第三十五話 私の居場所
王城・第二会議棟――騎士団指令室。
高い天井と厚い石壁に囲まれたこの部屋は、外の喧騒から切り離されたように静まり返っていた。
窓は重厚な木製の板で閉ざされ、燭台の炎がゆらめくたびに、壁に掲げられた三つの騎士団の紋章旗の影がかすかに揺れる。
空気には鉄と油とインクの匂いが混ざり合い、重苦しい息遣いが低く反響していた。
円卓の中央には、王国全土を描いた巨大な地図が広げられている。
黒と赤の小旗が無数に突き立てられ、その配置はまるで、大地そのものが戦場になったかのようだった。
白魔導士のローブをまとい、勇者パーティの一員として、私は円卓の一角に立っていた。
周囲を埋めるのは、鎧に無数の傷を刻んだ歴戦の騎士や、威厳を湛えた師団長たち。
鎧のきしむ音、羽ペンが紙を走る音、喉を鳴らす音――そのすべてがやけに大きく響く。
(……私、やっぱり場違いすぎるかも……)
そんな思いが胸をかすめ、手のひらがじっとりと汗ばんだ。
ロベール卿が地図の前に立ち、深い声を響かせる。
「――では、魔王討伐軍の作戦計画について説明する」
その声が響いた瞬間、室内の空気がぴんと張り詰めた。
「当然だが――我々は魔王城へ正面から突撃するわけではない。
そんな真似をすれば、全軍が挟撃されて瓦解するからな」
私は思わず周囲を見回した。
けれど、居並ぶ歴戦の勇士たちは当然といった面持ちで腕を組み、うなずいている。
どうやら、それが“当たり前”らしい。
指揮棒が赤い街道の線をなぞる。
その道筋に並ぶ黒旗――砦群の数に、思わずごくりと唾を飲んだ。
王都から魔王城へ向かう道は、一本道などではない。
いくつもの牙を剥いた黒い点が、まるで道を塞ぐ檻のように並んでいる。
「魔王軍は街道沿いに砦を築き、周辺の街と城を占拠している。
私が率いる第一師団がそれらを一つ一つ落とし、開放後に後詰の第二、第三師団が進軍――これが基本的な戦略だ。後詰が遅れれば、先遣師団の補給線は寸断され、進軍のたびに背後から襲われる。
結果は――言うまでもないな?」
室内に小さな笑いが漏れる。
けれど、私の胸の奥には、じわりと冷たいものが広がっていた。
(戦争って、こんなふうに淡々と語られるものなの……?)
棒が地図の上を滑り、蛇のようにうねる赤の線と黒旗の群れが交錯する。
その光景は、喉に縄をかけられ、じわじわと締め上げられていくようだった。
(……一本道なんかじゃぜんぜんない……)
私が物語で読んだ「勇者の遠征」は、魔王城へまっすぐ突撃して勝利する、華々しい一本道だった。
現実は――全く違う。
――これが、戦争。
そのとき、指揮棒が魔王城の手前で止まった。
そこには、見慣れた地名が記されていた――
(……ルクレール侯爵領……)
小さく息を呑むと、隣に立つ姉――アリシアも、同じ場所を見つめていた。
目が合った一瞬、互いの胸に同じ記憶がよぎる。
――私たちの故郷。
姉の瞳の奥に、ごく小さな光が生まれたのを、私は見逃さなかった。
「次に、基本的な戦術を説明する。
遠距離攻撃の要だった宮廷魔導士団は、先の防衛戦で壊滅した。
もはや、魔法の一斉砲撃で城門を吹き飛ばし、一気に突入する手は使えん。だから――」
ロベール卿の鋭い視線が、私たち勇者パーティの方へと向いた。
「――選りすぐりの少数精鋭が先行して砦や城へ潜入し、内部から城門を開く。
もしくは、可能であれば指揮官を排除。
その後に本隊が進軍。占拠・奪還し、背後を確保する」
その言葉を聞いた瞬間、エリアスがわずかに身を乗り出し、姉と視線を交わした。
真剣な眼差しと、揺るがぬ信頼。
たった一度でも死線を越えた二人の間に、もはや言葉はいらなかった。
続いて、バルドが無言で姉を見る。
姉は短くうなずき返す。盾と聖女――背中を預ける者同士の静かな合意。
