第五十一話 違和感
次の瞬間――
「させるかっ!」「――守る!」
短い叫びと共に、エリアスとバルドが同時にアリシアの前へと飛び込む。
トリスタンの剣が、目を見開いたままの姉へと、ためらいもなく振り下ろされた――!
けれど、呼吸を止めたまま私は見た。
ほんの一瞬だけ、トリスタンの瞳に光が揺れたのを。
姉もまた、彼を見つめたまま微動だにしない。
ガキィィン――!
バルドの大盾が火花を散らし、エリアスの聖剣がその刃を弾き返す。
「くっ……!」
間髪入れず、エリアスとトリスタンの一騎打ちの火蓋が切られた。
暗闇の中、火花が次々と咲き、遅れて剣と剣がぶつかる甲高い響きが夜気を裂いた。
――トリスタンの動きには一切の淀みがなかった。
まるで生前の剣筋をそのままなぞるような、正確で隙のない斬撃。
「あのエリアスと……互角!?」
胸の奥がざわめいた。
エリアスの額には汗と雨が混じり、歯を食いしばっている。
「強い。あれが、“次なる勇者”と呼ばれた男……!」
バルドの低い声が、雨音の中に響いた。
「うふふ……」
ヴェルネが両手を口元に当て、小さく肩を揺らして笑った。
まるで楽しい余興を前にした子どものよう――けれど、その瞳だけは真っ赤に妖しく光っていた。
「ねえ、そっちばっかり見てていいの?
ほら――みんな、いっくよ~。いっせーのー、せっ!」
パチン、と小さな指が鳴る。
その合図に呼応するように、ゆらゆらと佇んでいた死霊たちが、一斉に跳ねるように動き出した。
黒い灯が雨の帳の中にぼうっと浮かび上がり、ぬかるんだ地面を蹴って襲いかかってくる。
腐臭と鉄の匂いが夜気に混ざり、渦を巻いた。
「今は――聖女殿をあてにするな」
フィーネの短い警告が、冷たく現実を突きつけた。
私は白杖を掲げ、素早く全員に支援術式を展開する。
『攻撃上昇』『防御上昇』『速度上昇』『回避率上昇』――。
そして姉には、いつもと違う支援を。
『防御上昇』×2、『速度上昇』『回避率上昇』。
今の姉に『魔力上昇』はきっと役に立たない。
幾重もの光の陣が雨の中で輝き、仲間の身体能力が一斉に跳ね上がる。
円陣の中心から、姉が一歩前へと踏み出した。
その瞳は、雨の向こうで剣を交えるトリスタンを真っ直ぐに捉えている。
「トリスタン……!」
暗闇に伸ばされた手。
その手首に、姉が肌身離さず持っている、あの色褪せた組紐がぼんやりと浮かび上がった。
姉の動きを、バルドの盾がぴたりと遮る。
「下がっていてください、聖女殿!」
厳しくも優しい声が夜気を裂き、姉の足が止まる。
その肩が小さく震えた。
私は死霊たちの間を駆け回り、剣やナイフを紙一重で交わしながら、タイミングを見計らって『浄化』の魔法陣を放つ。
一度では効かない。二度、三度と重ねてようやく、一体が光の中に溶けていった。
姉なら一度で十分なはず――でも、そんなことを考えている暇はない。
フィーネの矢が死霊の足を正確に射抜き、地面に縫い付ける。
私はその隙を逃さず浄化を畳みかけ、戦線を維持した。
姉に迫る死霊は、バルドが盾で押し返し、時には叩き潰す。
彼の大盾が地面を踏み鳴らすたび、泥が跳ね、死霊たちが弾き飛ばされる。
一方で――
トリスタンとエリアスの死闘は続いていた。
剣戟のたびに閃光のような火花が散り、二人の足元の泥が激しく跳ね上がる。
互角……いや、むしろ押されている――?
「……あら、折角お連れしたのに――もうこんなに減ってしまいましたの?
だらしのない方たちですこと!
