第三十話 棘
「久しいな……ルクレール家の次女、セレナと言ったか」
気づけば目の前に、深紅のマントを纏った堂々たる人物が立っていた。
カステルモン公爵――王国三大公爵家の当主である。
私は慌てて裾をつまみ、身体が覚えていた通りに礼をした。
すると、堂々たる体躯に似合わぬほど優しい仕草で、その大きな手がふっと私の頭を撫でた。
「聖女の妹……いずれ勇者と聖女が魔王を倒すだろう。そのとき、君がしっかり支えるのだ」
低く響く声は、意外なほどに温かかった。
胸の奥に、ぽっと小さな火が灯るような感覚――
威厳を湛えた公爵閣下が、私のような小さな存在に言葉をかけてくれるなんて。思わず、胸が熱くなった。
その背後に、床板がわずかにきしむほどの重みをもって、ひときわ大きな影が立っていた。
礼装の上からでもわかる、分厚い筋肉に包まれた巨躯。武骨で、まるで岩壁のような佇まい。
「……剛盾バルド様」
その名を、誰かがそっと囁いた。
私は思わず息を呑んだ。
あの戦場で、巨大な盾を自在に操り、竜の炎に焼かれながら私たちを守ってくれた人。
王国最強と謳われる騎士。
そして――いつか、姉が“嫁入り”するかもしれない人。
小山のような巨躯を見上げながら、私は小さく会釈した。
バルドは何も言わなかったけど、ほんの一瞬だけ向けられた彼の目配せは――
意外なほど柔らかく、温もりを帯びていた。
――うん。この人も、きっといい人だ。胸の奥で、静かにそう確信した。
二人が去っていく後ろ姿を見送りながら、私はその背中を目に焼きつける。
その背は、歴史を背負う者の風格と、人々を守る者の覚悟を宿していた。
ふと視線を遠くに向けると――姉アリシアは、人垣の中心にいた。
煌めく礼装を纏った貴族や騎士に囲まれ、勇者エリアスと並んで談笑している。
「……」
笑みを浮かべる姉の頬は、うっすらと赤く染まっていた。
その瞬間、孤児院の丘でトリスタンと語らう姉の姿が脳裏をよぎる。
あのときの柔らかな微笑みと夜風の匂いが、一瞬、胸によみがえった。
けれど――目の前の華やかな光景が、それをあっさりと上書きしていく。
何かを語り合う姉とエリアスの横顔――それは、私の知らない遠い世界の一幕のようだった。
(……姉さん……)
胸が、きゅうっと締めつけられる。
その痛みは、胸の奥を細い糸で引かれるようにじわじわと広がっていった。
そんな私の耳に、聞き慣れたあたたかな声が届いた。
「……あなたたちは二人で一つ」
振り返れば、そこにはマルグリット司祭がいた。
皺の刻まれた目が、優しくも厳かに私を見つめている。
「共に支え合うのですよ。セレナ」
その言葉は、まるで小さな鐘の音のように胸の奥で静かに鳴った。
私は小さく頷き、その音を胸の底に沈めた。
けれど――煌びやかな灯りの中、姉の姿はやっぱり遠くに感じられて仕方がなかった。
***
マルグリット司祭は「ちょっと待っててね」と言い残すと、裾を翻して人混みの向こうへ消えていった。
気づけば私は、笑い声と音楽が渦巻く広間の真ん中で――ぽつんと一人きり。
やがて、勇者と聖女を囲む輪の中に、ひときわ鮮やかな深紅の礼装が差し込まれた。
「……シャルル王太子殿下」
誰かが息を呑む。
その瞬間、まるで風が止んだかのように、楽団の音がふっと途切れた。
ざわめいていた広間に、一瞬の静寂が訪れる。
すべての視線が一斉に紅の人物へと吸い寄せられた。
シャルルはその注目を当然のものとして受け止めるかのように、悠然と歩みを進める。
金のサークレットが燭火を反射してきらりと光り、空気がさらに張り詰めた。
「兄さん……!」
「殿下……」
エリアスが会釈を、姉は美しいカーテシーを捧げる。
シャルルの口の端がにやりと上がった――その刹那、三人の視線が交錯した。
シャルルの瞳が勇者と聖女を交互に射抜き、ほんの一瞬、エリアスとぶつかった視線が、場の空気をびりと震わせる。
それは兄弟のものではなく――“王太子と第二王子”の、無言の火花だった。
空気がひやりと冷えた気がした。
祝宴の熱気が、その一瞬だけ遠のいたように。
周囲の淑女や紳士たちが、口元を隠しながら囁き合う。
扇子の影に隠れた瞳が、姉とシャルル、そして勇者へと忙しなく揺れる。
まるで舞踏会のドレスを品定めするような視線。
杯を傾ける紳士たちの瞳には、敬意と同じくらい、冷ややかな計算が滲んでいた。
「あら、あの方がシャルル殿下……」
「勇者様の異母兄でいらっしゃる」
「でも……庶子のエリアス様が勇者となられたこと、快く思っておられないそうですわ」
「当然でしょう。国民の人気はすべて勇者様へ。
王太子のご威光にも、影が差すやもしれぬ――などと……」
小声のはずなのに、なぜか鋭く耳に突き刺さる。
――ふと、全ての音が消え、次の囁きだけが耳の奥に響いた。
「妃に聖女様をという話もありますしね。侯爵家の令嬢なら、申し分のない縁談ですわ」
「ええ、素敵ですわ……。聖女様が王妃に……まるで叙事詩の一篇のようですわね」
その瞬間、頭を殴られたような衝撃が走った。
世界の色が、ほんの一瞬、すっと褪せていく。
(姉さんが……!? そんなふうに……!)
銀の髪を揺らし、穏やかに笑みを浮かべる姉。
けれど、周囲の視線に映っているのは、もう“ただの少女”ではない。
勇者の隣に立つ“聖女”であり、“侯爵令嬢”。
姉はもう、これまで以上に“駒”として見定められる存在なのだ。
(姉さん……そんなの……!)
ふと、一瞬だけ姉がこちらを振り向いてくれた気がした――
けれどすぐに、人垣の向こうへと飲み込まれていく。
……あの日、孤児院の石壁を背に一緒に笑っていた姉。
寄宿舎のキャンドルに照らされながら、語り合った姉。
私に「ずっと一緒」と言ってくれた姉。
(もうあの頃には戻れないの……?)
そんな言葉が脳裏を過り、目尻が熱を帯びる。
込み上げる涙を、必死に飲み込んだ。
(姉さん、私――痛いよ、苦しいよ……)
姉は変わらない。そう信じたい。
けれど、実際に目にする光景は、耳にする現実は、それを拒否しているようで――
狭間に揺れる――不安。
胸の奥に刺さった棘は、小さくとも抜けることなく、静かに疼き続けていた。




