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第三十六話 進撃

ひんやりとした水の感触が足元を伝い、苔の匂いが鼻をくすぐる。

暗い水路の奥へ進むほど、心臓の鼓動が自分でもうるさいほど響いてきた。


(……まさか、自分がこんなふうに砦の水路を忍び歩く日が来るなんて……

 落ち着いて……落ち着いて……!)


声を出すこともできず、唇をきゅっと噛みしめる。


――その夜、私たちは夜闇に紛れ、水路を辿って灰の砦へと潜り込んでいた。


靴底が石を擦る音がやけに大きく感じられて、思わず一歩一歩を慎重に踏みしめた。


指先でそっと小さな魔法陣を描く。

――『感覚強化』。

空気の揺らぎや遠くの滴る水音まで、まるで手のひらで触れられるほど鮮明になった。


不思議とそれだけで、ほんの少し緊張の糸がほどける。


私は誰にも言わず、最後尾で周囲を警戒しながら進んだ。

冷たい空気が頬を撫で、背筋に小さな震えが走る。

途中、敵を察知した私はフィーネに小さく手で合図を送り、曲がり角に現れたゴブリンを彼女が一瞬で射倒す一幕もあった。


やがて――辿り着いたのは最上階。


司令官らしき鬼将オーガー・ジェネラルの不意を突き、エリアスの合図で放たれたフィーネの矢が闇を裂き、その肩を貫いた。

低く、地を揺るがすような咆哮が砦中に響き渡る。


「ひっ――!」


全身の毛穴が総立ちになり、逃げ出したい衝動が胸を締めつける。

けれど、その刹那――角笛の音と鬨の声が夜を裂いた。

ロベール卿率いる第一師団が、正面から突撃を開始したのだ。


通路の奥から亜人兵の怒号と足音が押し寄せ、夜闇を支配していた静寂は粉々に打ち砕かれた。

松明が次々と灯り、砦の内部が一気に騒然とする。


「今だ!」


エリアスの声が響く。


――続いて、姉の透き通るような詠唱。


『――聖なる結界よ!』


仲間の鬨の声と姉の光が、同時に私の背中を支えてくれる。

以前戦場で見た“あの”鬼将の方が、よほど怖かった――そんな根拠のない自信が、不思議と胸に灯った。


私は仲間たちを支えるべく、小さな魔法陣を次々と咲かせながら必死に走り回る。

姉の結界とバルドの大盾が堅牢な壁となり、フィーネの矢が暗がりを裂いて鬼将の片目を射抜く。

その一瞬の隙を、エリアスの剣が――決して逃さなかった。


閃光のような一撃が、巨体を貫いた。


――やがて、姉の光とバルドの盾が守り、亜人兵の群れをフィーネが射倒し、エリアスが薙ぎ払う。

混乱の中、私たちは血路を開き、城門を開けた。


次の瞬間、ロベール率いる第一師団が鬨の声と共に突入――


砦は、陥落した――。


――夜明けの空の下、勇者と聖女と盾の三人は、重ねた拳を高々と掲げた。

歓声と崇敬と信頼の渦が、いつまでも砦を包んでいた。


初戦の勝利に湧く中、北の街道へと続く峡谷に橋頭保を築いた王国軍は、

続く二つの砦と一つの城も次々に陥落せしめ、怒涛の進撃を重ねた。


私と姉は潜入と負傷者の治療を繰り返しながら、王国軍は北への道を着実に切り開き、

私たちはその日も最前線にいた――。


***


――夜。


最前線の野営地は、昼の喧騒が嘘のように静まり返っていた。

とはいえ、完全な静寂というわけではない。少し離れた天幕のあたりから、兵士たちの楽しげな声が風に乗って流れてくる。


「見たか? 城門が開いた瞬間のあの一撃……!」

「ああ、勇者殿が亜人どもの隊列を一気に切り裂いてた――」

「その横で聖女様の光が雨みたいな矢を防ぎ、剛盾バルド様の盾でやつらを吹っ飛ばしたんだ。

 あの光景は――まるで伝承みたいだった」


「このまま一気に進軍すれば……魔王城の陥落だって夢じゃないんじゃないか?」

「おいおい、ほんとにそうなるかもな……!」


「実際、軍議でも話が出ているらしいぞ。勇者パーティがいれば、次も数日で落とせるそうだぞ」


酒を回し飲みする音、鎧を脱ぐ金属音、焚き火を囲むざわめき――

それは、戦いの夜とは思えないほど穏やかな空気だった。

けれど、そこには単なる浮かれ騒ぎではなく、勇者たちの活躍に背を押された兵たちの希望と自信も確かにあった。


私はその声を聞きながら、姉――アリシアの隣に腰を下ろす。

両手で木のカップを包み、湯をそっと口に含むと、少し冷えた体がほっと緩んだ。


焚き火の橙色の光が姉の横顔を照らし、銀の髪に炎が映り込んで揺れる。

その穏やかな表情は、昨夜の戦いで誰よりも輝いていた姿とはまた違い、どこか静かで――優しい。


兵たちの高揚とは対照的に、この小さな輪の中では浮かれた気配が一切なかった。

