第三十二話 絆
外の夜風は冷たかった。
けれど、煌びやかな広間を抜け出したわたしたちには――それがむしろ心地よく感じられた。
姉は夜空を仰いで深呼吸し、胸いっぱいに冷たい空気を吸い込んで――
「あ〜……外の空気、最高!」
アカデミーの寄宿舎へと続く石畳を駆けながら、姉はすがすがしい顔で笑っていた。
ドレスの裾を押さえながら走るその姿すら、美しくて目を奪われる。
「……はぁ、はぁ……」
私が息を切らして歩き出すと、姉も自然と歩幅を合わせてくれる。
「でも……良かったの? あんなに堂々と抜け出して」
問いかけると、姉は悪戯っぽく振り返り、銀の髪をさらりと揺らして言い切った。
「いいに決まってるじゃない。
だって、この聖女様が“いい”って言うんだから、問題なし!」
夜風に透き通るような声が響き、胸を張る姉の姿につい笑ってしまう。
――でも次の瞬間、姉はふと真剣な瞳をこちらに向けた。
「わたしはね、セレナが世界で一番大事なの!」
私は思わず立ち止まった。
夜のざわめきがすっと遠のき、耳に残るのは姉の声だけ。
胸の奥がじんわりと熱くなり、呼吸が詰まりそうになる。
その言葉を聞いたら――さっきまでの不安なんて、吹き飛んだ。
姉は遠い存在なんかじゃない。
聖女でも、侯爵令嬢でもない。
目の前にいるのは、やっぱり――私のお姉ちゃんだ。
「……あ、じんと来ちゃった?」
にやりと笑う姉に、慌てて顔を背ける。
「き、来てない!」
「嘘つけー、このこのー!」
笑いながら軽く肩をつついてくる姉。
その温もりが、心の奥深くに刻まれていく。
一瞬、前世で孤独に息絶えたあの夜の記憶が、胸の奥をよぎる。
私は唇を噛みしめながら、強く、強く誓った。
――この人生で手に入れたこの絆、絶対に守り抜くんだ。
繋いだ手の温もりが、孤児院の寝床で寄り添った夜を思い出させる。
あの頃も、今も。私にとって――姉の手は、世界でいちばんの安心だった。
――この温もりにも、いつか終わりの時が来てしまうの……?
ふとそう思った瞬間、胸が痛んで、涙がこぼれそうになる。
(――だめ。これからも、ずっと一緒にいるんだ)
だから私は、もう一度、姉の手をぎゅっと握る。
「お姉ちゃん、帰ろ!」
いつもの「姉さん」ではなく、幼い頃の呼び方で。
姉は少し驚いた顔をしたけれど、すぐに優しい笑顔を浮かべて歩き出す。
繋いだ手の温もりが、幼い日の記憶と重なって――
零れそうな涙を見られぬよう、顔を逸らして必死にこらえた。
さっきまで七色だった光は消え、月の白だけが肩に落ちる。
けれど、その一筋の白は、今の二人を包み込むには十分だった。
夜空を仰げば、星々が静かに瞬いている。
その光はまるで、これから歩む未来をそっと照らしているかのようだった。
二人の足音が寄宿舎の扉へと続いていく。
扉を開ける瞬間、胸の奥にあった不安や寂しさはすっかり消えて――
残っていたのは、世界で一番大切な人と走った、この夜の記憶だけ。
きっと、一生忘れない。
たとえ明日からどんな未来が待っていようとも――
この夜が、わたしの灯であり続けるだろう。
……だから、どうかこの手を、まだ離さないで。
***
あれほど煌びやかで、空気までもが震えるようだった“祝福の儀”が嘘のように――
日常は、静かに、何事もなかったかのように流れ始めた。
今まで通り授業を聞き、ノートを取り、姉と二人で冒険者パーティにも参加して依頼をこなし、閉鎖していたアカデミーの食堂も再開した。
久しぶりに限定キッシュを味わいながら、姉と笑い合って食事を取った時間は、とても穏やかで心地よかった。
そして、ついにFランクになったジュリアンは、相変わらず“傑作”を連発していた。
もちろん、本人はいたって真面目である。
たとえば、模擬戦のとき。
王都防衛戦で勇者エリアスが放った有名な一言――
「皆の者、行くぞ!」
叫びながら眩い陽光の中で剣を掲げたジュリアンの後ろ姿が――
あの戦場で見た勇者と重なった……一瞬だけ、ね。
もちろん――彼の背には誰一人ついて行かなかったけど。
広場に微妙な空気が流れる中、私たちは実際にその場にいたのだから、もうたまらない。
私は思わずぷっと吹き出し、「がんばれ、ジュリアン!」と叫び――
姉も「まだまだね」と笑いを堪えて肩を震わせた。
ギルドの出張所でも――
依頼の完了報告を終えたあと、ジュリアンはいつものように遠い目をして真顔で呟く。
「勇者への道は、まだ遠い……」
受付嬢が苦笑し、先輩冒険者たちが「がんばれよ、ルーキー」と茶化すと、
彼はきらきらした瞳で胸を張り、真剣に言うのだ。
「ああ、必ず勇者になって――あなたたちも、僕が守ります!」
その瞬間、出張所の空気が、ぴたりと止まる。
先輩冒険者も、受付嬢も、一瞬言葉を失い、
姉と私も思わず顔を見合わせ――全員が吹き出した。
……いや、ほんとにジュリアンってば。
一方で、大司祭の手ほどきを受けるため、姉は時折アカデミーを留守にするようになった。
朝には「セレナ、行ってきます」「うん、行ってらっしゃい」と挨拶を交わす。
食堂で一人で摂る食事は、少しだけ味気なくて。
夜の帳が降りるころには、窓辺で姉の笑顔を思い浮かべながら、一日を振り返る。
やがて、夜遅く「ただいま!」とドアを開ける姉。
私は駆け寄って「おかえり!」と出迎える。
すると姉はいつも私を優しく抱きしめ、頭をなでてくれた。
頬を寄せれば、あの青いペンダントが胸元で輝いていて――
姉の温もりは、あの頃の私にとって何よりも素敵なご褒美だった。
そして、姉は決まって「いいものがあるの。お土産よ」と言いながら焼き菓子を鞄から取り出し、二人で夜更けまで話をした。
香りの良いハーブティーと焼き菓子の甘い香りに包まれながら、アカデミーでの出来事やジュリアンの珍エピソードを話す。
姉はいつも、笑顔でうんうんと相槌を打ちながら聞いてくれた。
やがて、そんな新しい日常にも自然と慣れていった。
――けれど、帰ってくるたびに、姉の纏う空気は一段と静謐さを増していく。
抱きしめられたときの温もりは確かに同じはずなのに、姉が少しずつ遠い存在になっていく気がして――胸の奥がきゅっとした。
周囲の姉を見る目は明らかに変わった。
生徒だけでなく、教師や講師、ギルドの人々や冒険者までもが、どこか恭しく姉と接するようになっていたのだ。
それでも、私にとっては――何も変わらなかった。
なぜなら、姉は“聖女の卵”から“本物の聖女”になったけれど、私は変わらずただの白魔導士で――
“聖女の妹”のままだったから。
けれど――穏やかな時間は、何の前触れもなく、するりと指の隙間からこぼれ落ちる。
その瞬間が、もうすぐそこまで迫っているとも知らずに――。




