第四十四話 絶望と希望と
視界がぐにゃりと歪み、紅に――染まった。
リナの首がゆっくりと、力なくこちらへ向く。
震える手が、小さく上がった。
紅に染まった瞳。
そして――
真っ赤な唇の隙間から覗く、小さな白い牙。
「……お願い……殺し……て……」
掠れた声と共に、リナは糸が切れたようにがくりと力を失った。
ぱさり。
真っ白な手が紅い絨毯に落ちる音が、耳の奥で反響した。
――だめだ、だめだ、だめだ、だめだ!!
絶望に息が詰まり、胸が張り裂けそうになる。
その時、私の中で何かが弾けた。
真紅に染まっていた視界に一気に色が戻り、私は肺が裂けそうなほどの声で叫んだ。
「お願い! 誰か――っ!!」
次の瞬間――
人狼の群れの間を、影のようにフィーネが駆け抜けた。
(フィーネさん!!)
空中で弓を引き絞り、放たれた矢は一条の閃光となって吸血鬼の頭部を正確に貫く――
ビィィン――ッ!
しかしバルガスは振り向きもせず、指先で矢を掴み取る。
紙一枚の狂いもない軌道を、まるで遊び半分で遮るかのように。
ポキリ、と無造作に矢を折る乾いた音が、広間に響いた。
「――くっ!」
フィーネの姿は再び人狼の壁の向こうへと掻き消える。
(まずい……!)
首筋に、冷たいものが走った。
あいつに効く魔法は――何か……!
焦れば焦るほど、思考は空回りしていく。
胸がぎゅっと縮み、空気が肺に入ってこない。
(……攻撃魔法は、私には……!)
でも、立ち止まっていられない――!
そのとき――ひと筋の希望が脳裏をよぎった。
震える唇を噛み締め、私はありったけの魔力を込め、詠唱を紡ぐ。
『浄化』×5――!
変貌を遂げた吸血鬼の背後に、五重の魔法陣が輝いた。
毒や瘴気を浄化できるなら、魔族にも効果があるかもしれない――!!
(お願い! 効いて……!)
バルガスがゆっくりと首を上げる。
リナの首筋から牙へと伸びていた血の糸が、ぷちんと音を立てるように切れた。
「……ちくりとしたじゃないですか?
誰です? 人の食事を邪魔するのは?」
真紅に輝く双眸が、私を射抜いた。
「私はね。礼儀を弁えない者が――一番嫌いなんですよ」
怒りではない。そこに、感情の揺らぎはない。
けれど、その全てを凍らせるような冷たい視線に、背筋が凍りつく。
(怖い! けど――次は!?)
そのとき――
「――任せて!」
見上げれば、姉――聖女の微笑み。
「姉さん!」
姉は小さく頷いた。
その目がすべてを語っていた。私も、すべきことはわかっている。
ひりつく喉で詠唱を続け、白杖を握る手にありったけの魔力を込めた。
『速度上昇』×2――
『魔力上昇』×3――!
五重の光陣が姉の足元に展開され、空気がびりびりと震える。
姉が静かに聖杖をバルガスへと掲げる。
――姉の結界が霧散し、人狼たちが一斉に飛び掛かった。
けれど――私たちには仲間がいる!
「守る!」
バルドが大盾を叩きつけるように地へ落とす。
地響きが鳴り、姉の前に築かれた鉄壁の守りが爪を、牙を、弾き飛ばす。
「近付けさせない!」「――任せなさい!」
エリアスは迫る人狼を次々と斬り裂き、フィーネは三本の矢を同時に放つ。
仲間に守られながら、姉は一歩踏み込んだ。
そして、凛とした声――
「絶対に――あなたを許さない!」
空気がきしみ、広間が震える。
姉は聖杖を胸の前に掲げ、詠唱と共に何もない空間を力強く引き絞った。
『――聖なる大弓よ!』
光の弧が走り、巨大な弓が顕現する。
眩い光をまとった姉は、まるで怒れる光の女神がこの世界に降り立ったかのよう。
「いっけええええっ!」
「撃てぇぇぇっ!!」
「うおおおおっ!!」
「今よっ!!」
私の、勇者の、盾の、弓使いの声が重なり、五人の心が一つになった。
空間が――震えた。
次の瞬間、音が消え、弦の音だけが高らかに鳴り響き――
夜空を裂く流星が広間を貫き――
吸血鬼の胸へと真っ直ぐに吸い込まれた。
聖女の一矢――
吸血鬼は深紅の瞳を見開き、胸に刺さった矢に目を落とす――
閃光を放ち、爆発した!