なぜだかわからないけれど、ほんの少しだけ胸がきゅっと痛んだ。
低いざわめきが室内を走る。
「つまり……最前線で道を切り開くのは、勇者パーティということですな?」
別の師団長が確認するように問う。
ちらりと、私に視線がいくつも向けられる。
何も言われなくても、やっぱり居心地が悪い……。
「その通りだ」
ロベール卿は一歩も引かずに答える。
「我々は一軍を率いて正面から砦や城に当たる。
だが正面は囮だ。鍵を握るのは内部への潜入と門の開放――つまり、君たちだ」
室内の視線が一斉に私たちに集まる。
「問題無い。やってやるさ」
エリアスが軽快に、しかし力強く応じた。
口元には迷いのない笑み。若き勇者の声に、場の空気が一瞬で引き締まる。
バルドは腕を組み、低く唸るように言う。
「砦の警備は厳重だろう。見張り塔、巡回兵、索敵……潜入の手段は?」
「隠し通路や裏口、水路を使った夜間潜入だ。
だが敵も愚かではない。夜目に長けた魔族も多い。
地形と天候を読み、奇襲を基本とする」
「なるほど……」
フィーネが森と崖の線を指先でなぞりながら呟く。
「弓使いとしても、正面戦よりは潜入戦のほうが活きる。いい判断だと思う」
私はふと、彼女の横顔を見る。
それは、自分が勇者パーティに招聘された理由を心得ている者の顔だった。
その視線が、すぐに私に向いた。フィーネは表情を変えぬまま、こくりと頷いてくれる。
その一瞬に、不思議と勇気をもらった。
勇者、盾、弓使いがそれぞれの立場で語るのを聞きながら、私は胸の奥にひやりとしたものを感じていた。
ここは物語の舞台などではない。
一つひとつ、敵の牙城を内側からこじ開けていく――命がけの戦いだ。
ロベール卿が最後に、はっきりと言い切る。
「最初の目標は、王都北方の『灰の砦』。
街道と峡谷を押さえる最初の関門だ。成功すれば、北への道が開かれる。
失敗すれば、我が軍は一歩も進めん。
――若き勇者たちよ。君たちに、国の未来を託す」
その声音には、歴戦の勇士としての覚悟と、若者たちへの信頼が滲んでいた。
ロベール卿の言葉を受けて、場の空気が一瞬だけ静まる。
「僕たちに任せてくれ」
「ああ、やるだけだ」
エリアスの声が響き、バルドの低い声が落ちる。
姉もフィーネも頷き、私も小さく頷いた。
すると、勇者エリアスが姉に右手を差し出す。
姉は少し驚いたように見つめ――やがて微笑みながらその手を取った。
次に、無骨な左手がもう一つ。バルドだ。
姉は一瞬だけ二人を交互に見て、柔らかく微笑み、そっとその手を握った。
三人の手が重なり、同時に力強く掲げられた。
「皆のもの、行くぞ!!」
若き勇者の、そして王子の言葉が、重かった場の空気に一気に火をつけた。
騎士たちの拳が掲げられ、会議室の天井が震えるほどの鬨の声が響き渡る。
まるで大地そのものが震え、風が戦の号令を告げるかのように――。
「任せたぞ!」
「後ろは俺たちに任せろ!」
「ああ! 目にもの見せてやれ!」
中心にいるのは――勇者と聖女と盾。
でも、歓声の輪の中心にいても、私だけ別の場所にいるような気がして――
私は居場所を探すようにそっと姉を見上げる。
姉は、まっすぐに私を見つめ返して――優しく微笑んだ。
その笑顔を見た瞬間、胸の奥の冷たいものが、すっと溶けていく気がした。
胸に手を当て、深く息を吸い込む。
(……怖い。けれど――姉も一緒。
姉がいる場所が、“私の居場所”。だから、私も……行くんだ!)
ふとフィーネがちらりと私に目を移すと――胸の前で小さく手を握った。
いつも無表情な彼女の口元が、ほんの少しだけ緩んでいるように見えて――。
私も、胸の前でささやかに拳を握り、白いローブが小さく揺れた。
この背中はまだ小さいかもしれない。
けれど――私はこのとき、この“私の居場所”で、彼らの背中を追いながら歩き出したんだ。