まだ宵の口ですわ! もっと。もっと遊びましょう!」
ヴェルネがくるりと回りながら、楽しげに両手をぱあっと広げた。
その両手から毒々しい瘴気の靄が地面に垂れ、じわじわと染み込んでいく。
次の瞬間、雨に濡れた大地がうねり、どす黒く光る巨大な魔法陣が足元に浮かび上がった。
絶望が闇に咲いた。
ぬかるんだ地面が盛り上がり、骸骨たちが剣と盾を携えて次々と立ち上がる。
骨の軋む音が、まるで宴の前奏曲のように夜に響いた。
「見て見て! ここ、昔――戦場だったんですって!
だから、こ~んなにいっぱい! ね、みんなで踊ったら、もっと楽しいでしょ?」
ヴェルネは目を輝かせ、その幼い顔に歪んだ笑顔を浮かべた。
***
戦いは、ヴェルネにとっては“宴”でも――
私たちにとっては、泥と血と雨にまみれた“消耗戦”だった。
雨の中、息づかいだけがやけに鮮明に響く。
姉は――立ち尽くしたまま。
ひたすらに、エリアスと死闘を繰り広げるトリスタンを見つめていた。
その足は縫い付けられたように動かず、ただ瞳だけが彼を追いかける。
何度目の浄化かも覚えていない。
空はとっくに夜の底へと沈んでいた。
私の身体は悲鳴を上げ、もう時間の感覚もなかった。
結界がない以上、私は避け続けるしかない。
どれだけ攻撃を交わし、どれだけ倒したのかも、もう記憶にない。
確かに、この地はヴェルネの言う通り、古戦場だった。
幾度倒しても、奴らは半ば腐りかけた剣や盾を手に、次々とぬかるみから這い出してくる。
骸骨戦士がバルドの盾に叩き潰され、フィーネの矢で首を飛ばされるたび、ヴェルネは両手を叩いて嬌声を上げた。
「いいわ! もっと、もっとぉ!!」
闇の中で、私たちは目に見えて疲弊し、手を叩いて笑い転げる少女だけが愉悦に満ちていく。
「結界を! くっ!」
三体の骸骨戦士を引き受けたバルドが、低く呟く。
「待って! わたしが!」
バルドの盾がじりじりと押し負ける。
私は素早く『速度低下』『鈍足』をかける。
動きが鈍った隙に、『浄化』を連続で叩き込んだ。
やっとのことで一体が消え、バルドは盾でぐいと押し返し、フィーネの矢が一体の頸椎を吹き飛ばす。
ころころと髑髏がぬかるんだ地面に転がった。
その瞬間、私は思い知る。
姉の力に、どれほど助けられていたかを。
私はただの「聖女の妹」。
姉のおまけに過ぎない――やっぱり「聖女」がいないと、このパーティは……。
そして、トリスタンとエリアスは――
トリスタンは一切の疲れを見せず、剣を振るうたびに金の髪が閃光のように揺れる。
対するエリアスは、何度も息を荒げ、私が『疲労回復』を重ね、やっとのことで互角の戦いを続けていた。
(……支えきれない……!)
手先が痺れ、魔力の流れが途切れがちになってきている。
私はもう限界が近い――。
けれど――
「……おかしい」
後ずさり、私の隣で肩で息をするエリアスの低い声が雨に溶けた。
「剣に――殺意が感じられない……!」
(――殺意が……ない? どういうこと?)
私の心に違和感が生まれる。
でも、姉は――ずっと立ち尽くしたまま。
「……トリスタン……? まさか……」
姉の唇が震え、かすかな声が聞こえる。
雨に濡れた睫毛が揺れ、戦場を見つめているはずの瞳の焦点が、ふと遠くへとぼやけた。
何かを確かめるように、胸元へ手が伸びる。
(姉さん……!?)
胸の奥にざわめきが走った。
――でも、その時の私には、まだ。
微動だにせずにトリスタンを見つめる姉の横顔は――
「聖女」の顔ではなく。
あの夜で“時が止まってしまった少女”の顔にしか見えていなかった。




