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第五十六話 囚われの母子

冷たい鉄格子が、呻くように軋んだ。

私たち三人は、別の商人に売られた一人の少年と共に、オークの看守に蹴飛ばされるようにして、暗い地下牢へ押し込まれた。


その少年――年の頃は私と同じくらいだろうか。

不思議と取り乱すこともなく、静かな光を宿した瞳が印象的だった。


床には湿った藁。壁には一本のランプ。

その薄明かりがゆらゆらと揺れ、牢の中を鈍く照らしている。


空気は重く湿り、土と血の匂いが混じり合って、息を吸うたびに喉がざらついた。

そこかしこに、錆びた鉄と薬草の腐臭が沈んでいる。

この空間全体が、何年も前から“閉じ込められた空気”のようだった。


「はやぐ入れ!」


くぐもった声が響き、背後で鉄格子がガシャリと閉じる。

その瞬間、冷たい金属音が足元から這い上がってくるように感じた。

――外の世界にはもう二度と戻れないと告げる音。


それだけで、心の奥で何かが小さく砕けるような音がした。

ここは、そういう場所だった。


中には、すでに一人の女性がいた。

壁際で膝を抱え、俯いていたが――私たちの気配に気づいた瞬間、はっと顔を上げた。


汚れた衣服、痩せた頬。だが、その瞳に一瞬、はっきりとした驚きが浮かぶ。

――次の瞬間、少年の震える声が静寂を裂いた。


「――母さん!」


女性は目を見開き、かすれた声で彼の名を呼ぶ。


「……アラン!? どうして……逃げたはずじゃ……!」


少年――アランは母親に飛びつき、強く抱きしめた。

その肩越しに、震えながらも確かな意志を宿した声が響く。


「……わざと捕まったんだ。みんなを、助けるために」


その言葉に、母の目が大きく揺れる。

少年の目の光は小さくとも鋭く、闇を切り裂くように輝いていた。


少年はポケットから小さなナイフと金属の棒――錆びた鍵開けの道具を取り出す。

小さな手で自分の腕を軽く叩いてから、母に道具を差し出した。

まるで自分を奮い立たせるかのように。


「村のみんなは……?」


問うアランに、母親は目を伏せ、小さく首を振る。


「村長も司祭様も――村の男たちとは途中で別れて……ここは女子供だけ。

 でも……みんな牢から連れて行かれて、戻ってきた者はいないの……」


胸の奥がきゅっと締めつけられる。

この砦では、それが“日常”なのだ。

息を潜めたままでも、鼓動の音だけが耳の奥で大きく響いた。


何かを引きずるような鈍い音に混じって、鉄鎖がかすかに擦れる金属音。

奥の方では誰かの祈りと嗚咽が、交互にかすれて聞こえた。

闇の底で、誰かが希望をすり減らしているような音だった。


ふと、少年の眉が寄った。


「……母さん! ミリアは……!」


その問いの瞬間、彼の声は明らかに上ずっていた。

母親は目を伏せると、息子の手をそっと握る。


「司祭様のお嬢さんは、最初はこの牢にいたんだよ。

 たった一人、気丈にみんなを元気づけてくれて……本物の天使みたいだったよ……。

 でも、すぐに連れていかれてしまったの……。今どうしているかは母さんにも……」


そのとき、少年の瞳の光がわずかに揺れた。

胸の奥の火が風で揺れたように、私の心がざわめく。


(きっとその子、彼にとって大切な人なんだ……。

 “希望はある”って、伝えたい……!)


私は姉に目配せをした。

姉は頷くとフードを静かに後ろに下げ、私とフィーネも続く。


母親が一瞬警戒の色を見せたが――姉の澄んだ声が、それをすぐに打ち消した。


「わたしたちは――王国軍の者。

 今夜、この砦を――終わらせに来ました」



「……王国軍の……!? 本当に……?」


母親の瞳が大きく見開かれ、少年は息を呑む。

彼のナイフを握る手が、わずかに震えた。


珍しいのか、最初はフィーネの長い耳をまじまじと見つめていた。

が、フィーネは慣れているのか、ぴくりと動かしただけで気にした様子もない。


――やがて二人から語られたのは、あまりに痛ましい出来事だった。


村は奴隷商に襲われ、母を含む村人たちは一瞬で捕らえられた。

その時、アランだけが干し草小屋にいて難を逃れ――捕らえられた母やミリアと目が合った。

彼はその瞬間に心を決めたのだ。

そして奴隷商を尾行し、この砦に辿り着いた――。


ふと目を落とせば、彼のはだしの足は傷だらけだった。

どれだけの想いを抱えてここまでたどり着いたのか。


(……こんなこと、絶対に許せない!)


