表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
46/100

第四十六話 嵐の夜

吸血鬼バルガスを斃した私たちは、しばしの休息ののち、進駐してきた第二師団と入れ替わる形で、第一師団と共に再び北上を開始した。


第二師団の師団長はエルステッド卿。ロベール卿の盟友であり、彼と同じく叩き上げの猛者だ。王都防衛戦にも参加し、勇者パーティ発表の際には、ただ一人、私を擁護する発言をしてくれた人物でもある。

バルガスの死によって街は一時混乱したが、これまで通りの税率と施政方針が維持されると発表され、次第に落ち着きを取り戻していった。


ちなみに、リナやギルドの皆さんには、白銀の閃光が勇者パーティであることは今のところ秘密だ。

ヴァルモアに滞在した三日の間、リナの猛攻撃に加え、ふんわり髪の受付嬢さんまで加勢し、エリアスは終始困り顔だった。

二人とも本当にいい人で、最後には姉や私ともよく話すようになり、私たちのパーティにも自然に溶け込んでいた。

けれど――もし彼が王子だと知られたら、二人とも卒倒してしまうに違いない。


こうして私たちは数々の武勇伝(?)をヴァルモアに残して旅立った。

地図の上でうねる黒い旗をひとつ、またひとつと潰しながら、魔王討伐軍は連戦連勝を重ね、着実に北へと進軍していた。


そんなある日――。

久しぶりに戦いの匂いのしない空気の中、私たちの馬車は進んでいた。


奪還した城へ逃げ込んできた若者とともに村へ向かい、村を占拠していたゴブリンやオークを難なく排除。教会に立てこもっていた村人たちを救出した。若者も村人たちも口々に感謝を述べ、笑顔で手を振って見送ってくれた。


あのときの空は、あんなにも穏やかだったのに――。

それは、帰り道の出来事だった。


***


日はとうに暮れ、雲行きはますます怪しくなっていた。連日の戦いと移動で、身体の芯にじわじわと疲労が染み込んでいくのを感じる。


(やばい……眠い――)


でも、疲れているのは私だけじゃない。

だめだ、私だって勇者パーティの一員。城に着くまでは眠れない。

それに、なんとなく御者席のエリアスには負けたくなかった。


そう思いながらも、心地よい眠りの誘惑に、瞼がゆっくりと落ちていく――。


――はっと目が覚めた。


寄りかかってしまっていた隣の姉が、覗き込むようにして優しく笑いかけてきた。


「いいのよ、セレナ。いつも頑張ってるんだから」


(う、バレてた……)


バルドも苦笑し、フィーネも口元を緩める。


眠気が遠のいた瞬間、鼻先をくすぐったのは雨の匂いだった。

まだ降っていないのに、空気の奥底には冷たい水の気配が潜んでいる。


風が――凪いだ。


森の影が、一瞬だけ濃くなった気がした。

まるで森そのものが、ひっそりと息を潜めたように。


次の瞬間、木々を揺らす突風が吹き抜け、馬車の幌がばさりと大きく鳴った。


「雨が――降る……?」


私が呟いたのとほぼ同時に、森を貫く細い街道で雷鳴が腹の底を揺さぶった。続けざまに、雨が一気に馬車の幌を叩きつけてくる。水の幕が道を飲み込み、幌の隙間から覗く景色が瞬く間に白く霞んだ。


「はっ!」


剥き出しの御者席で手綱を握るエリアスが、激しい雨に打たれながら声を張り上げる。


「アリシア、みんな! 森を抜ければあと一刻だ。もう少し辛抱してくれ!」


姉はそっと立ち上がり、幌の切れ目から御者台へと身を寄せた。

フードの下から伸びた白い手が、冷たい雨に濡れたエリアスの頬へとそっと触れる。


「……冷たい。エリアスこそ、無理はしないで」


雨に紛れてしまいそうなほど小さな声。

けれど、その一言に、エリアスの肩がわずかにほぐれる。


「僕は平気だ。君が濡れないようにして」


「ふふ……そんなこと言って、自分はずぶ濡れじゃない」


姉は懐から白布を取り出し、彼の頬に優しく当てた。

一瞬、エリアスが目を細め、ほんのわずかに姉へ視線を向ける。

轟く雷鳴の中、二人の間にだけ、短い静寂が流れた。


私はその様子を見て、胸がほんの少し、きゅっとした。


(……この雨の冷たさのせい、だよね。……たぶん)


