第四十三話 紅に染まる夜
「――さあ、紳士諸君。あなたたちに用はない。お引き取りを」
バルガスは胸に手を当て、微笑みさえ浮かべて言い放った。
「な……!」
エリアスとバルドは唇を噛み、構えを崩さない。
勇者の碧い瞳と騎士の黒瞳が、激しく吸血鬼の紅を刺し貫く。
「ふむ。困りましたね。実に聞き分けの悪いお客人だ。それでは――」
語るその目は、空虚。
口調は穏やかでも、その紅い瞳に感情の揺れは微塵もない。
背筋に冷たいものが走る。
人と同じ言葉を話していても、その奥に“情”というものは一片も感じられない――。
(これが……魔族……)
フィーネの警告がふと脳裏をよぎる。
――『信用するな』。
だが、次の言葉が落ちた瞬間、氷で背中を撫でられたような戦慄が走った。
「――今からこの娘を吸い尽くすか、あるいは黙って帰るか。選んでいただこう」
リナの頬を、止めどなく涙が伝う。
「貴様ァ……!」「断る!」
二人の怒りの叫びが重なり、刹那――
エリアスが剣を抜き放ち、バルドは盾を構えて床を踏み鳴らした。
ズドン――! 重い音が謁見の間に響き渡る。
姉は腰の聖杖を握り締め、フィーネが弓を引き絞る音が広間に走った。
「ふふ……そうですか。
でも、勘違いしないで頂きたい。
Aランク冒険者如きが、この私に抗えるとでも?」
バルガスはくすりと笑い、指を鳴らす。
肉がぶちぶちと裂ける音。
生臭い鉄の匂いが一気に満ち、鼻腔の内側がひりついた。
私は低く構えながら、腰の白杖に手を伸ばして周囲を見回す。
使用人たちの背骨が不自然に反り返り、皮膚の下から毛が生え、牙が伸びる。
ついさっき「人間」と判定した男の姿も、見る間に獣へと変貌していった。
満月の光が高窓から差し込み、その姿を白々と照らし出す。
「人狼……!」
十数体の人狼が咆哮を上げ、一斉に襲いかかってきた――!
***
「――来る!」
エリアスの剣が月光を反射して閃き、最初の一体を真っ二つに両断する。
バルドの盾が轟音を立てて床を叩き、人狼の爪を受け止め、押し返す。
鋭い爪が結界に触れるたび、姉の結界がぱしん、と弾けて光が火花のように散る。
フィーネの矢は正確に肩口へ吸い込まれるが――矢が抜かれた途端、肉が盛り上がり、傷はみるみる塞がっていく。
(再生が……早い! 今夜は、満月……!)
焦りが喉元までせり上がる前に、指先だけを先に動かす――計算、優先順位、詠唱。
私は息を詰め、支援魔法陣を次々と展開する。
足元に光の陣が幾重にも重なり、仲間たちの身体能力と魔力が一斉に跳ね上がった。
さらに隙を見て、人狼へデバフを叩き込む。
『攻撃低下』
『防御低下』
『速度低下』
『回避率低下』
『鈍足』――!!
魔法の連打に眉間に鈍い痛みが走り、視界の端が星砂のようにちらつく。
光が矢継ぎ早に走り、人狼たちの動きがわずかに鈍る。
だが数が多すぎる。倒しても、すぐに再生して立ち上がる。
押し返しきれず、攻防はさらに激しさを増した。
「……Aランク程度にしては、存外やりますね……」
悠然と玉座の前に立つバルガスは、リナの体を抱きすくめるように腕に固定し、冷たい声で続ける。
「ふむ……私自ら手を下す必要がありそうです。
――では、その前に、食事を済ませましょうか」
「……え……?」
リナの瞳が大きく見開かれる。逃げることも、声を上げることもできない。
私も支援魔法を途切れさせないため動けず、ただ見ていることしかできなかった。
それでも――冷酷な声だけは、耳にしっかりと届く。
「リナ……今宵、あなたのおかげで素晴らしい“愛し子”が三人も。
喜びなさい。今、褒美としてあなたを吸い尽くし、我が眷属に迎えましょう。
共にあの者どもの生気に満ちた血を啜り、永遠の夜を分かち合うのです……」
まるで恋人を愛おしむように、しかしどこか異様な手つきでこめかみから髪を梳く。
その言葉の意味を理解した瞬間、背筋は一気に冷え、私の身体が一本の棒のように強張った。
「――い……いやぁ……」
「おや、それは不思議ですね……。あの男を見た瞬間のあなたの身体の反応……。
さあ、喜びなさい。彼はあなたのもの。好きに扱うがいい……」
次の瞬間、バルガスの赤い口に覗いたのは、青白く光る牙。
「……だめ……! うぐ……!」
二本の牙が、抵抗を封じられた少女の首筋へ冷たく沈む。
リナは恐怖に目と口を大きく開いたまま、びくんと身体をのけぞらせた。
その瞬間、見開いた瞳に圧倒的な恐怖と、言葉にならない感情が滲み、つう、と涙がこぼれ落ちる。
首筋から二筋の鮮血が滴り、燭台の光を受けて赤く艶やかに輝いた。
(やだ……そんな……!)
目の前で、手の届く距離で――一人の少女が“別の何か”に変えられていく。
ふくらはぎが糸のように張り、踵は床に縫い付けられたみたいに動かない。
「――うっ!」
喉の奥から熱いものがこみ上げ、息が詰まる。
胸の奥がぎゅっと締め付けられ、魔法陣を維持する手が震えた。
けれど――支援を止めれば前線は崩壊する。私は動けない。
「……見ない……で……」
リナの掠れた声が、涙と共にかすかに零れる。
誰に向けた言葉なのかもわからない。
「……っ、は……」
バルガスの喉が生々しく上下するたび、リナの身体はびくびくと震え、白い喉から短い吐息が零れた。
ごくり、ごくりと血を啜るその音が、耳の奥でやけに鮮明に響く。
真っ白に透き通っていく肌、震える唇、のけぞった背、潤んだ瞳――。
圧倒的な恐怖に染まりながら、その奥に覗く何か……。
それに気付いた瞬間、心臓がどくんと跳ねて、息が止まった。
(やめて―――!)
叫びたいのに声にならない。
声帯に薄い氷が張りついたみたいで、息だけが隙間から漏れる。
足元の魔法陣がかすかに揺らぎ、私は歯を食いしばって踏みとどまった。
(お願い! 誰か――!!)
爪が掌に食い込み、痛みで意識を現実に繋ぎとめる。
吸血鬼の瞳は愉悦に染まり、口元からは鮮血がゆっくりと滲み出す。
ルビーのようだった瞳はさらに深紅へと染まり、耳が長く伸び、禍々しく尖っていく。
まるで少女の恐怖を糧に――“真の姿”をあらわしていくようだった。
そしてその瞬間、赤だけが、世界から浮き上がる。
他の色が薄紙の向こう側へと押しやられ、私の視界に残ったのは、滴る血と吸血鬼の瞳だけ――。
夜は、紅一色に塗り替えられた。




