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第四話 蛍光

夕餉の準備をするシスターたちの手で、孤児院の広間はたちまちにぎやかな宴会場へと変わった。


隅に座った私は、長机の表面に残る擦り傷をそっと指先でなぞる。

ここで何度も食事をした。時には泣きながら、時には笑いながら。


ふと目を上げれば、花のような笑顔を咲かせた姉のまわりに子供たちが集まっている。

――少し後ろから眺めるその光景は、子供の頃と同じ。それは懐かしくて、温かい。


やがて姉も私も立ち上がり、皿を運ぶ。

エリアスとバルドまで立ち上がろうとするが、姉は笑って子供たちの相手を頼んだ。

たちまち二人の周りに子供たちが群がった。

フィーネも杯を置いて立ち上がると、シスターに混じって一緒に飲み物を運んでくれた。


長机に並ぶのは質素ながら温かな料理。

香ばしいパンと煮込みの湯気に、子供たちの目は輝いている。


「勇者様の冒険のお話、聞かせてー!」

「魔族をやっつけたときのこと!」


子供たちにせがまれ、エリアスは少し照れたように笑って席を立つ。


「そうだな……あのときは、十倍の敵に囲まれて――」


片腕を振り上げ、「こうして――こうだ!」と声を張ると、子供たちは「うわあ!」と大歓声。


「やっぱり勇者様だ!」

「かっこいい!」


その横で、腕組みをしたまま座っていたバルドが、わざとらしく咳払いをした。


「む……まあ、あの時エリアス殿とアリシア殿を守ったのは俺の盾だったがな」


「えー! じゃあバルド様のほうが強いの?」


無邪気な問いに子供たちが一斉に群がる。


「肩車して!」

「おんぶして!」


「お前たち……よし、少し稽古をつけてやろう!」


次の瞬間には両腕に子供を抱え、肩にも二人、背中にも一人。

その巨体を揺らしながら立ち上がり、ぐるりと歩いてみせると、笑い声が広間いっぱいに響いた。


マルグリット司祭も、シスターたちも自然と笑みを浮かべる。


「もう……二人とも、子供たちに負けないぐらい子供ね」


姉が思わず口元を押さえ、くすりと笑った。

頬がほんのり赤く染まり、その笑顔は温かくもどこか恥じらいを帯びている。


石の広間は小さくて、子供たちの笑い声がすぐに跳ね返ってくる。

そんな甲高くも暖かい声に包まれながら、私は胸の奥で静かに思い出していた。


ずっと昔から、どんな場所でも姉は中心にいたこと。

私はその傍にいるだけ――けれど、それで良かった。

あの孤独の記憶を埋めてくれたのは、いつも姉だったから。



夕餉の皿が次々に空になり、スープの湯気が収まり、その表面に静けさが戻りかけたころだった。

木の机の端に並んだ小皿からは、まだパンの香ばしい香りがほのかに立ちのぼり、蝋燭の炎がそっと影を伸ばしている。

子供たちの笑い声が石壁に当たって跳ね返り、音は何倍にも膨らんで広間を満たしていた。


その和やかなひとときの中で、小さな手がぶんと挙がり――

たったひとつの無邪気な質問が、空気を一変させた。


「ねえ、アリシアお姉ちゃんはどっちと結婚するの!?」


――ぴたり、と音が止まる。

子供たちの視線が一斉に二人を向いた。


「なっ……!」


エリアスは真っ赤になり、スプーンを落としそうになって慌てて握り直す。

けれどすぐに背筋を伸ばし、苦笑いを浮かべて言った。


「……そ、それは――聖女殿のお心が決めることだ。

 僕たちがどうこう言える話ではない」


王子らしい理屈を言いながらも、耳まで真っ赤なのは隠せない。


「ちょ、ちょっと待て!」


バルドは椅子をがたんと鳴らして立ち上がった。

ぬうと立ち尽くしたまま、その大きな体に似合わぬ動揺が声に滲む


「そ、そういうことは軽々しく口にするものじゃない。

 ……聖女殿が困ってしまうではないか」


精一杯取り繕っているつもりだが、声の震えは隠しきれない。


だが、子供たちは遠慮を知らない。

瞳を輝かせ、まるで重大な投票でも始まるかのように声を張り上げる。


「勇者様だよ! だってかっこいいもん!」

「違うよ、バルド様だよ! 守ってくれるんだから!」

「どっちがアリシアお姉ちゃんにふさわしいの!?」


あっという間に派閥ができ、広間は小さな論争の渦に巻き込まれた。


「僕は勇者様に一票!」

「わたしはバルド様!」


机をぱんぱん叩きながら盛り上がる子供たちに、

エリアスは額の銀のサークレットに手を触れながら目を伏せ、バルドは立ったままだんだん真っ赤になって言葉を失う。


「や、やめて……! もう、みんな……!」


アリシアは慌てて両手を振るけれど、頬まで紅潮していて説得力はない。


一人の女の子が、そっとアリシアの袖を引っ張った。


「お姉ちゃん。わたし、両方がいいな」


一瞬、広間が凍りつく。

真っ赤な顔をしたエリアスとバルドが顔を見合わせ、子供たちも大人たちも石像のように固まって――

とうとう耐え切れなくなったアリシアが吹き出した。


「ふふっ……もう、本当に……!」


笑い声がこぼれ、空気が一気に和らぐ。

子供たちもシスターも、司祭様も。

勇者も騎士もみんなつられて笑い出し、広間は再び温かなざわめきに包まれた。


ふと視線を巡らせると、姉を囲む輪の外れにいたフィーネがこちらを見ていた。

蝋燭の光を受けて揺れる瞳と目が合い――けれどすぐに彼女は静かに視線を伏せる。


私はその輪の外で、静かに杯を傾けながら小さく息をついた。


(うん……ほんと、二人ともいい人なんだよね……)


