第四十八話 夢の残り香
焚き火は雨上がりの夜気を押しのけ、橙の輪を小さく広げていた。
テントの中では、少女がすでに規則正しい寝息を立て、姉が毛布の端をそっと整えて寄り添っている。
エリアスとバルドは装備だけ最小限に整えたまま、短い休息へ。
私は――フィーネと並んで、焚き火の前に腰を下ろしていた。
湿った土の匂い。火のはぜる音。遠くで一度だけ、雷の名残が低く鳴る。
「君は――どう思う?」
不意に、フィーネが焚き火の向こうから低く問いかけた。
炎に照らされた横顔は、いつも通り感情を抑えた線のままだ。
「どう思うって……。ちょっと変だった、かも」
言葉にしてから、胸の奥に小さな棘が引っかかる。
けれど、フィーネの口元が、ほんのわずかに緩んだ。
それは――「私もだ」と答える代わりの合図のように見えた。
風が向きを変え、焚き火の煙がわずかにこちらへ流れてくる。
焦げた薪の匂いに混じって、甘い香りが一筋――
(……誰か、香草を入れた?)
胸の奥の棘が、ずきんと強く疼いた。
まるで、見えない手が“今ここにいるな”と告げているみたいに。
おかしい。これは――何かが違う。
瞼が重い。思わず瞬きをして背筋を伸ばす。
夜番の最中に、こんな眠気……私は夜に弱い方じゃない。
指先をこすり合わせる。微かな痺れ。喉が熱を帯び、呼吸が浅くなる。
隣のフィーネも片手で弓を支えたまま、わずかに首を傾けていた。
普段なら微動だにしない彼女が、焦点の合わない目でこちらを見て――
「……っ」
何かを言おうと口を開いた、その瞬間。
睫毛がふるりと震え、膝が崩れるように、焚き火の影の中へと沈み込んだ。
「フィーネさん……!?」
声にならない。私の喉も、熱と眠気に呑まれていく。
胸の奥の棘が、今度は警鐘のようにずきずきと鳴った。
これは……眠気なんかじゃない――。
(……きっと、罠だ……)
遠くで小枝が折れる音――誰かの寝返り――風に鳴る葉――
すべてが、同じ距離にあるみたいに平坦になっていく。
歪む視界に浮かぶ大きな影と小さな影。
誰……?
闇に沈む意識の端で、姉の横顔がふっと浮かんだ。
(姉……さん……ごめんなさ……)
焚き火の火勢は落ちていないのに、輪郭が滲む。
頭の中に直接響くような――ぐるぐると内側を回るような、楽しくて仕方がない子供の笑い声。
それは反響しながらだんだんと遠ざかり、最後には、音までもが綿の向こうへ置き去りにされた。
暗転。
***
はっと飛び起きるように目が覚めると、そこは馬車の中だった。
寄りかかっていた隣の姉が、覗き込むようにして優しく笑いかけてくる。
「いいのよ、セレナ。いつも頑張ってるんだから」
(……え?)
向かいの席では、バルドが苦笑していた。
(さっきまで――野営してた、よね?
焚き火、テント、見張り。それで眠ってしまって……。
夢……にしては、あまりに生々しかった……)
その瞬間、喉の奥が焼けるように痛んだ。息が――一瞬、途切れたような……。
手のひらには、湿った土の感触が残っている。
瞼の裏には、焚き火の橙と、ゆらめく二つの影の残像が揺れていた。
……そうだ! フィーネさんは――!
顔を上げると、フィーネはあの時と同じ位置にいた。目が合うと、ほんのりと口元を緩める。
夢で見た“崩れ落ちる瞬間”が、頭の奥でかすかにざわめいた。
ほっとしたそのとき、夜気に紛れて雨上がりの匂いが流れ込んでくる。
森の奥からは虫の声がかすかに響いた。
(……雨上がりの匂い……
夢では、これから嵐になるはずだったのに……)
雷鳴も聞こえず、幌を揺らす風もない。
(……夢と違う……?)
