第五話 萌芽
――四年前。
魔王軍により故郷を失った姉と私は、侯爵家ゆかりの小さな孤児院に身を寄せていた。
サン・クレール孤児院――
王都の西の外れにある古びた石造りの建物。
窓からはつねに冷たい風が吹き込み、冬は吐く息が白くなるほど寒い。
けれど、あの場所こそがわたしたちの家。あたたかさを教えてくれた場所だった。
私は当時、故郷を失った衝撃で、前世の記憶が少しだけ蘇っていた。
思い出したのは、静かな諦めの記憶だった。――誰も悲しまない、孤独な死の記憶。
そんなある日のこと――。
石畳の小さな中庭は、陽光に満ちていた。
窓辺の影がくっきりと落ち、子供たちの声が石壁によく響く。
「見ててね――」
その中心に立つ姉アリシアが両手を広げると、淡い光が花びらのように舞い上がった。
光はくるくると空を描き、やがて一輪の花をかたどって子供たちの頭上に降りそそぐ。
「わぁ……!」
「花吹雪みたい!」
「アリシアお姉ちゃん、すごい!」
歓声と拍手が巻き起こり、子供たちは手を伸ばしてその光を追いかけた。
姉はくすくすと笑いながら、さらに小さな花をいくつも散らしていく。
銀の髪が陽光を受けて輝き、その姿は本当に“聖女”のようだった。
私は少し離れた場所から、その光景を見つめるしかなかった。
同じ光属性のはずなのに、私ができるのは、手のひらに小さな灯をともすくらい。
子供たちも「すごい!」と一応は言ってくれるけど、すぐに姉のもとへ駆けていく。
――悔しい気持ちは、不思議となかった。
むしろ胸がじんわり熱くなる。
(やっぱり姉さんは特別だ。私も、いつか姉さんみたいになりたい)
「セレナ様」
声に振り返ると、マルグリット司祭が静かに立っていた。
深い皺の刻まれたその目は、優しく私を見守っている。
「あなたの灯りも、とてもきれいですよ。アリシア様は“花”を見せてくださる。でも、あなたの灯は“焚き火”のように温かい」
「……わたしの、灯」
「ええ。どちらも神様が授けられた大切な光。小さくても、消えずに人を守れる灯です」
司祭の手がそっと私の肩に触れる。
その温もりに、胸の奥がじんわり満たされていく。
私は手のひらに灯をともして、にっと笑った。
「……うん、わたしも頑張るね」
その瞬間、子供たちの笑い声がまた弾けた。
姉の光の花が、空いっぱいに散っていく。
その輪の外で、私は掌の小さな炎を見つめながら、心に誓った。
――いつか、姉の隣で胸を張って立てるように。
*
孤児院は、貴族たちのお布施と、かつて巣立った卒業生たちの寄付で成り立っている。
王都の外れ、石造りの質素な建物は、寒さをしのぐには心許ないけれど、誰にとっても「帰れる場所」だった。
孤児院で暮らすようになって一年が経ち、私が十一歳、姉アリシアが十三歳になった頃のこと――。
その日、孤児院の門を叩いたのは、背の高い若い騎士だった。
胸には銀の胸当て、腰には長剣。立派に名を成しつつある青年。
「まあ……! よくぞお戻りくださいました」
マルグリット司祭は涙ぐみながら、その姿を迎え入れた。
青年はずしりと重そうな革袋を卓上に置くと、中から金属の音が転がった。
子供たちの目が一斉に輝く。
「少し遅くなりましたが……今年の分です」
マルグリット司祭の手がふるえ、祈るように礼を返す。
彼は広間を一巡するように視線を走らせ、ふと隅にいる姉を見つけた。
その視線は真っ直ぐで、細やかな敬意と――何かもっと温かなものを含んでいた。
「アリシア様……お久しゅうございます」
言葉の端に照れが混じる。姉は一歩進むと、ふわりと顔を赤らめた。
私はそのやり取りを見て、胸の奥がちくりと刺されたように痛んだ。
「ええ……。あなたのお噂は耳にしております。先日も魔族の司令官を討ち取られたとか」
「はい。まだまだ未熟ですが……いつか必ず、アリシア様の故郷を取り戻してみせます」
真っ直ぐに告げる言葉に、アリシアの頬はさらに染まった。
それに気づいてしまった私は、胸の奥が再びちくり。
(……ああ。二人は特別なんだ)
まだ幼かった私にもそれだけはわかった。
だから、私は黙って見ていた。
光を纏うような姉の笑顔と、それを真正面から受け止める騎士の瞳。
彼の名はトリスタン・ヴァレンヌ。
かつてルクレール公爵家に仕えた騎士の息子。
北方の辺境に構えた私たちの領地は、魔王領と隣り合い、侵攻を抑える要の地。
小さな戦が絶えず、父は騎士団を率いて戦場に赴いた。
勝利を重ねながらも、いつも犠牲を伴う戦だった。
彼は、そんな戦いに身を投じ、誓いに殉じた騎士の子。
今は成長し、勇者候補とも言われるほどの立派な若き騎士として、この孤児院に帰ってきたのだ。
*
そのとき、子供たちがわあっと駆け寄った。
「ねえねえ、トリスタン兄ちゃん! 戦いの話を聞かせて!」
「今日は泊まっていくんだよね!?」
元気いっぱいの声に、青年は少しだけ照れたように頭をかき、笑みを浮かべた。
「ああ、そのつもりだ」
屈託のない笑顔。その声音に、子供たちはさらに歓声を上げて駆け回る。
……けれど私は、その瞬間、隣にいる姉がふっと息を呑んだのを聞き逃さなかった。
ほんのわずか、彼の笑顔に照らされるように頬を染める姉。
その瞳が彼を追ったのを、私は確かに見てしまった。
(……姉さん……)
なぜか、胸が締めつけられるように痛んだ。
でも、それが何なのか、このときの私はまだよく分かっていなかった。
*
その夜。
孤児院の広間には寝息が満ち、子供たちは一人残らず夢の中。
窓の外には淡い月が浮かび、石造りの建物を静かに照らしていた。
私は、どうしてか眠れなかった。
だから、薄目を開けて天井を眺めていた。
二段ベッドの上の段から降りる影が目の前を通り過ぎ、
足音が、柔らかく廊下をなで、扉がそっと開き、閉じる。
胸の奥がきゅっと縮む。
――追ってはいけない。そんなことは分かっている。
けれど、何かに背中を押されるように、体は勝手に動いていた。
布団の中で眠ったふりをしていた私は、息を殺し、その影を追った。
月明かりに照らされて浮かぶのは、姉の後ろ姿と、その影の隣に寄り添う長い影――トリスタンだ。
彼らの距離が、さっきとは違って見えた。
まるで、世界がそっと二人だけを隠しているようで。
(……姉さん、トリスタン様と……)
……見たくないのに、目を逸らせない。
はだしの足先に石畳の冷たさが刺さる。
……けれど、胸の痛みの正体に気付いてしまった――
姉の“特別”が私以外にもあると初めて知ったこと――その方がずっと冷たく感じた。
(……見なければよかった。……でも――)
足が止まりかける。
それでも、もっと知りたいと思ってしまった。
私は、息を殺して繁みに身を隠した――。




