第四十七話 少女
倒れた馬車の車輪が、風にあおられてからからと鳴る。
馬車の周囲を見渡すと――道路脇に、仕立ての良い服の男女が横たわっていた。
つないだ手の上に、冷たい雨が容赦なく降り注ぐ。
背には何本もの矢。途中まで逃げ、後ろから射かけられたのだろう。
痛々しいほど無防備な姿勢のまま――
きっと、少女の父母だ。私は思わず目を背けた。
けれど、姉は雨など気にも留めず駆け寄り、手首にそっと指を添える。
姉は眉を寄せ、小さく首を振った。
その仕草に、胸の奥がぎゅっと痛む。
私たちは騎士と少女を促し、姉が付き添って少女を馬車へと誘導する。
少女はショックのためか、一言も発しない。
頬に貼りついた濡れた髪と、震える肩が、彼女の壊された心を物語っていた。
姉は少女の背を支え、小さな肩をそっと抱いて馬車へ上げる。
その横顔は強く、そして優しい。
ただ――馬車へ乗る仮面の騎士の手を取ったとき、姉の瞳に、ほんの一瞬だけ、かすかな影が落ちた気がした。
私は雨に打たれながら深く息を吸い、長椅子に座る姉と少女、そして仮面の騎士を順に見つめた。
*
――「やっ!」「むうんっ!」
エリアスとバルドが息を合わせ、掛け声とともに倒れた馬車を一気に起こす。
ぬかるみがぐちりと鳴き、重みが返る。
二人はそのまま馬車を路肩へ押しやり、通行の邪魔にならぬ位置へ寄せた。
雨と風が唸る中、その動きには無駄がない。
フィーネと私は、あちらこちらに横たわる遺体へ向かった。
冷たい雨が容赦なく顔を叩く。
地面に膝をつくと、ぬかるんだ泥がじわりと裾を濡らした。
倒れているのは十人以上。
御者、護衛と思われる騎士……そして数名の山賊。
私たちは一人ひとりの手を胸の前で組ませ、整然と並べていく。
この嵐の中、せめて――山賊であっても、人としての最期を整えてやりたかった。
(……フィーネさん?)
隣で作業をしていたフィーネが、ほんの少しだけ怪訝そうに眉を寄せる。
いつも冷静な彼女の、そのわずかな表情の変化が胸に引っかかった。
私は母親と思しき遺体の手を結ぶ。
その瞬間――ぞくり、と背筋を何かが這い上がる。
冷たい。
あまりにも、冷たい。
“死んだばかり”のはずなのに。
まるで長いあいだ氷の上に横たえられていたかのような、底冷えする感触だった。
それに――。
これほどの致命傷があるなら、もっと血が流れているはず。
だが、流血は驚くほど少ない。
地面に染み込んだ血も、鼻を刺すような血の匂いも……ほとんどない。
(雨が流した……のかな)
……そう思い込もうとする。
嵐がすべてを洗い流してしまった、そういうことにすればいい。
でも、胸の奥に小さな棘が残った。
ぬかるみの中、吹き付ける雨音が、それをごまかすように頭の中を叩き続ける。
私とフィーネは、並んだ遺体に小さく祈りの言葉をかけ、馬車へ戻った。
背後で雷鳴が轟き、森の闇がいっそう深く沈み込んでいく。
***
馬車に揺られ、姉は虚ろな眸の少女をそっと抱き寄せた。
「つらかったね。でも、もう大丈夫」
ぎゅっと抱き締められた少女は、小さく震えながらしがみつく。
「……お父さん……お母さん……」
小さな声。頬を伝う涙が、姉の胸元を濡らした。
姉は彼女の雨に濡れそぼった髪を白布でそっと拭った。
そして、震える肩を抱き寄せ、やさしく髪を撫でる。指先は迷いなく、温かい。
(……ルクレール領の、あの夜)
あの夜、知らせを受けた私は、何もわからないまま泣きじゃくっていた。
震える私の肩を抱いたまま、姉は一度も泣かなかった。
「セレナ、私たちはずっと一緒よ」
そう言って、気丈に。ただ私を抱きしめてくれた――。
あの夜の私と、目の前の少女が重なる。
その瞬間、姉に抱かれた小さな肩は、あのときの私だった。
過去と現在が、一瞬だけ、雨の帳の中で滲み合う。
胸の奥で、古い痛みがきゅっと疼いた。
――そのとき、姉の胸に顔をうずめた少女の、涙に濡れた瞳が一瞬だけ、光った。
内側から灯るようなきらめきが、涙の奥で瞬いた気がした。
(いまの……?)
