第五十五話 潜入作戦
夜は凍てつくほど静かだった。
だからこそ、遠くでちりと鳴る鎖の音がやけに際立つ。
鎖が一つ鳴るたび、胸の奥の血が冷たく引き戻されるようだった。
私は冷たい鉄格子の隙間から、夜霧に煙る草原の向こうをじっと見つめていた。
呼吸は浅く、ひと息ごとに肺が冷えていくのがわかる。指先がじん、と痺れる。
森を抜けた先にそびえ立つ、黒々とした石造りの砦。
城壁には無数の松明が灯り、門の前には既に数台の馬車が並んでいる。
鉄格子越しの御者台には、二人の男が揺られていた。
「……奴隷商人の列か……」
華美なマントを羽織った商人風の男の低い声が夜気に溶ける。
“奴隷商人”。その音だけで、胃のあたりが冷たく縮む。胸の奥がぎゅっと掴まれるようで、息を深く吸うことすら怖くなる。
男の胸元には身分を示す商人証。
自由を示す翼を象った意匠が、皮肉なほど冷たく輝いている。
もう一人は全身に鎧を纏った大男だ。
「勇者が人を売る真似事をするなんて……」
商人風の男が小さく呟いた。
エリアスの声。
声が届くと、胸の鼓動が一瞬跳ね上がる。
隣のバルドは大きな盾を抱え、押し黙ったままだ。
大盾の裏には、フィーネの長弓と矢筒、私たちの杖が巧みに固定されている。
馬車に積まれた檻の中には――私と姉、そしてフィーネ。
足は鎖で結ばれ、頬に薄く炭を塗り、粗末な布を纏って座り込んでいる。
鎖の鍵は簡単に外せるよう細工されていると分かっていても、足首を掴まれたような冷たい感触がじわじわと甦る。
車輪がぎしぎしと音を立てて揺れるたび、鉄片と古布の匂いが鼻腔を刺し、体温が吸い取られていくような錯覚に襲われる。
(……気分が悪い)
目を泳がせると、他の馬車の檻にも人間の女性や子供たちが押し込められている。
小さな足がたまに震え、母親は赤子をぎゅっと抱きしめる。
皆、目の光を失い、諦めの影が顔を覆っていた。
その無力な沈黙が、私の胸をさらに締め付ける。
これが“人さらい”の現実。
人が人を魔族に売る。
想像していたより、ずっと生々しい。
呼吸のたびに、胸が詰まった。
「……本当に、こんな方法しかないの……」
小さく漏らした声が、檻の隙間でこだまする。
隣の姉がこちらを見返す。
瞳の奥に迷いはない。ほとばしる決意の光が、暗闇にくっきりと浮かぶ。
私は肩を震わせて頷く。声が震えるのを必死で押さえた。
(……うん、絶対に――この人たちを、助ける)
決意が胸に灯ると、車列はゆっくりと進み出した。
――砦の巨大な門の前には、コボルトやゴブリンといった亜人兵が左右に並んでいる。
鋭い牙を覗かせ、にやりと口を開ける者もいれば、よだれを垂らす者もいる。
車列の隙間から、小さな「ひっ」という声が漏れた。
見張り台では鬼人が目を光らせて周囲を見回し、門のたもとではオークがぶひぶひと鼻を鳴らしながら、次々と奴隷商たちの荷を検分している。
(……バレませんように……)
緊張が全身を走る。視線がこちらに向くたび、掌の汗がじっとりと濡れるのを感じる。
心臓の音が耳の奥で大きく鳴り、世界が鼓動に合わせて揺れるようだ。
車輪が敷石を乗り越える——ゴトリ。
——通過。
息を殺していた空気が、やっとゆっくりと動き出す。
砦の広場には既に別の奴隷商たちが集まり、檻の中から洩れる嗚咽と鉄鎖の軋みが混ざり合っている。
商人たちは商品のように奴隷の肩口を撫で、まるで目録をめくるように笑っている。
その光景に胃がねじれたような吐き気を覚える。
(……ここが、今夜、倒すべき魔将の巣……)
床下から、こんこん、と合図があった。
合図の音が小さくても、全身が反応する。
馬車は二重底になっており、床下にはエリアスとバルドに似た体格の兵士二人が隠れている。
タイミングを計り、砦に潜む二人と入れ替わる段取りだ。
がしゃり――。
馬車が停まり、バルドが檻の扉を開く。
冷たい風が檻の中を流れ、私の髪を揺らした。
私はこっそり床を三回叩いた。それが到着の合図だ。
鎖が鳴り、姉が立ち上がろうとしたその瞬間。
「……アリシア」
静かな声が網目越しに届く。
震えが混じる声に、胸がぎゅっとなる。
鉄格子越しに互いの指先を伸ばす。
想いを指先から伝え合うように、指がかすかに触れ合った。
「必ず、助けに行く」
「ええ……エリアスも、お気をつけて」
