第三十七話 新たな任務
――夜半、焚き火の輪にて。
夜風が頬を撫で、火の粉が静かに舞っていた。
「――ある街に潜入してほしいのだ」
静かに腰を下ろしたロベール卿の言葉に、私たちは思わず顔を見合わせた。
エリアスが眉を寄せて尋ねる。
「街、ですか?」
「そうだ。ここから北東に半日ほど行った場所に、中規模の城下町がある。
領主の館を中心に発展した交易の街で……かつては人間の領地だった場所だ」
(え……“かつて”って……?)
ロベールは鎧越しに腕を組み、焚き火の明かりに照らされた険しい横顔を見せた。
「問題は、その街の領主が――魔族であるということだ」
その一言で、輪を囲む全員の呼吸が一瞬止まった。夜気がぴんと張り詰める。
姉は焚き火の明かりに銀の髪を揺らしながら、まっすぐにロベールを見つめた。瞳には、恐れではなく“何かを見極めよう”とする静かな意志が宿っている。
だが、次に続いた言葉は予想もしないものだった。
「奇妙なことに、領民はこれまで通り暮らしているどころか、むしろ――」
(むしろ……?)
ロベールは少し間を置き、静かに続けた。
「以前よりも生活が安定しているらしい」
「……え?」
思わず声が漏れる。
「税は軽くなり、領主は穏やかで民にも優しい。
街道の整備も進み、冒険者や商人も普通に出入りしている。
報告によれば、まるで――魔族が支配しているとは思えないほど、人間の街そのものだそうだ」
「……そんなことが、ありえるのか?」
エリアスが眉をひそめる。
バルドは黙ってロベールを見つめ、姉は少し驚いたように瞬きをした。だがすぐに真剣な表情へと戻り、顎に手を添えて考え込む。その横顔は、まさに“聖女”として真実を見極めようとする姿だった。
「(……魔族は信用できない……)」
ごく小さな呟き。
呟いたフィーネは無表情のままだったが、その声は確かに私の耳に届いた。
私は彼女の表情を読み取ろうとしたが、すぐに諦めてロベールへと視線を移す。
「私にもわからん。
だが、魔族の中には人間との融和を望む一派がいるという話も、かねてよりある。
この街は、その可能性を探るには格好の場所だと判断した」
ロベールの声には、わずかに期待の色が滲んでいた。
姉が小さく息を吸い込み、微笑むと静かに言葉を紡ぐ。
「……やはり誰が領主であっても、民が困っていないか、幸せに暮らしているか。
それが大切だと思いますの」
その声は穏やかでありながら、聖女らしさと為政者のような芯の強さを併せ持っていた。
そのとき、エリアスは息を呑み――言葉を探すように、しばし姉から目を離さなかった。
ロベールは口元を緩め、頷いた。
「ああ、確かにその通りだ。よろしく頼む、聖女殿」
(……やっぱり、姉さんはすごい……。もう次の段階を考えてる……)
「いずれにせよ、君たちにはその真偽を確かめてきてほしい。……だが、危険があれば――」
そのときだけ、ロベールの声が低く鋭くなった。
「――遠慮はいらぬ。排除せよ」
焚き火がぱちりと音を立て、夜風が鎧を鳴らした。
フィーネが静かに視線を上げ、バルドが頷き、エリアスは小さく息を吐く。
姉は炎を見つめたまま、まぶたを閉じて静かに祈るように手を組んでいた。
その姿を見て、私は少しだけ胸が熱くなった。
(――魔族が……人間と共に生きる街……)
想像しようとしても、どうにも現実味がなかった。
そんなの、絵本か昔話の中だけの話だと思っていたのに……。
でも――もし本当にそんな街があるのなら……。
けれど、フィーネさんの呟きだけが、胸の奥に棘のように刺さっていた。
――その棘は、翌朝になっても抜けなかった。
***
――翌朝。
私たちは、頭の先まで覆うフード付きの冒険者のローブを身にまとい、準備を整えていた。
「冒険者風の身なりにしておけば、ある程度は街の中で動けるはずだ」
エリアスはそう言いながら、背負った剣の位置を調整する。
けれど、その手つきはどこかぎこちなく、明らかに手こずっていた。
「そこ、ベルトの通し方が違うわ。それでは剣がぶらついてしまいますの」
姉がすかさず正面から近づき、自然な手つきでベルトを締め直してやる。
ついでにフードの位置も軽く整える。
そのとき、姉の指先がエリアスの頬をかすめ――彼はふっと視線を逸らした。
やがて、姉は満足げに小さく頷く。
「……できたわ」
「……ありがとう……アリシア」
「どういたしまして」
エリアスは視線を逸らしたまま、金の睫毛がわずかに震えていた。
短く視線を落とした彼の指先が、無意識に剣帯を強く握り直した。
(エリアス王子、姉が整えた冒険者姿が様になってる……。
ジュリアンが見たら、きっと真似するんだろうな――)
ふと、なぜだかちょっぴり憎たらしい顔が思い浮かんで――
心の中でぶんぶんと首を振る。なんであいつのことなんか……。
振り向けば、次は姉とバルド。
彼は外套の前を留めようとして、留め具を逆にかけていた。
姉はすかさずそちらにも回り込み、ぱちんと手際よく留め具を留める。
「こうです」
「……おお。こうか」
「ふふ、慣れれば簡単ですわよ」
姉は少し背伸びをすると、きゅっと留め具を引いて、しっかりと留まっているか確かめる。
バルドはわずかに顎を引き、斜め上へ視線をそらす――喉仏が、かすかに上下した。
姉の甲斐甲斐しい姿を見ていると――胸の奥が、なぜかきゅっと締めつけられるようにもやもやした。
気づけば全員が騎士と姉に注目していて、私は思わず視線を逸らす。
気を取り直そうと、水袋を持ち上げ、冷たい水をひと口含む。
喉を通る感覚が、少しだけ熱を冷ましてくれた。
すると――
「セレナは、大丈夫?」
「……うん」
じっと姉を見返すと、姉は首を傾げ、ふっと微笑んだ。
その顔は、夜の焚き火のときと同じ――
まるですべてを受け入れてくれるような、静かな優しさを湛えている。
それにしても姉さんときたら――
こんな時なのに裾の皺もきちんと伸ばして、腰のベルトもきゅっと締めてるなんて。
(ふふ……やっぱり姉さんは姉さん。なんだか安心する)
フィーネは弓と矢筒を布で包んで背に回し、フードを目深に被ったまま、膝をついて長ブーツの紐を締めている。
さすがはソロのS級冒険者、慣れたものだ。
私はといえば、久しぶりの目深なフードに視界が少し狭くなり、落ち着かない。
もちろん、怖いという気持ちもある。
でも――心の奥に、ほんの少しだけ“知らない世界”を覗くようなわくわくがあった。
(……魔族の街、か。いったい、どんな場所なんだろう……)
馬車も馬も使わず、私たち五人は野営地を徒歩で後にした。
目的地は北東の街――ヴァルモア。
朝靄に包まれた街道の先には、まだ見ぬ“魔族の街”が待っている――。




