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第四十二話 裏切り

「領主と面会するのに、淑女がフードを被ったままというのは――少々、無粋ではないかな?」


バルガスの声音は柔らかかったが、その奥底には、ごく薄い“圧”が滲んでいた。

視線をエリアスに向けると、彼は小さく頷く。


仕方なく、私とフィーネはフードを後ろへと下ろした。

ひやりとした広間の空気が頬を撫で、肌がきゅっと引き締まる。

並ぶエリアスとバルドの向こうで、フィーネの長い耳が炎に照らされ、白く浮かび上がった――。


その瞬間、領主の瞳がわずかに見開かれ、燭台の炎を映して紅く瞬く。

まるで、目の前の“獲物”の熟れ具合を値踏みする狩人のように。


背筋の産毛がぞくりと逆立ち、膝裏に冷たい汗が滲んだ。


(……今、明らかに眼差しが変わった……)


しかし――姉だけは、唇を引き結んだまま、なおもフードを目深に被っていた。


「まだ礼儀を弁えぬ者がいるようですね――」


紅い視線が、姉へとじっと注がれる。

その声には、かすかに艶を帯びた威圧が含まれていた。

仮面の下に潜む“本性”が一瞬、顔を覗かせたようで――

喉の奥がからからに渇き、唾を飲み込む音が自分の耳にやけに大きく響く。


姉は一歩、静かに前へ進む。

ゆっくりと、フードに手をかけた。

――まるで舞台女優が幕を引くような、洗練された所作。


「……これでよろしいかしら、領主殿」


銀の髪がさらりと流れ落ち、炎の光を受けて神々しくきらめく。

白磁のような肌が燭火に照らされ、銀の睫毛が上がると、光を湛えた紫の瞳が静かに開かれた。

夜の闇に舞い降りた一筋の月光――まさに、その光景だった。


バルガスの瞳が、ひときわ鮮やかに紅く瞬く。

姉は怯むことなく、その視線をまっすぐに受け止めた。

空気がぴん、と張り詰め、二人の間に見えない緊張の糸が渡される。


「これは……。なんと素晴らしい……」


バルガスは一瞬、息を呑んだ。

その言葉が肌に触れた瞬間、薄い絹越しに撫でられたような、ねっとりとした嫌悪が背筋を走る。

だが彼はすぐに柔らかな笑みを浮かべ、貴族の礼で丁寧に一礼した。


「……失礼した。若く美しいご婦人方に……しかも、お一人はエルフとは。実に珍しいお客人だ」


声も所作も紳士そのもの――。

だが、その奥に潜む“何か”が、冷たい指先で肌をなぞるような感覚を残していく。


エリアスとバルドの構えが、ほんのわずかに変わった。

剣を抜く一歩手前――呼吸と姿勢の微細な変化。

空気がじりじりと熱を帯び、見えない刃が交錯するような緊張が場を支配する。


バルガスはワイングラスを飲み干し、音もなく卓へ戻した。

真紅の唇の端を、ゆっくりと持ち上げる。


「ふふ……少々、気が変わりました。依頼は――撤回です」


みぞおちをぎゅっと掴まれたような衝撃。

指先から体温が、一瞬で引いていく。


ぱん、ぱん――と軽やかな拍手が響いた。

それは、舞台の第二幕の開幕を告げる合図のようだった。


その音に呼応するように、背後の扉が音もなく開いた――。



私たちは一斉に振り向いた。

黒外套の男が扉の脇に控える。

そこに静かに佇んでいたのは――見覚えのあるエプロン姿。


「……リナ!」


私の右を通り過ぎる。

思わず手を伸ばしかけ――胸の奥で小さく悲鳴が跳ねた。


私の肩に手がかかる。

振り向くと、隣の姉は小さく首を振った。


あの太陽のような笑顔が嘘のように、少女は震える足取りで通り過ぎていく。


視線が彼女から離れない――。


部屋の中央で立ちすくむ私たちの脇を通り過ぎ、前を横切る。

彼女の足取りがほんの一瞬だけ乱れ――エリアスと視線が交わった。

そのとき、ふっとバルガスが息を吐いた気がした。


やがてリナはバルガスの前で止まると、足元を見つめたまま、こちらを向く。

信じられない――喉に何かが支えたように、言葉が出ない。


「……ごめんなさい……」


絞り出すような声。震える睫毛。瞳には、はっきりと涙が浮かんでいる。

バルガスはマントをばさりと広げ、リナを抱きすくめるように立った。

その姿は紳士というより――獲物を囲い込む影。


「……リナさん、まさか……!」


震えながらも、やっと声が出る。

エリアスが剣の柄に手をかけ、フィーネは背中の弓へと手を伸ばした。


「紹介が遅れて申し訳ない。彼女は、私の“愛しいとしご”だ」


(……愛し……子?)


バルガスは口の端をわずかに上げると、リナの首元へと手を伸ばした。


きゅっと結ばれていた赤いスカーフがほどけ、真っ白な首筋が露わになる。

肌の下、青い血管が淡く透け――


(あ、あれはっ――!)


その滑らかな首筋に穿たれた、じくじくと血の滲む、うじゃじゃけた二つの穴。

リナは顔を背け、目を伏せた。


隣に立つ姉の肩がびくりと震えた。

唇を噛みしめる音が、かすかに耳に届く。


胃が反転するようにせり上がり、奥歯でどうにか込み上げるものを押し戻す。


「……吸血鬼バンパイア……!」


短い叫び声が漏れる。


バルガスはその傷口へと顔を寄せ、香りを愉しむように恍惚と息を吸い込む。

リナは顔を背けたまま、ぴくん、と震えた。


「人さらいは……貴様の仕業か!」


エリアスの怒声が、謁見の間に響き渡る。

バルガスは目をしばたたき、まるで心外だと言わんばかりに肩をすくめる。


「この私が人さらい? とんでもない。

 この街の評判が下がってしまう。私は本当に困っているのです」


バルガスは鼻を鳴らすと、リナの顎へ手を添えた。


「そもそも――私にはそんな必要すらない。この街の人々は私に心酔している。

 ――そうですね、リナ?」


指を添えた顎をくいと引き、彼女の顔を自分へと向ける。

リナは目を伏せたまま、結んだ唇を震わせた。

その震えこそが、むしろ答えだった。


「この娘も自ら、喜んで私の馬車に乗り――その身を捧げた。

 皆、自ら望んで、喜んで、身を捧げる。

 ――それが、この私が作り上げた“理想の街”なのです」


エリアスの、ぎり――という歯ぎしりの音が広間に響く。


(……この街全体が、吸血鬼の“餌場”……!)


あの人々の笑顔も、市場の活気も、民の喜びも――

すべて、この吸血鬼が“餌”をおびき寄せるために作り上げた虚構。


私の胸の奥で、どす黒い怒りがぐるぐると渦を巻く。


リナは涙を拭うこともできず、震える声で訴えた。


「……領主様……。約束が違います……。

 お願い……もう、返してあげてください……」


姉は思わず半歩踏み出し、声にならない息を漏らした。

バルガスは頬の皺を深め、ワインレッドの瞳を細める。


「他ならぬ君の頼みだ。もちろんだとも、約束は守ろう」


バルガスは両腕を広げ、深紅のマントが背景のようにリナの後ろに広がった。

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