第二十九話 祝福
王都の中央――尖塔が天を突く大聖堂の巨大な扉をくぐった瞬間、私は思わず足を止めた。
七色の光がステンドグラスから降り注ぎ、床と壁を淡く染め上げる。
静謐な空気が肌を撫で、音がふっと遠のいた。
さっきまでの喧騒が嘘のように――世界が、ひと息に塗り替えられた気がした。
その神々しさに胸を圧されたまま、一歩、また一歩と歩を進める。
視線の先――祭壇へと続く中央の道には、式典の始まりを待つ人々の期待が満ちていた。
この日、聖堂の扉は大きく開かれ、国王と王妃、王太子シャルルをはじめとする王族が荘厳に並び立つ。
勲章で飾られた礼装の騎士たち、煌びやかな衣をまとった貴族たちも一堂に会し、聖堂は息を呑むほどの威容と格式に包まれていた。
私は控えめなドレスに身を包み、質素な白衣を纏ったマルグリット司祭とともに、聖堂の端の参列席に腰を下ろす。
きらびやかな衣擦れの音と濃密な香水の香りが周囲を満たし、まるで自分だけが異物になったようで――息が詰まりそうだった。
参列者の中には、かつて共に戦ったロベールやバルドなど、見知った顔もあった。
けれど、私から話しかけることなどできはしない。
「セレナ」
司祭が横で小さく囁き、私の頭をくしゃりと撫でた。
皺だらけのその手は、子供の頃と変わらず、驚くほど温かい。
「二人とも、立派になったね」
「……司祭様こそ、お越しいただきありがとうございます」
実のところ、それほど久しぶりというわけではない。
魔族の王都襲撃の夜――治療院を後にした姉と私は、疲れも忘れて夜道を孤児院へと駆けた。
王都西方の丘にある孤児院は無事で、むしろ心配そうな顔で出迎えてくれた司祭は、煤けて疲れ切った私たち姉妹の頭を撫で、何も言わずにそっと抱きしめてくれた。
その晩、子供の頃、遊び疲れたときのように、二段ベッドで泥のように眠った夜のことは、今でも忘れられない。
司祭の言葉は、まるで亡き両親の声のように、いつも私に安心をくれる。
胸に暖かいものが広がり、強張っていた肩の力がふっと抜けた。
やがて、荘厳な鐘の音が鳴り響く。
奥の扉が静かに開かれ――二人の姿が現れた瞬間、場内に大きなどよめきが走った。
純白の衣装に身を包んだ聖女――姉アリシア。
その隣を歩むのは、白銀の紋章を胸に掲げた若き勇者――エリアス。
二人は大理石の階段を上り、祭壇の前に跪く。
やがて、数年ぶりに人々の前に姿を現した大司祭が歩み出ると、堂内の空気がぴんと張りつめる。
聖典が開かれた瞬間、誰もが息を呑み、色とりどりの光の中で厳かな声が響き渡った。
「光の勇者エリアス・ヴァロワ、そして光の聖女アリシア・ルクレール――」
朗々とした祝詞が、天井の高い聖堂に反響する。
その声に呼応するように、色ガラスを透かした光が二人の上に降り注いでいた。
それはまるで、天から舞い降りる祝福そのものだった。
私は息を呑んだ。
祈りを捧げる姉の姿は、あまりにも荘厳にして静謐――
そこにあるのは、誰もが感じているように、この国すべてにとっての“聖女”の姿。
そう思った瞬間、姉がまるで”知らない誰か”に変わってしまったように感じられて――。
(……姉さん……)
いつも隣で私に笑いかけてくれた姉。
ただ隣にいてくれるだけで心安らかになれた姉。
そして今、目の前にいる“私の知らない姉”――。
誇らしい。でも、やっぱり寂しい。
胸の奥で、相反する感情が渦を巻いていた。
姉の隣で、勇者エリアスが目を閉じ、大司祭の祝詞に合わせて静かに祈りを捧げている。
その横顔には、戦場で見たときと同じ――迷いのない光が宿っていた。
困難に立ち向かう勇気、剣を掲げ仲間を鼓舞する姿、そして魔を打ち払うあの一撃。
あの時、私だけでなく、誰もが彼を“勇者”と呼ぶことを疑わなかった。
その横顔から、不思議な縁と、何かを成し遂げようとする強い意志が伝わってきて――私は思わず姿勢を正した。
大司祭は厳かに声を響かせた。
「――神託により祝福を授け、勇者と聖女の顕現を、宣言します」
大聖堂に幾重にもその声が反響し、誰もが深く首を垂れる。
注ぐ七色の光の中、二人は静かに並んで跪いていた。
白と銀――光を纏ったその背中は、まるで物語の挿絵のように美しく、完璧だった。
私は後方の席から、その光景をただ見つめていた。
――もう、誰もがこの二人を“勇者と聖女”と呼ぶだろう。
姉はもう、私だけの姉じゃない。
今この瞬間、勇者と並び――人々の希望になった。
そんな当たり前のことが、ほんの少しだけ胸を締めつけた。
大聖堂のあちこちから、抑えきれない歓声と拍手が湧き上がった。
年老いた貴族が感極まってハンカチで目頭を押さえ、若い騎士たちは誇らしげに胸を張り、神官たちは声を揃えて祈りを捧げている。
まるでこの国そのものが、ふたつの”希望”の誕生を心から祝っているかのようだった。
けれど、その熱気と喧噪のただ中で――私はひとり、静かに息を呑んでいた。
胸に押し寄せてくるのは、歓喜でも興奮でもなく、言葉にしがたい“距離”の感覚。
姉は今、あのまばゆい光と、無数の視線と、国中の祈りの中心にいる。
その事実が、どうしようもなく、私を”透明”にしていた。
思わず、司祭の白衣の裾をぎゅっと握りしめ、視線を落とす。
そっと、司祭の乾いた手が重なる。
胸の奥がじわりと熱を帯び、零れそうな涙を堪えながら再び前を向いた。
この日――聖女と勇者が、人々の前に並び立った。
七色の光が二人を包み、誰もがその姿に未来を重ねていた。
そう、それは、この国に新たな“希望”の幕が上がる瞬間。
あるいは――これこそが、新たな“伝説”の始まり、とも呼ぶべき光景だった。
***
儀式のあと、王宮に隣接する広間では盛大な祝宴が始まっていた。
煌びやかなシャンデリアの下、金の器に盛られた料理がずらりと並び、甘い香りが空気を満たしている。
実は、国王やシャルル王太子の祝辞から始まった祝宴の途中までのことを、私はほとんど何も覚えていない。
人の波に飲まれ、眩い灯りに目が眩んで――ただ立っているだけで精一杯だったから。
シャルル殿下が「――我らは民と共にある……」とか何とかって熱弁をふるってた気がする――
その程度。
はっきりと覚えているのは――皿に取り分けられたローストビーフの、とろけるような味わい。
そして、初めて口にしたテリーヌが、ふわりと舌の上でほどけた感触だった。
孤児院やアカデミーの食卓では想像もできなかった世界。華やかな宮廷の欠片。
ルクレール侯爵領にいた頃でさえ、これほどの料理を味わった記憶はない。
けれど、あの夜の“出会い”と“出来事”だけは、今も胸の奥に鮮烈に刻まれ――
決して色あせることはなかった。




