は微笑むようで、その目は底のない穴のように冷たい。


「だめ――!! ……この子、この子は連れて行かないで!」


母親の悲鳴。伸ばした手は空を切る。

オークがアランの腕を乱暴に掴んだからだ。


(……待って、お願い、まだだめ)


喉の奥まで出かかった声を、私は噛み殺した。

叫べばむしろ危険――わかっているのに、腰が浮きそうになる。


ガチャリ、ガチャリ――。

床石から鎖が引かれる乾いた振動。

鉄の輪がぎりぎりと鳴り、引きずられるたびに音が響く。


(やっぱりだめだ! 助けなきゃ、今すぐ!)


――やつに有効な魔法は? 杖はないから威力は落ちる。

魔将クラスなら『浄化』は足止めにもならないし、デバフもきっと弾かれる。


なら――姉に『魔力上昇』、そして聖なる大弓で……!

だめだ、前衛がいないし、フィーネも弓で援護できない。


この五人だけで逃げる?

いや、ここで騒げば奇襲にならないし、警戒が強まればエリアスやバルドまで危険に晒す。


――やるなら斃すしかない。


息が止まったまま、思考が高速でぐるぐると巡る。


答えが出ないまま、そっと私のローブが引かれた――姉だ。

はっと顔を上げる。


姉はまっすぐ私を見つめ、小さく首を振る。


(……姉さん! でも……!)


そのとき、方法が一つだけ浮かぶ。


(――私が行く!)


私は真剣な眼差しで姉をみつめ、姉の手をそっと外す。

姉が息を呑み、僅かに唇が開く。

そして、立ち上がろうとした――その瞬間。


アランが振り返り、私を見た。

その瞳には、恐怖よりも強い決意が宿っていた。


(……必ず……助けに来てくれるんだろ?)


(……うん。必ず!)


言葉はない。けれど確かに通じ合った。


アランはぐっと歯を食いしばり、頷く。

その姿が、胸に焼きつく。


「行ぐぞ!」


「――アラン!」


母の叫びだけが残り、少年の小さな背中は暗い廊下の向こうへ消えた。

残るのは、床に刻まれた鎖の跡と、かすかな鉄の匂いだけ。


一人通路に佇むザハルトは、顎に手を当て、私たちをじっと見つめていた。

死線を浴びただけで寒気がする瞳。

姿だけは神に仕える者。

けれど、その目には、神の光は一切届いていないようだった。

姉だけは、その刺すような視線を微動だにせず見返す。


「……これは、楽しみですね」


小さく、不気味な一言を残し、暗闇に輝く真っ白なローブを揺らして男は音もなく立ち去った。

牢の中に、重く冷たい沈黙が落ちる。


(……絶対に、助け出す。こんな連中の好きにはさせない)


胸の奥で、静かに――だが確かな怒りの炎が燃え上がった。



沈黙が落ちたそのとき――

隣に座る姉のローブの裾が、わずかに揺れた。

布の下から、ちらりと金属の光。


(……小さなナイフと……鍵開けの道具……!)


姉と目が合う。

それは少年が残した――希望だった。


返ってきたのは、いつもの穏やかな微笑ではない。

静かな、決意の光。


***


夜の砦は、しんと静まり返っていた。

牢の中、私たちは鉄格子越しに廊下の巡回の様子をじっと窺う。

二体のオークが松明を手に、のしのしと通路を歩き回っていた。


足音が遠ざかり、角を曲がる――その一瞬が、唯一の“隙”。


姉とフィーネが目で合図を交わす。

そのわずかな仕草が、これまで何度も死線を越えてきた仲間の合図のように見えた。


私たちはさきほど短い話し合いを持ち、

エリアスとバルドの到着を待たずに救出に向かう判断をしていた。

アランもミリアも、あの女性も――一刻を争うかもしれない。


私は静かに立ち上がり、母親の方へ振り返る。


「……任せて」


小さな声に、母親は唇を震わせながらも力強くうなずく。

震える指先が、ほんの一瞬、私の袖をつまんで離れた。


巡回の足音が完全に遠のいた瞬間、姉が鉄格子に手を当て、フィーネが鍵開けの道具を取り出す。

カチリ――小さな音とともに、牢の扉が開かれた。


一歩踏み出すと、足首を誰かに掴まれているような錯覚。思わず手でさする。

足枷は、細工が施された鍵穴を回し、すでに外してあった。


(……消えない……)


それでも――冷たい鉄の感触は、皮膚の奥に焼きついたままだった。


肌が廊下の夜気に触れる。

静かに扉を閉め、私たちは身を低くして牢を抜け、音もなく闇に溶け込んだ。


「……行きましょう」


姉の小さな声。私は深く息を吸い、瞼を閉じる。


(間に合わなきゃ。行こう!)


巡る魔力を研ぎ澄ませ、意識を沈めた。


『――感覚強化』


世界が鮮明に立ち上がる。

湿った石壁、滴る水音、遠くの靴音、カビの匂い……

そして何より、砦の奥から漂う――どす黒い魔力の塊。

肌が粟立つ、あの異様な気配。


(……つかんだ)


私は目を見開き、二人に合図を送る。


研ぎ澄まされた感覚の中で、気配が揺らいだ。

あの男が――笑った気がした。


第二の魔将・ザハルト。

あの魔族は、私たちを“素体”と呼んだ。

その言葉の意味は、まだわからない。だが、わからなくてもいい。


何を企んでいようと、必ず取り返す。

囚われた人たちも、アランもミリアも――そして、全てを止める。


(絶対に……終わらせてみせる)


闇の底で、私は静かに拳を握った。

決意を胸に、冷たい闇の中へと音もなく溶け込んだ――。


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