鉄の隙間に交わされた温もりが、ひととき夜気の冷たさを押し返した。
じゃり、と鎖の音を立て、私は立ち上がる。
冷気が肌を刺し、胸の奥で鼓動が一度、大きく鳴った。
背筋を伸ばすと、胸の中で何かが熱を帯びていくのがわかった。
恐怖は残るが、怒りと守るべきものへの熱がそれに重なり、声にならない決意が喉の奥で固まる。
私たちは互いに視線を交わし、五人の心が一つになった。
――絶対に、この場所ごと、終わらせる。
◆
――数日前、野営地にて。
村での祭りの後――夜空に星が瞬く中。
天幕の下、ひときわ大きな円卓。
卓上に広がる羊皮紙の地図。
張り詰めた空気。
勇者パーティと討伐軍の上層部、師団長や部隊長、それに参謀たちが息を詰めるように円卓を取り囲む。
松明の火が影を揺らす。重苦しい空気に、私はほんの少し肩をすくめた。
「――これが、今回の目標《フォルテア砦》だ」
ロベール卿が鋭く地図の中央を指し示す。
指揮棒になぞるように示されたのは、深い森を抜けた先、山裾に築かれた黒い城塞――フォルテア砦。
その名が周辺諸国に轟く、難攻不落の要塞だ。
魔王討伐軍は、まさに正念場を迎えようとしていた。
「この砦は他と違う。水路も隠し通路もない。
周囲は平原で見通しがよく、近づく者はすべて発見される。
城壁は高く、厚い。
真正面から攻めても……まず落ちん」
「じゃあ、どうやって……?」
つい口にしてしまう。慌てて口元を塞ぐが、もう遅い。
視線がいっせいに刺さった。
(ごめんなさい……私なんかが発言しちゃって……)
だが、ロベールは眉をひとつ上げただけだった。
「――“奴隷商”として潜入する」
天幕が沈黙する。ぞっとする者。顔を伏せる者。拳を固める者。空気がきしむようだ。
ロベールの眉根の皺が深まる。
「人間を“商品”として魔族と取引する連中がいる。
そいつらになりすまし、内部に入り込む。
夜明けに外部から三師団が一斉に攻撃を開始。
内部から勇者パーティが呼応し、扉を開いて砦を落とす――それが今回の作戦だ」
「……っ」
背筋に冷たいものが走る。人を、商品として運ぶ――その発想だけで鳥肌が立つ。これが、あの“人さらい”の正体なのだ。
姉がちらりとこちらを見る。瞳の奥にあるのは、迷いではなく静かな決意。
(……そうだよね。こんな場所、放っておけない)
ロベールの声が再び響く。
「内部の情報は乏しいが、奴隷商は月に一度だけ出入りできる。
門で検分はあるが、商人と奴隷のふりをすれば通過は可能と見ていい。
……危険な作戦だ。だが、この砦を落とせば――魔族の南方支配域に、大きな風穴が開く」
円卓の上で、戦術担当の士官が小旗を砦の外周に並べる。三方向からの進軍、勇者パーティの潜入、夜明けが合図だ。
だが、次の瞬間。ふと、空気が変わった。ロベールは一段声を落とす。
「――そして、この砦には、魔将の一人がいるという情報が入った」
その一言で、天幕の息が凪いだ。
魔王軍の頂点に名を連ねる四人の魔将――想像しただけで背筋が凍る。
――ここにいるのは、あのヴェルネだろうか?
一瞬、嬌声を上げる冷酷な少女の姿が脳裏をよぎり、姉にちらりと目を向けると、彼女は唇を引き結び、静かに目を伏せた。
ここにいる魔将がヴェルネかどうかはわからない。けれど――誰であっても、こんなことは許せない。
私は唇を噛み、拳をぎゅっと握る。
「決行は明後日の夜だ。月に一度の、奴隷売買の日」
ロベールの声が落ちると、三つの声が重なるように響いた。
「魔将だろうが、やってやるさ!」
「いつも通りだ」
「……放ってはおけないわ」
勇者が拳を突き上げる。焔に照らされた横顔には、自信に満ちた笑み。
盾の騎士は重い盾を床に叩きつけた。鈍い音が地を震わせ、天幕の杭がびりと揺れる。
聖女は両手を胸に当て、前を見据える。彼女の祈りが周囲の心を照らす。
一瞬の静寂。
だが次の瞬間、円卓の周囲で「おおっ!」と歓声が上がる。
松明がはぜ、炎が舞い、士気が熱となって天幕を満たした。
フィーネがこちらを見た。
その瞳には、ためらいのない強い意志。
私も小さく頷き返す。胸の奥で、恐れよりも――熱が勝った。
(……この作戦、失敗は許されない。絶対に、成功させる!)
それは、魔王討伐軍の運命を決める、夜明けへの第一歩だった。
決意を胸に、過酷な潜入作戦が幕を開けた――。




