第四十一話 魔族の領主
リナは頬を上気させ、肩で息をついていた。
エリアスの姿を見つけるや否や、ぱっと目を輝かせて駆け寄り、弾むような声を上げる。
「あ、あの! 昼の《銀狼亭》でお会いしたリナです、覚えてますか?」
「ああ、もちろん。君にまた会えて、僕も嬉しいよ」
エリアスが穏やかに答えると、リナの顔がぱっと明るくなった。
頬をほんのりと染め、じっとエリアスを見つめ――しかし、その声色がわずかに沈む。
「あの……。きっと、悪い話じゃない……はず、だから」
一瞬だけ、リナの視線が泳いだ。
けれどすぐに、いつもの元気な調子に戻る。
「す、すごいですね! バルガス様からお声がかかるなんて!
頑張ってください、きっとあなたたちのこと、気に入ったんですよ!」
小さく手を振ると、リナは厨房へと駆け戻っていった。
(……今、ちょっと言い淀んだ……?)
胸の奥に、かすかな違和感が灯る。
けれど周囲の宿泊客たちは、羨望と感嘆の声を上げるばかりだった。
私はそっと指先を動かし、空中に小さな魔法陣を描く。――『感覚強化』。
「――っ!」
一気に、客たちのひそひそ声、厨房で肉が焼ける音、廊下を行き交う足音……
それらすべてが、鮮明な音となって押し寄せてきた。
耳の奥が、ざわめきと気配で満たされる。
(……使いたくなかったけど……)
私は、領主の使いだと名乗る黒外套の男に意識を集中させた。
橙色の灯火に照らされるその人影からは――確かに“人間”の気配がする。
魔でも、亡者でもない。
ふうっと息を吐き、魔法陣を逆の手順でかき消す。
世界が再び、夜の静けさに包まれた。
ひやりとした夜気が肌を撫でていく。
その頃には、エリアスたちの間で短い言葉のやり取りが交わされていた。
「罠……か?」
「……かもしれんな」
「けれど、行くしかない」
「アリシアの言う通りだ」
「うむ」
勇者・盾・聖女――三人の間で交わされるのは、まるで戦場のように無駄のない応答だった。
フィーネは黙ってローブのフードを深くかぶり、私もそれにならう。
胸の奥に、小さな緊張が走った。
窓の外には、黒塗りの馬車が一台、夜道に静かに佇んでいる。
ランプの灯りを受けて、漆黒の車体が淡く浮かび上がった。
その姿には、不思議な威厳と圧力が同居している。
そのとき、フィーネが小さく空を仰ぎ、ぽつりと呟いた。
「……満月、か」
夜空には白々とした月が静かに浮かび、街と馬車を淡く照らしていた。
美しい光なのに――胸の奥で、ひやりと冷たいものが揺れる。
*
夜――領主館。
黒塗りの馬車が石畳を静かに進み、私たちは重厚な門をくぐった。
整えられた庭園を抜けると、夜闇に浮かび上がる館の輪郭が、月光とランプの明かりに照らされて静かに存在感を放っている。
案内された謁見の間は、深紅の絨毯と燭台の炎に満たされた、荘厳な空間だった。
高い天井には重厚な梁が走り、壁には歴代領主の油絵とタペストリーが整然と並ぶ。
分厚いカーテンが夜を閉ざし、炎の揺らぎだけが空間を照らす様は――まるで舞台の幕が上がる直前のようだ。
その中央に立つのは、白い肌に紅い唇、血を溶かしたような瞳を持つ若き領主――バルガス。
外は漆黒、内は深紅のマントが肩から流れるように垂れ、燭光を受けてゆらりと揺れる。
夜と血を纏った貴公子――そんな言葉が、自然と脳裏に浮かんだ。
(……この人が、魔族……。まるで、人間の貴族みたいだ……)
声は驚くほど柔らかく、所作は王都の貴族そのもの。
流れるような仕草には一片の隙もなく、視線が交わった瞬間、心の奥を覗き込まれるような感覚が走った。
「ようこそ、Aランク冒険者《白銀の閃光》の諸君。
よくぞ、我が街へ」
「――人さらいの件、ですね」
エリアスが一歩踏み出し、単刀直入に切り込む。
バルガスは優雅に頷き、手にしたワイングラスを軽く傾けた。
深紅の液体が燭光を受け、妖しくきらめく。
「うむ。優秀な冒険者は話が早くて助かる。
最近、若い娘や子供がさらわれる事件が相次いでいてね……私も心を痛めている。
この街の評判にも関わる。
君たちのような実力者に、ぜひ調査を頼みたいのだ」
「……魔族と聞いたが」
低く響いたバルドの声。
その一言に、場の空気がぴんと張り詰めた。
バルガスは即座に視線を返し、紅い唇をわずかに吊り上げる。
「その通りだ。それでは……不満かね?」
空気が、一瞬にして凍りついた。
フィーネが、ごく小さな声で呟く。
「(……信用するな)」
けれど、バルガスは微笑を崩さない。
艶やかに、しかし底知れぬ笑みを浮かべたままだ。
「私は、人と魔族の共存を望んでいる。この街を見れば分かるだろう?
税は軽く、商人も冒険者も自由に出入りできる。
私はただ――この街を守りたいだけだ」
その言葉の直後、勇者・聖女・盾――三人の視線が、音もなく交錯した。
短く、しかし確かに互いの考えを読み合う、一瞬の沈黙。
(……確かに、街は普通だった。でも――)
ふいに、バルガスがグラスを傾けたまま、鼻先をわずかに持ち上げた。
まるで夜風の奥に潜む匂いを嗅ぎ分ける獣のように、静かに、確実に。
(……今、何を……?)
その瞳が、ゆっくりと私たちの列をなぞる。
やがて――女性陣、私・アリシア・フィーネの前でぴたりと止まった。
一瞬、空気が張り詰める。
「……ところで」
柔らかくも、妙に艶のある声が、静寂を切り裂いた。
「領主と面会するのに、淑女がフードを被ったままというのは――少々、無粋ではないかな?」




