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第三十八話 魔族の街

その街の名は――ヴァルモア。

街道と川が交わる交通の要衝に築かれた、地方ではそこそこ大きな交易都市だ。


高い城壁がそびえる王都とは違い、周囲を囲むのは人の背丈ほどの石塀。

門前には農民の荷車や商人の隊列ができ、ざわめきが風に乗ってこちらまで届いてくる。


「……本当に、ここが魔族に支配されている街なの?」


思わず小声が漏れた。

門の前に立っているのは人間の門兵たち。険しい顔つきでもなく、淡々と職務をこなしている。慣れた手つきで、通行証を次々と確認していった。


やがて、私たちの番が来る。

エリアスが、ロベール卿が手配してくれた冒険者証を門兵に差し出した。


「《白銀の閃光》……Aランク冒険者パーティか」


(ちょっ……わたし、本当はFランクなんですけど!? ロ、ロベールさん!?)


門兵と目が合わないよう肩をすくめる。


「やばい、やばい……!」


背中にひやりとした空気が走った、その瞬間――


「――凄いじゃないか。高ランク冒険者は大歓迎だ、通ってよし!」


(……え?)


あっけないほど簡単に、門を通されてしまった。


(……え、これだけ?)


拍子抜けして周囲を見渡す。

門兵も行き交う人々も、全員人間。見た目にも“魔族の支配地”らしい不穏さはまるでない。


街に足を踏み入れた瞬間、香辛料の匂いと威勢のいい呼び声が一斉に押し寄せてきた。

色とりどりの果物や干物、布地、香辛料が山のように積まれている。

香ばしい匂いや甘い香りが入り混じり、人いきれと呼び声が渦のように通りを包み込んだ。


「こっちだよ! 今朝獲れの川魚だ!」

「東の交易路から香草が届いたぞー!」


昨日の戦場はたった半日の距離のはず――

それなのに、まるで突然、王都の市場に迷い込んだかのよう。


(……信じられない。本当に、ここが魔族の支配地だなんて)


王都と変わらない――いや、それ以上に活気があるようにさえ見える。


街には、魔族の気配などどこにもない。

喧騒と香りに包まれるうちに、張り詰めていた心がつい少しずつ緩んでいくのを感じた。


(……市場を歩くだけで胸が弾むなんて。ほんと、普通の街と変わらない……)


ふと、姉と歩いた王都の市場を思い出し、そっと隣の姉に手を伸ばす。

姉はふわりと私に微笑みかけ、私の手をぎゅっと握ってくれた。


「ふふ……思い出すわね」


「そうそう、あの時はジュリアンが現れて――」


「ええ、王都グルメの講義!」


「それそれ!――」


弾む会話。やっぱり姉さんと一緒に歩く市場は楽しい!

心があたたかさで満たされ、思わず任務中であることを忘れてしまうくらい、私ははしゃいでいた。


そのとき、前を歩いていたバルドがぼそりと呟く。


「……酒場だな」


「それがいいだろう」


フィーネが短く同意する。その、あまりにも自然なやり取りに、思わず吹き出しそうになった。


「待て、これは“調査任務”だぞ?」


エリアスが眉をひそめる。

バルドは腕を組んだまま、真顔で言い放った。


「情報収集だ」


「……そういうものか?」


不思議そうに首を傾げるその姿に、やっぱりエリアスは“王子”なんだと口元がゆるむ。

そして――隣で姉がふっと吹き出した。


「ふふ……」


いつもは真面目な姉の笑い声に、場の空気が一気にやわらぐ。

やがてエリアスとバルドも目を合わせ、自然と小さな笑いの輪が広がった。


そんな空気のまま、私たちは市場を抜け、通りの奥にある一軒の酒場へと足を向ける――。


***


通りの奥に佇む酒場。

表では風見鶏がせわしなく揺れ、その下に掲げられた《銀狼亭》の看板が、風が吹くたび――きぃ、と軋んだ音を立てていた。


けれど、扉を押した瞬間――


肉と香辛料の匂い、グラスやジョッキのぶつかる音、笑い声、楽師の笛の音が一斉に押し寄せてきた。

それは、市場の喧騒とはまた違う、熱気と湿度を帯びた空気。


思わず立ち止まり、きょろきょろと店内を見回してしまう。


視線は天井の木の梁、磨かれた樽が並ぶカウンター、壁際の客たちへと自然に流れていく。

冒険者、商人、農民らしき人々が肩を寄せ合い、杯を掲げながら陽気に談笑していた。


(……こ、これが……酒場……!)


胸がそわそわして、心臓が一拍、早く打った気がした。


そんな私を見て、フィーネが小さく首を横に振り、姉は微笑んで私の肩にそっと手を置いた。


(……うぅ、ちょっと恥ずかしい)


私たちは壁際の空いたテーブルに腰を下ろす。

注文を取りに来るまでの間、自然と周囲に聞き耳を立てた。


「いやぁ、ほんとに税が下がって助かるよな」

「バルガス様になってからは市場も安全だし、街道の整備も早い。むしろ王国の頃よりいいぐらいだ」

「ああ、前の領主は俺たちを置いて、いの一番に逃げ出したんだ。バルガス様は違う。俺たちを大切にしてくれてる」


どの声にも不満はなく、前の領主をけなし、バルガスという名を口々に褒めそやす声ばかりが耳に入ってきた。


(……誰も、怯えていない……?)


「本当に、そんなことが……。魔族が人を大切にしている? 共存を望んでいる……なんて」


姉が思わず呟いた声が小さく聞こえた。


けれど――私の胸には、昨夜の棘がまだ刺さったままだ。


『(……魔族は信用できない……)』


私はふとフィーネに目を移すが、彼女は静かに目を瞑っているだけだった。


一方、エリアスは眉根を寄せ、顎に手を添えて考え込んでいる様子。


「“我らは民と共にある”だと? 王宮や兄上は、何も見えていないではないか……」


その呟きは喧騒に沈むように静かだったが、確かな怒りが滲んでいた。

王子として、民の声を見過ごせないのだろう。


と、そこへ元気な声が響く。


「こんにちは! いらっしゃいませ!」


ぱたぱたと軽快な足音。

トレイを胸に抱えた給仕娘が、ぱっと花が咲くような笑顔を向けてきた。

その笑顔は酒場全体を明るく染め上げるようで――まるで、この街そのものを象徴しているかのようだった。


その瞬間、胸の奥にほのかな予感が走る。

――ここからが、“調査任務”の始まりだ。

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