表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
52/100

第五十二話 おかえりなさい

――ぐしゃり。


骸骨戦士の最後の一体を、バルドの大盾が粉砕した。


新たな敵が這い出してくるまで――

ほんの一瞬の猶予が生まれる。


その直後、バルドが低く、短く吠えた。


「――今だ。一気に倒す!」


その声と同時に、空気が一変する。


「うおおおおおおおおおおーっ!!」


雄牛のような唸り声を上げ、大盾を構えたバルドが突進した。

泥飛沫を蹴立て、一直線――大盾を前に、トリスタンの懐へと突っ込む!


「ぐっ……!」


交わしきれず、トリスタンの構えが崩れる。

その機を逃さず、フィーネの矢が鋭く飛んだ。肩口に突き刺さり、血とも瘴気ともつかない黒い液が飛び散る。


「――っ!!」


肩を射抜かれたトリスタンの身体が、わずかに揺らいだ。

その瞬間、姉が半歩前に出る。『組紐』を巻いた手が、彼を求めるように宙を掴んだ。


「いや……いや……そんな……」


か細い声が、雨に紛れて消える。

姉の視線は今のトリスタンではなく、過去の“何か”を見つめている。

月の白い光の下、あの夜の丘――その記憶が蘇っているのだと、直感した。


――姉さん、ごめん。やるしか――ない!


私は残る力を振り絞り、『浄化』を詠唱する。

声が震え、胸が苦しい。何度も唱えた言葉を、必死に絞り出した。


淡い光がトリスタンの足元に浮かび上がり、彼の動きが――一瞬だけ止まる!


「今だ!」


再びバルドが短く吠える。


エリアスが剣を右に構え直し、泥を蹴って暗闇を一直線に駆け抜けた。

青白く光る聖剣の刃先が軌跡を描き、夜闇を裂く閃光のように――。


(トリスタン、さよなら……。本当の、さよならだ――!)


その瞬間、私の視線の先に、口元を手で抑えるヴェルネが映った。

ルビーのような瞳に、期待と歓喜が混ざった色が浮かんでいる。


――ヴェルネの視線の先は、姉!?


ざわめきを覚え、視線を素早く滑らせる。


姉は濡れた銀髪を頬に貼りつけたまま、唇をわなわなと震わせていた。

瞳は戦場ではなく、まるで遠い記憶のどこかを見つめているようだった。


「――ち、違うの。彼は……。

 だめっ……だめっ……だめぇぇぇぇぇぇ!!」


叫びは唐突だった。


立ち尽くしていたはずの姉が、泥を踏みしめて前へと飛び出す。


「姉さん――!?」

「アリシア!?」

「聖女殿! 下がるんだ!!」


私とエリアスの叫び、バルドの怒号が響く。

それはあまりに突然で――誰も止められなかった。


心臓が跳ね、息が出来ない。

けれどフィーネは引き絞っていた弓を下ろし、短く呟いた。


「大丈夫だ。聖女殿を信じよう」


彼女の言葉に、姉へと伸ばした私の手は空を掴む。

姉の白銀の衣がその先で翻った。


私は歯を食いしばって、一瞬途切れた魔力の流れを必死に繋いだ。

仲間の足元で、支援の魔法陣が暗闇に瞬く。


姉は一直線に、トリスタンの胸へと飛び込んだ。

夜の帳の中、黒い鎧がかしゃんと鳴り、白の聖衣がふぁさと重なる音だけが響いた――。



エリアスは寸でのところで軌道を変え、光が斜めに逸れる。

バルドも、フィーネも、そして私も――誰も動かない。


ただ、雨音と呼吸音だけが、濁流のように耳を満たしていた。


姉はトリスタンの胸を激しく叩き、水滴が飛び散った。

トリスタンは姉を受け止めながら、剣先を降ろしてただ立ち尽くす。


姉の雨に濡れた袖口から、色褪せた組紐がほのかに覗いた。

あの丘の日、姉がトリスタンに贈った組紐。

そして訃報と共に姉のもとへ戻ってきて以来、肌身離さず身につけてきたもの――。


トリスタンの瞳だけが動き、視線が組紐へと吸い寄せられる――


額に張り付く金の髪。

雨に濡れた淀んだ瞳。

目尻に刻まれた微笑みの残滓。

引き結ばれた口元――。


次の瞬間――


雨の音が、ふっと遠のいた。

風も、戦いのざわめきも、すべてが凍りついたように静まり返る。

夜の帳の中で、そこだけが切り取られたようだった。


生命を失っていたはずの瞳が、微かに光を宿す。

睫毛が震え、雨滴を弾いた――。


唇が――わずかに開く。


「……ただいま、アリシア」


掠れた声。

けれど、優しい声だった。


目尻が熱い。呼吸が止まる。

思わず、口元を手で押さえる。


それは聞き間違いようもない。

生前と同じ、トリスタンの声だった。


「……っ!」


姉の目に涙があふれる。

大粒の涙が、ぽろぽろと零れ落ちた。

震える喉から、押し殺した嗚咽が漏れる。


姉の唇が、かすかに動く。

声にならない空気が一度喉の奥で詰まり、それでも言葉が零れた。


「……おかえりなさい……」


姉は彼の胸に額を預けた。

震える手で彼の胸を掴み、嗚咽が雨に混ざって溶けていく。


トリスタンの手が、ゆっくりと姉の濡れそぼった髪に触れる。

確かめるように、そっと滑るように撫でた。


「……待たせて……ごめん……」


風に載って、小さな囁きが私の耳にも届いた。

姉は頬を彼に預け、ぎゅっと震える肩をすぼめる。


それは――かつて姉の手のひらに確かにあったもの。

そして、ある日突然、容赦なく、無慈悲に零れ落ち、

――もう二度と戻らないはずだった瞬間。


まるで、そこだけ空間が切り取られたように。

降りしきる雨さえも、二人を優しく包んでいる。

そんなふうに、私には見えた――。



――気配と共に、雨音が耳を打つ。


「あら、すっごぉい……! こんなの初めてですわ!」


甲高い声が戦場を貫き、私は夢から覚めたように跳ね上がった。

ヴェルネだ。瞳をきらきらと輝かせ、心底楽しそうに飛び跳ねている。


唇をすぼめ、摘まんだ指先を二人へと掲げた。


「でも、ダ~メ。

 あなたはもう死んだの。

 死霊騎士だってこと――忘れちゃいけないわぁ!」


パチン、と指を鳴らす。

その音が合図だった。


トリスタンの身体がびくんと痙攣し、鎧から漏れた瘴気がびしりと締まった。

引き結んだ唇から苦しげな唸りが漏れた。


彼は姉をやさしく押し、姉は目を離さないまま一歩だけ後ずさる。


「逃げ……て……」


そして剣が――ゆっくりと、しかし確実に――上がった。

姉は動かない。唇を震わせ、彼の顔を見上げる。


私は叫んだ。


「姉さん!! 逃げて――!」

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