姉と視線を交わす。

言葉はいらなかった。

互いの瞳の奥に、同じ決意が燃えている。

――絶対に助ける!


牢の隙間から吹き込む夜風が、藁をかすかに揺らした。

それはまるで、嵐の前の静けさのように――私の胸を熱く、そして強く締めつけた。


***


夜が深まるにつれて、牢の中の空気はひんやりと冷たくなっていった。

私は鉄格子越しに外の暗がりを見つめながら、心の中でそっと思う。


(……今ごろ、エリアスとバルドは……)


耳を澄ましても騒ぎは聞こえない。

きっと、砦のどこかに身を潜め、内部を探っているはずだ。


私たちの第一目標は魔将の撃破。

けれど、遂行困難なら夜明けを待ち、三師団と呼応することになっていた。


夜になったら――エリアスとバルドが牢から私たちを救出。

それから一斉に行動を開始することになっている。

この牢から抜け出すことさえできれば、反撃の火蓋を切れる。


けれど――もしかしたらミリアさんは一刻を争う状態かもしれない……。


私は唇を噛み、胸元を押さえながら隣の母子にそっと伝えた。


「――今夜、私たちは仲間と合流し、皆さんを必ず解放します。

 もう少しだけ。もう少しだけ待ってもらえますか?」


「俺も出来ることなら、なんでもします!」


そう言った少年の頭に、姉は手を伸ばしてそっとなでた。

アラン少年は、姉の微笑みとぬくもりに触れ、頬を赤らめながら力強く頷く。

姉はいつもこうして誰かに勇気をくれる――そう思うと、胸がちょっぴり熱くなる。


母親は目を見開き、しばらく黙ってから小さく頷いた。

その表情には、わずかだが希望の光が差したように見えた。


やがて、アランが少し恥ずかしそうに鼻をかきながら、ぽつりと口を開いた。


「……母さんは、父さんが死んでから……ずっと一人で俺を育ててくれたんだ。

 母さんは、すごいんだ。俺、母さんが自慢なんだ」


母親が「ちょっと……」と苦笑して肩をすくめる。

でも、その頬はわずかに赤らんでいて、二人の絆の深さが伝わってくる。


「俺、大きくなったら……母さんを支えて、畑で麦を育てるんだ。

 そして、父さんと母さんみたいに、子どもを育てて、立派に……」


少年の声が急に小さくなり、目が揺れる。

母親は、やさしく彼を抱き寄せる。

それでもアランは泣かなかった。


小さな声に、その気丈な振る舞いに、私は胸が締めつけられるような思いがした。

あまりにも当たり前で、あまりにも尊い未来。

――それが、こんな場所で踏みにじられようとしている。


母親がそっと視線をこちらに向け、声を潜めて言った。


「……若い娘や子どもは……真っ先に連れていかれるの。

 ここに連れてこられて、すぐ……。あなたたち……大丈夫なの……?」


その言葉に、私たちは顔を見合わせた。

背中にじわりと冷たいものが走る。


けれど、フィーネは小さく、しかしはっきりと答えた。


「問題ない。私たちは――強い」


母親は少し驚いた顔をしながらも、抱き締めたアランに頬を寄せる。


「大丈夫。この方たちが、きっと助けてくれる」


母子のあたたかさに、私の胸に火が灯る。

それに、フィーネが“私たち”――そう言ってくれたことも、少しだけ嬉しかった。


五人は自然と、藁の上で身を寄せ合うようにして座り込んだ。

こんなところでも、身を寄せ合えばあたたかい。


その時だけは、この牢に、人の温もりが戻っていた。

冷えた石の上に、小さな家族の気配が灯っていた。


――そして、それが最後の静かな時間だった。


静寂の中で、遠くの滴る水音がやけに響く。

空気が沈み、時間が止まったように思えた。


その静寂を、鉄格子を開く音が引き裂いた。


「――いやぁぁぁぁぁ!!」


次の瞬間、隣の牢の奥から、甲高い女性の悲鳴が響き渡った。

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