やがて木々の間隔がまばらになり、闇の奥にわずかに開けた空間が見えてきた。

森がほどけるように口を開き――


「あれは……。止まるぞ!!」


馬がいななき、馬車が軋みを上げた。

私は幌の隙間から顔を出し、外を覗き込む。

雨が容赦なく顔を叩き、頬を水滴が伝う。


稲妻が一閃、闇を裂いた。

その一瞬、世界の色が反転する。


白い光に浮かび上がった惨状――。

横倒しの馬車、泥に沈む馬、人々の影。


胸の奥で、何かがきゅっと縮んだ。

そして――壊れた馬車に背を預けるように座り込む鎧姿の騎士と、その膝の上で雨に打たれながら横たわる少女の姿。


嵐の音が遠のき、稲妻の残光だけが瞳に焼きついた。

世界が、一瞬だけ音を失う。


「……っ」


喉の奥がひゅっと鳴った。息が詰まる。

次の瞬間、嵐の音が雪崩れ込んだ。心臓が、やけにうるさい――。


「なんてことを……!」


姉が震える声で叫ぶ。

雨に濡れた瞳には、怒りと悲しみが入り混じっていた。


御者と思われる男や護衛の騎士たち、そして山刀やナイフを握ったまま倒れている男たちの姿――。


「くそ……山賊の仕業か!」


エリアスが低く唸るように吐き捨て、手綱を引き絞る。

私たちは魔王軍と戦っているというのに、人間同士でこんな……。言葉が出なかった。


バルドは小さく首を横に振り、立てかけられていた大盾を起こす。

フィーネは眉を寄せ、矢羽をそっと確かめた。


私の喉がひとりでに震え、声を出すより早く心臓が次の鼓動を急かした。

ぬかるんだ大地の匂い、濡れた革の冷たさ、血と鉄のわずかな匂い――。

嵐の絵の具が、すべてを濃く塗りつぶしていく。


エリアスは馬車を横へ滑らせ、雨と風の帳の中で止めた。

吹きすさぶ風が幌を叩き、木々が不気味にきしむ。

――私たちは、嵐の只中で立ち止まった。


胸の奥が、理由もなくざわついていた。


***


稲妻が闇を切り裂き、土砂降りが世界を叩きつける。

私たちは周囲を警戒しながら、ゆっくりと距離を詰めていった。

バルドは盾を半身に立て、エリアスは剣に手をかけ、フィーネは矢羽を指で確かめる。

姉はフードの庇をわずかに傾け、無言のまま前を見据えていた。


馬車に寄りかかる騎士は、雨の幕の中でも微動だにしない。

まるで、この嵐の只中に取り残された像のようだった。


その膝の上で、少女がびくりと小さく身じろぎする。

濡れた睫毛が震え、ゆっくりと目が開いた。


(……生きてる)


心臓が一拍、強く跳ねた。

冷え切った雨の中、その小さな動きだけが妙に鮮やかに目に映る。


少女の服装は、貴族、あるいは裕福な商家の子女のものに見えた。

上質な布地と落ち着いた縁取り。雨に濡れても、仕立ての良さは隠せない。


私たちが近づくと、騎士が顔を上げた。

仮面を被っている。声をかけても名を尋ねても、彼は首を横に振るばかりだった。

口を閉ざしているのか、それとも……話せないのか。


ただ、その仮面の眼孔から覗く視線が一度だけ姉を捉えた瞬間、姉の指先がわずかに止まった。

長い睫毛が、ほんの一瞬だけ震える。


(……姉さん?)


纏う空気が、誰かに似ている――。

鼻の奥をかすめるような、遠い記憶の残り香。

思い出せそうで、思い出せない。

胸の奥に、かすかなざらつきが残る。

私自身にも、その騎士の気配に覚えがあるような気がして――それが余計に落ち着かなかった。


雨と風が荒れ狂う夜――この嵐が、何を運んできたのか。

そのときの私には、まだ分からなかった。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