(……おかしい……)
私は状況が理解できず、周りを見回した。
「アリシア、みんな! 森を抜ければあと一刻だ。もう少し辛抱してくれ!」
御者台のエリアスの声。姉は身を乗り出し、彼の頬に指を添える。
「……冷たい。エリアスこそ、無理はしないで」
「もう平気だよ。嵐は過ぎた。君こそ、寒くはないか?」
「ふふ……そんなこと言って、まだずぶ濡れじゃない」
姉は白布を取り出し、そっと彼の頬に当てた。胸がきゅっとする。
――これも夢で見た場面。けれど、雨の激しさも、空の色も、だいぶ違う。
(やっぱり……あれは、ただの夢……?)
姉とエリアスの会話が続く。
「……ねえ、村で頂いた夕食、本当に美味しかったわね」
「ああ、こんなときにちゃんとした食事はありがたいな」
「ふふ、セレナがお腹空いて死にそうな顔をしてたから、気を使わせてしまいましたわね。
バルドよりセレナの方がたくさん食べてて、村の人たち、驚いてたわ」
「ははは……でも、君はあまり食べていなかったのでは?」
「あら? わたし、そんなに食いしん坊に見えるかしら?」
笑い合う声。バルドもフィーネも頬を緩めている。
(……村で夕食? そんな記憶、ない……でも、お腹は確かにいっぱい……)
思わずお腹にそっと手を当てる。姉が隣に戻り、優しく微笑んだ。
「セレナ、お腹いっぱいでしょ? 眠気はもう大丈夫?」
「え、ああ。うん、もう大丈夫だと思う……」
似ているのに、何かが違う――違和感。
そのとき、エリアスが叫んだ。
「……あれは……。止まるぞ!!」
馬がいななき、馬車が軋む。
幌の隙間から外を覗いた私は息を呑んだ。
森の細い街道――ぬかるんだ地面の先に、それはあった。
横倒しになった馬車。泥に沈む馬。壊れた車体に背を預ける騎士、その膝に抱かれた子ども。
(……場所も……光景も……同じ。でも……夢では嵐の中で馬車を止めたはず……)
胸の鼓動が、湿った空気と鉄の匂いに混じって乱れ始める。
夢の記憶と現実が少しずつずれていく。その“継ぎ目”が、逆に強烈な確信を生んでいた。
(これは……予知夢……? それとも、何か別の――)
「なんてことを……!」
姉が震える声で叫ぶ。
「くそ……山賊の仕業か!」
エリアスが低く唸るように吐き捨て、手綱を引き絞る。
バルドは首を横に振り、大盾を起こした。
フィーネは眉を寄せ、矢羽を確かめる。
(……なぜ、夢と“時間だけ”がずれてる……?)
私は幕から指を外し、姉の横顔を見た。
姉は眉を寄せ、聖杖を握りしめて唇を震わせている。
エリアスの合図で、私たちはゆっくりと外へ降りた。
泥が足首を吸い、夜気が頬を打つ。
私は無意識に、姉の袖を指先でつまんでいた。
「……セレナ、大丈夫?」
姉の声はやわらかい。その声に、胸の奥の震えが少しだけ収まる。
「うん、ちょっとだけ気になることがあって……」
喉の奥で小さく言葉を転がし、私は手のひらに極小の魔法陣を描いた。
『感覚強化』――囁くほどの声で、気配だけを立てる。
夜の森の音がほどけ、匂いが層を増した。
濡れた革、泥、水草、鉄……そして、ほんの微かな甘い香り。
この香り――焚き火でも草でもない!
(……今、どこから?)
甘い香り――あの夜と同じ。
胸の奥で、カチリと何かが噛み合った。
私は息を吸い、吐いた。
あの夜と同じ一歩を踏み出しそうになる自分を、足の裏で押しとどめる。
あれは、時間だけがずれた“予知夢”――なぜそんな夢を見たのか、今はわからない。
けれど、たとえそうだとしても、未来は変えられるはず!
今度こそ、小さな違和感を積み上げるんだ。
物言わぬ仮面の騎士とその視線、あの少女の瞳の光、遺体の冷たすぎる手と少なすぎる血――
そして、今ならわかる、この甘い香り。
(……大丈夫。今度は、目を開けたまま進む。絶対に、見落とさない!)