勇者エリアスも、騎士バルドも。

姉が心を動かされるのも無理はない。


(……でも――)


だって、姉さんは彼のことを――。

……そう思えば思うほど、胸の奥にきゅっと小さな痛みが走った。


けれど姉の笑顔はあまりにも眩しくて――うん。姉さんが幸せならそれでいい。

私は黙って、杯を口元に運んだ。



孤児院の広間は、夜更けになってようやく静けさを取り戻していた。

さっきまでの騒ぎが嘘のように、子供たちは疲れてぐっすりと眠り、ベッドの間からは規則正しい寝息が聞こえてくる。


月明かりが窓から差し込み、木枠を淡く照らしていた。

私は姉と同じ二段ベッドの下段で、なかなか眠れずに天井を見つめていた。


上の段から、姉の寝息が降りてくる。穏やかで、幸せそうで。そして懐かしい。


(……楽しかったな、今日は)


子供たちに囲まれて笑う姉。

その姉を中心に真っ赤になった勇者と騎士。

まるで絵本の一場面のように完璧で――私の胸には、ほんの少しの痛みが残っていた。


(姉さんは、きっと誰を選んでも幸せになれる。勇者でも、騎士でも……。

 じゃあ私は? 姉さんが選ぶ時が来たら? 私は――どうなる?)


ふと喉の奥がひりつき、胸がざわめいた。

頭の奥で、あの夜のブレーキ音と冷たい路面の感触が蘇る。

ひとりきりで死んでいった前世。

孤独の恐怖は、今も影のようにまとわりついて離れない。


(姉さんの幸せが私の望みのはずなのに――。

 どうして胸がこんなにざわつくんだろう……)


眠れぬまま、私は毛布を押しのけて身を起こした。

冷たい床石に足を下ろすと、心臓が小さく跳ねる。

そっと外に出れば、夜風が頬を撫で、石造りの廊下を抜けた先に小さな庭のテラスがあった。


月明かりに照らされた欄干のそばに、先客がいる。

透けるような緑の髪が夜に溶け、白い横顔と長い耳を月が縁取っていた。


「……フィーネさん?」


夜空を見上げる彼女は、感情を感じさせない面持ちだったが――

それでも振り向くと、口元をわずかに緩めた。


「ふふ……君が来る気がしていた」


星空を映したような翠の瞳に吸い込まれそうになる。

なぜだろう、彼女には夜が似合う――ふと、そんなことを思った。


「眠れないのか?」


「うん。ちょっと……」


欄干に身を預けると、フィーネも視線を夜空に戻した。

一拍の沈黙ののち、彼女の低い声が落ちる。


「光ばかりを見ていると、影は自らを見失う」


胸がどきりと跳ねた。


「……私のこと?」


「ふふ。思い当たるのなら、そうなのかもしれないな」


思わず、くすりと笑みが零れる。

けれど、すぐに喉の奥が熱くなり――

誰にも言えなかった言葉が、なぜかするりと零れ落ちた。


「姉さんと離れちゃったら……私はもう、影ですらなくなって、消えちゃう気がする」


指先に力を込め、欄干の木肌をぎゅっと握りしめる。


フィーネは驚いた様子もなく、ただ沈黙が落ちた。

彼女はゆっくりと首を振る。


「光は誰にでも宿る……私はそう思う」


「影にも……光は宿る?」


フィーネは小さく頷く。


「私の故郷の森は焼かれ、家も、家族も失った。

 それからというもの、光を失い影となり、昏き夜の森を長い間さまよっていた」


月明かりに照らされた横顔は、寂しげで、それでいて揺るがぬ強さを帯びていた。


「……けれど、太陽に照らされた森の影に蛍がいた。

 小さな光でも、昏き森では闇をも照らす光。

 ……我らが戦う闇を照らすのは、時にそんな小さな光かもしれない。そうは思わないか?」


その言葉が、心に静かに落ちる。

姉のように眩しい太陽や、夜を照らす月にはなれなくても――

私だって、蛍のような小さな光になら、なれるのかもしれない。


夜風が髪を撫でた。

私たちはしばし並んで空を仰いだ。


「……眠れそうか?」


フィーネの問いかけに、私は小さく笑って頷く。


「うん。きっと」


月明かりの下で交わしたその一言が、胸の奥にほんのりと温かい火を灯していた。


見上げた夜空は、どこまでも広く、冷たい。

それでも、この温もりを抱いている限り――私はまだ歩いていける。


どこへ進むべきかは見えないまま。

それでも、しばらくは幼い頃のように、光り輝く姉の背を道標に歩けばいいと――

この頃はまだ、そう思っていた。

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