ぞくり、と背骨の内側を冷たいものが撫でる。
けれど次の瞬間には、ただ泣きはらした子どもの目に戻っていて、私は息を詰めたまま何も言えなかった。
*
馬のいななきが、雨音を割る。
エリアスが手綱を引き、車輪が軋みを上げた。
馬車がぬかるみの端で止まる。
「見てくる」
降りたエリアスの代わりにバルドが無言で御者席へ移り、私は幌の隙間から覗き込む。
道の横の山肌が、抉り取られたみたいに露わになっていた。
崩れた土砂が道をふさぎ、そこへ雨水が流れ込み、目の前はまるで川――。
(……っ! これでは、通れない……)
エリアスは短く判断を下した。
「ここで野営だ。木立のそばに張る。風下を避けて、足元に板を」
私たちは近くの木立の傍に、手際よくテントを張った。
ロープを引くたび、濡れた布がぱしりと鳴る。
もう何度も繰り返した作業だ。私も、すっかり手慣れている。
焚き付けはバルドが携えていた油布で火を移し、湿った小枝を根気よくくべる。
やがて火は芯を掴み、橙の灯が雨の匂いを追い出し始めた。
雨は、ふいに、止んだ。
風も穏やかになり、森も静まる。
私たちは焚き火の周りに輪になり、枝で組んだ物干しに濡れた上衣を脱いで干した。
布から垂れた水滴がじゅう、と蒸気を上げ、肌に温かさが戻ってくる。
フィーネは立ったまま、弓弦の張りを確かめながら周囲へ視線を巡らせていた。
濡れた森は、火のはぜる音と、遠い雷の余韻だけを返す。
姉は少女の肩に毛布を掛け、火に手をかざしながら、呼吸を合わせるように寄り添っていた。
焚き火越しに、姉とエリアスが言葉を交わす。
「……寒くない? 毛布を……」
「大丈夫だ。焚き火で十分暖かいさ」
「エリアス、無理はしないでね……」
姉の横顔に、ふっと柔らかな笑みが浮かぶ。
炎のゆらめきがその輪郭を照らし、夜気の中で、二人だけの小さな空気が生まれたようだった。
姉ははっと気づいて周りを見回した。
「みんなは――」
「もらおう」
姉は膝の上に丁寧に畳んだ毛布を一枚取り、微笑んでバルドにそっと渡す。
焚き火の輪に、ほんのりと緩んだ空気が流れる。
その様子を、仮面の騎士が輪から半歩離れた木陰で、黙って見つめている。
表情は見えない。けれど――焚き火の光が仮面にちらちらと反射し、夜の闇の奥に沈んだ視線だけが印象に残った。
少女を心配しているのか――それとも……。
二人の視線がほんの一瞬だけ交わり、姉の喉が小さく上下した。
火の明かりが、少女の頬の涙を金色に照らす。
突然、父母を失った少女と、私たち姉妹の運命が重なる。
私はさりげなく姉のそばに半歩寄ると、肩を姉に預けた。
姉は目を細めて私にも毛布をかけてくれる。
ほんのちょっとの罪悪感――でも暖かい。
風がひとすじ、濡れ葉を鳴らして過ぎる。




