第四十九話 正体
夜の森に、静かな雨音が滲みはじめる。
ぬかるんだ道に雨粒が落ち、ぽつ、ぽつ……と泥水を打つ柔らかな音が、闇の中にじんわりと広がっていく。
草葉を叩く雨が徐々に数を増し、湿った夜気に冷たい匂いが混じりはじめた。
そのとき――
倒れたままの馬車に近付いた瞬間、強化した感覚が“異常”を捉えた。
倒れているはずの人々――その身体には、小さな黒い灯りがぽつぽつと灯っている。
一方で、生きているはずの騎士には……暖かな灯りが――ない。
あの少女――!
雨の中に、どす黒い瘴気のような靄がゆらりと立ち昇っていた。
そこから漂ってくるのは――焚き火の傍で嗅いだ、あの甘い香り!
(――だめだ! 考えてる時間なんてない!)
「近付いてはだめ!!」
反射的に叫ぶと、全員の足が止まった。
その瞬間――横たわっていた少女の身体が、雨に濡れた布が持ち上がるように、ゆらりと起き上がった。
(……起き上がった……!?)
目を凝らす。
その“起き上がり方”は、眠りから目覚めた人間のそれではない。
「つまんないの。折角こうして“舞台”を整えましたのに――」
甘えたような声。
でも――これが本当に、あの少女?
濡れた金髪が頬に張り付き、雨に濡れた黒いビロードのような布地が夜の闇の中でぼんやりと浮かび上がる。
(……なに、この……不自然さ……)
少女は瞼を伏せたまま、左右にゆっくりと首を振った。
まるで目覚めたばかりの身体を確かめるような、ぎこちなくも滑らかな動作。
「……どうしてバレちゃったのかしら?
両親を失った少女を助ける勇者パーティ。
ね? とっても素敵な演出でしたのに」
声は幼い。あどけない。
けれど、その内容だけは――背筋が冷たくなるほど異質だった。
無垢な少女の姿のまま、まるで“遊び”を咎められた子供のようにつま先で雨水をはねさせる。
(私たちを、勇者パーティと知っている――!)
張り詰めた空気に、雨音さえ吸い込まれていく。
フィーネが弓弦を軽く鳴らし、バルドが大盾を握り直す気配が伝わってくる。
そして――瞼が開かれた。
そこに覗いた瞳は、あの姉に抱かれて涙を湛えた少女のものではなかった。
血のように真っ赤な瞳が、じろりと私を射抜く。
「――あなた、ちょっと厄介ですわね?」
「……っ!」
背筋が凍る。
私は息を呑み、思わず姉の腕を掴んだ。
指先がひんやりと冷たい――姉も小さく震えていた。
(魔族だった……! もし、『感覚強化』をかけていなかったら……!)
「貴様っ、魔族か!?」
エリアスの怒声が、雨を裂いた。
少女は露ほども動じず、裾を摘まんでちょこんと一礼する。
ずぶ濡れの布が重たげに垂れながらも、仕草だけは舞踏会の令嬢そのものだった。
「お初にお目にかかりますわ、勇者パーティの皆さん。
わたくし、魔王軍の一角を務める――魔将ヴェルネと申しますの」
空気が、一瞬にして張り詰める。
雨の音さえ遠のき、皆の呼吸がわずかに重なった。
(……魔将ヴェルネ!!)
知らぬ者はいない。魔族の頂点に君臨する“四魔将”――その一人が、ここにいる!
ヴェルネは鈴を転がすような声音で、無垢な笑顔のまま続けた。
「魔王討伐軍、ですの?
わたくしの可愛いバルガスまで滅ぼしてしまわれて……あの子、面白かったでしょ?
人間などいくらでも湧いて出るというのに……。
美食家気取りで、気に入った娘しか食べないんですもの!」
私の脳裏に、リナのあの太陽のような笑顔が浮かぶ。
――人間をそんなふうに……許せない!
ヴェルネはくすくすと笑うと、首を傾げ、いたずらっぽく誘うように微笑んだ。
「皆さん、ずいぶんと勝手なことをなさるから。
ちょっとだけこちらで休んで、皆さまをお待ちしておりましたのよ?」
フィーネが弓を引き絞り、小さく呟く。
「魔族の話など、聞くだけ無駄だ」
「待て」
エリアスが手を伸ばしてフィーネを制し、一歩前へ出た。
「それで、自ら滅ぼされに来たと?」
「きゃはっ!」
耳を刺すような嬌声が、雨音を突き抜けて夜を震わせた。
おかしくてたまらないといった様子で口元を押さえ、子どもが秘密を隠すみたいに肩をすくめて笑い続けるその姿に、思わず一歩、後ずさる。
ヴェルネの顔から、笑いがすっと消えた。
「ご挨拶も済みましたので。それでは――さようなら」
ぴょこんと頭を下げ、髪の紅いリボンがふわりと揺れる。
「みなさま、おねんねの時間ですわよ?」
どこからか、丸い禍々しい球を取り出した。
強化された感覚が、特定する。
――香りの中心はこれだ!
私は白杖を構え、短く詠唱した。
『状態異常耐性上昇』――!
白杖が仄かに光り、五人の足元に魔法陣が紡がれる。
「あら、その魔法――。
すご~い! これのことまでご存知なのね?
だったら、もう遊べませんわね。ざ~んねん!」
ヴェルネは魔導具に、口笛を吹くようにふっと息を吹きかけた。
可憐な唇から吐き出された真っ黒な瘴気が魔導具を包む。
魔導具は雨脚の中でチリチリと音を立てながら崩れ、小さな塵となって空中に四散した。
強化された感覚に、一瞬、強烈な香りが刺さり――くらり、と足元が揺らぐ。
「夢魔香――!」
フィーネが口と鼻を抑えて短く呟いた。
夢魔香――私も文献で知っていた。
特殊な製法で、とある魔物から精製される香。
遅効性で、香りに気付いたころにはもう遅いという……。
あの夜の眠りは、これが原因だったんだ……。
「まあ、エルフさんったら。よくご存じですのね?」
ヴェルネの目が細められる。
少しの間、私たちを値踏みするような沈黙が落ちた。
「……でもあなた……どこかで……」
一瞬、んーと考えるような仕草をするが、すぐに興味を失ったように手をポンと叩く。
「あら、いけない。
そうですわ――あなたがた、とくに“聖女様”に素敵なプレゼントがあるんですの」
ヴェルネが満面の笑みを浮かべる。
その背後――仮面の騎士が、ぬっと立ち上がった。
(姉に……魔族からプレゼント……!?)
背筋が一段と冷たくなり、姉の睫毛が震えた。喉が小さく上下する。
「さあ、見せて差し上げて」
(まさか……!?)
夢の中での騎士の眼差し、姉の動揺。
そのとき、一つの可能性に思い至った瞬間――胸が詰まり、息が苦しくなった。
雨の帳の中、騎士は俯いたまま、仮面にゆっくりと手をかけた――。