バルガスの身体が吹っ飛び、背後のタペストリーに叩きつけられた。
リナが赤い絨毯に崩れ落ちる。
残る二体の人狼。
エリアスの聖剣が鮮やかに一体の首を跳ね飛ばし、フィーネの矢がもう一体の眉間を正確に貫いた。
壁に縫い付けられたバルガスの胸には、大穴が穿たれている。
灰が、ひとひら、またひとひらと舞い始めた。
「な……なんだと……この不死身の肉体が一撃……!
これは……竜王を斃した――大弓……!?」
その声には最初で最後に滲んだ感情――“恐れ”の色があった。
「まさか貴様ら……勇者と……聖女か……!」
刹那、吸血鬼の身体が色褪せ――音もなく崩れ落ちた。
灰が舞い、夜が静まり返る。
広間には聖なる残光だけが残り――
光の花びらが、静かに舞い散っていた。
――戦いは、終わった。
*
灰が静かに舞い上がり、夜の闇へと溶けていく。
――広間に、ひとときの静寂が訪れた。
「――リナさんは!?」
私は駆け出していた。
赤い絨毯に滲んだ彼女の血がじわじわと広がる中、心臓の鼓動が耳の奥で激しく鳴り響く。
その血の色が、まるで広間全体に染みわたるかのように、視界が赤く霞んだ。
「リナさん!!」
短い叫びとともに、同時に駆け寄ったエリアスが膝をつき、彼女をそっと抱き起こす。
リナの瞳は深紅に染まったまま大きく見開かれ、真っ赤な唇の隙間からは白い牙が覗いている。
あの太陽のようだった少女の時は、まるで壊れた時計のように――止まっていた。
白い肌を伝った血が首筋から流れ落ち、床に細く長い紅を描いていく。
エリアスは小さく首を振り、鞘から聖剣を静かに抜いた。
「……君を救えなくて……すまない……」
震える声でそう言うと、剣をリナの胸元――心臓の上に静かに当てる。
その表情には、戦場を何度も見てきた男の覚悟と、ただ一人の少女を救えなかった痛みがにじんでいた。
バルドは静かに立ち尽くし、フィーネはほんの少しだけ視線を逸らす。
姉は、黙って私の肩に手を添えてくれた。
姉の手はいつものようにあたたかい。けれど――
目尻が痛いぐらい熱くなり、頬に熱いものが流れ出す。
(本当に、こんな結末しかないの――!?)
私は目の前の現実が受け入れられず、
締め付けられるように痛む胸を押さえて、俯いたまま目を背けた。
そのとき――涙に滲む視界の端で、白いものがぴくりと動いた。
(今……指が!?)
私は息を呑み、膝を突く。
震える指先でリナの冷え切った手を取った。
――脈が、ある!
胸に、小さな希望の火が灯った。
「エリアス、待って!! まだ……間に合う!!」
思わず叫んだ声に、エリアスの剣先が上がり、瞳が私を真っ直ぐに見つめる。
その一瞬で、場の空気が張り詰めた。
「姉さん……! 私じゃ、救えない……!」
私は姉に救いを求めた――姉じゃなきゃ、聖女じゃなきゃ無理だ!
振り向いて叫ぶと、姉は迷いなく跪き、リナの胸の上へと両手をかざした。
『魔力上昇』×5――!
私は姉の足元に最後の力を振り絞って魔法陣を重ねる。
そして――胸の奥から祈りを込めた。
(姉さん……! 聖女――様! リナさんを……助けて!!)
柔らかな光が溢れ、少女の身体を包み込む。
その瞬間――傷口から、黒い瘴気がもやのように立ち昇った。
聖なる光と闇の瘴気がせめぎ合い、空気がびりびりと震える。
しかし、姉の表情は揺るがない。
立ち上がった瘴気はまるで生き物のようにうねり、苦しみ、もだえ、光に抗おうとするが――
次の瞬間、それは一気に光に呑まれ、はじけ飛んだ。
じんわりと首筋の傷が塞がっていき、唇から覗いていた牙は小さく縮み、朱に染まっていた瞳も、ゆっくりと本来の色を取り戻していく。
やがて瞼を閉じたリナの睫毛がわずかに震え、かすかな寝息が漏れた――。
評価やブクマをしてくださった皆様、本当にありがとうございます。
一つ一つがとても励みになっています。
これからも最後まで楽しんでいただけるよう頑張りますので、引き続きお付き合いいただけたら嬉しいです!