焚き火を囲むパーティの顔は、笑ってはいても、次を見据えた戦士の顔に見えた。


正面では、エリアスとバルドが並んで丸太に腰をかけている。

エリアスが薪をいじりながら、口を開いた。


「……鬼将も反応速度に違いがあるようだな。今回の敵は反応が早かった」


「うむ。それに……次はもっと早いかもしれん」


「昨日はバルドが突撃を止めなかったら、一撃喰らっていたかもしれない。助かったよ」


バルドは焚き火越しに軽く肩をすくめただけだった。

それ以上の言葉はない。だが、エリアスの声には自然な感謝が滲んでいて、バルドの沈黙もそれを否定しない温度を持っていた。


(……つまり、鬼将戦ではエリアスへの支援は『速度上昇』×1だと足りない?

 ……短期決戦だから、『疲労回復』をやめて――『速度上昇』×2にした方がいいのかも)


いつも私は、こうした何気ない会話を支援の参考にしていた。


焚き火が小さく爆ぜ、姉とエリアスの顔を一瞬明るく照らす。


「それに――アリシアの結界も。最高のタイミングだった」


「……そう?」


「あの横殴りの斧。君が止めてくれたから奴の体勢が崩れて、一気に斬り込めたんだ」


姉は少しだけ目を丸くし、それから小さく笑った。

自分の役割を当然のように果たしている――そんな顔だった。


(姉さんへの支援はばっちりみたいだね、うん)


そう思うと、自然と笑みが零れた。


実際、連戦を重ねるごとに三人の連携はますます冴えわたっていた――

私の支援なんていらないかも、と思うぐらい。

けれど、こうやって“ほんのちょっと”を重ねることが、私の役割だから。


「次は、旧伯爵家の城、か」


バルドが低く呟く。

エリアスは頷き、枝の先で地面にざっくりと地図を描く。


「森を抜けて崖沿い。物見は死角がありそうだが、巡回が厄介だな。

 ここ、隠し通路の入り口までたどり着ければ……」


私は描かれた地図を見ても、正直細かい戦術まではよく分からない。

けれど――三人の声の調子だけで、次が簡単ではないことだけは分かった。


(『俊足』を五重掛けして、巡回の隙を突いて一気に走り抜ける……とか?

 ……でも、私なんかの案なんて不採用だよね……あはは)


「あとは――中も広いな。これまでより。……でも、やれる。

 昨夜みたいに、僕たちがしっかり連携すれば」


微笑みかけるエリアスに、バルドが力強く頷く。

二人は顔の高さで右手を差し出すと、がっしりと握り合った。


それは、戦友同士の“戦士の握手”。


姉は少し目を見開いたあと、静かに微笑んで頷いた。


(……なんか、こういうの、いいな)


私も、心の中で小さく頷いた。


三人のやりとりには、余計な言葉はない。

重なり合う呼吸が自然にそこにある――そんな空気だった。


少し離れた場所では、フィーネが弓を膝に乗せ、弦を確かめている。

細い指が音を確かめるように弦をはじくたび、ぴん、と澄んだ音が夜空に溶けていった。


彼女は誰の会話にも加わらず、ただ淡々と次の戦いに備えている。

その横顔は焚き火の明かりを背に、まるで夜の森の一部みたいだった。


私は――その焚き火の輪の端で、ただ黙ってカップをすする。


この輪の中心にいる三人は、物語で語られる“勇者パーティ”そのものだった。


――勇者、聖女、そして盾。


言葉ではなく、動きと呼吸で戦う人たち。

共に過ごした時間はまだ短い。

けれど、その間に築かれた信頼は、積み重ねた時間の長さをはるかに超えていて――まるで、家族みたいだと思った。


今は、その背中を追いかけるだけで精いっぱい。

でも――いつか、私もその隣に並べる日が来るのかな……。


――カップの中身が冷めかけたころ。

ほんの少し、静かな夜に溶け込めた気がした――その時だった。


足音が近づき、焚き火の輪に影が差した。


ロベール卿だった。

鎧姿のまま夜風をまとい、静かに立つその姿に、自然と場の空気が引き締まる。


「奇妙な噂があってな……」


低い声が、焚き火の音を押しのけて響いた。


「――君たちに、頼みたいことがある」


エリアスは眉をひそめ、バルドがわずかに身じろぎする。

姉は静かに息を吸い込み、フィーネは弦に添えた指を止めた。


ロベールはマントをばさりと払うと、丸太に腰を下ろした。


「――ある街に潜入して欲しいのだ」


ロベール卿の言葉が、焚き火の音を一瞬止めた。


(私たちが、街に……潜入!?)


――ふたたび世界に音が戻る。


焚き火のぱちぱちという音だけが、夜の闇に静かに響いていた――。


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