第二十六話 運命の日
そして――運命の日は、唐突に訪れた。
魔王軍の襲来から約一か月。
外壁の修復は進み、市井にも学舎にも、ようやく平常が戻りつつあった。
そんな中――姉アリシアの十六歳の誕生日を、二人きりで静かに祝った。
寄宿舎の小さな一室に、今日だけはいい香りのするキャンドルを灯す。
窓の外では夜風が木々を揺らし、遠くで鐘の音が小さく響いていた。
テーブルの上には、今の王都で買えるせいいっぱいの簡素な焼き菓子と湯気の立つハーブティー。
華やかな宴こそないけれど――姉と二人きりで過ごすこの夜は、私にとって何よりも特別だった。
「おめでとう、姉さん。十六歳……だね」
その年齢を口にした途端、言葉がふと喉に詰まった。
「ありがとう、セレナ」
けれど、姉はいつものように微笑んで、ハーブティーのカップをそっと掲げた。
その横顔は、キャンドルの灯に照らされて、どこか昨日よりも大人びて見えた。
キャンドルの香りが漂う中、私は、膝の上で用意していた小箱をぎゅっと握りしめる。
「……あのね、姉さん。お誕生日、おめでとう!」
私は小箱を、両手で掲げるようにして姉に差し出した。
なんだか少し照れくさくて、思わず俯いてしまう。
恐る恐る目を上げると、姉のきょとんとした顔。
けれど、姉はすぐに笑顔で私の手から小箱を受け取ってくれた。
蓋を開けると、中には透き通る青い空のような石のペンダントがきらり。
姉は一瞬、息を呑んで目を見開いた。
「これ……」
「うん。この青い石、姉さんにもきっと似合うと思ってたの」
以前、姉と街へ出かけたときに目に留まった――あの耳飾りと同じ青。
姉が「セレナにはこの青が似合う」と言ってくれたことを、私はずっと覚えていた。
少し無理はしたけれど、私だってFランク冒険者。それなりに蓄えはある。
姉さん、喜んでくれるかな……。
姉はしばらく言葉を失って、それから――ふっと息を震わせ、ふわりと柔らかな笑みを浮かべた。
青い石を手に取る指先が、ほんの少しだけ震えている。
「……セレナ……これ、すごく……うれしい……」
声はかすかに震えて、目尻にはうっすらと涙の光。
姉はペンダントを大切そうに胸に当ててから、細い鎖を首にかけ、留め具をそっと閉じた。
胸元で青い石が揺れ、キャンドルの灯を受けてほのかに輝く。
「……どう?」
「すごく……すごく似合ってる」
思わず笑顔が零れた。
揺れるキャンドルが陰影を作る中、胸元の青い石が淡く光を返し、姉は大人びて息を呑むほどきれいだった。
けれどその一瞬、姉が遠くに行ってしまう気がして、胸の奥がきゅっと鳴った。
「一生、大切にするね。本当に……ありがとう、セレナ」
姉はそう言うと、私をそっと抱き締めた。
私の頬に、姉の胸元のペンダントがひやりと触れる。
冷たい石の感触と、姉のぬくもりが一緒になって、今度は胸の奥がじんわりと熱くなる。
私はなぜか涙ぐんでしまい、鼻をすする。
そんな私に気付いたのか――
「セレナ、大丈夫。わたしたちはずっと一緒よ」
いつもは私をやさしく包んでくれるその言葉が、なぜか今日はひどく胸に染みた。
「うん」
姉の温もりを感じながら、私は小さく頷いた。
*
それから間もなくのことだった。
その日の朝は薬草学の座学だった。
机の上に並べられた乾いた葉や根をノートに写していると、突如として鐘が鳴り響いた。
「――全生徒は大広間へ! 急ぎなさい!」
教師の切羽詰まった声に、教室がざわめきに包まれる。
何事かと互いに顔を見合わせていると、続いた言葉に息を呑んだ。
――カステルモン公爵様が来校する。
しかも、その同行者は大司祭猊下。
普段は大聖堂の奥院に身を鎮め、王族ですら祝祭の折にしか拝することのない存在。
「大司祭猊下……!」
「……本当に?」
学舎は瞬く間に蜂の巣をつついたような騒ぎになった。
教師たちは走り回り、「身なりを整えよ」と何度も叫ぶ。
「なんで公爵様と大司祭猊下がアカデミーに?」
何人かの生徒は姉にちらちらと視線を送る。
ざわめく声の中、私はずっと無言だった。
胸が早鐘のように打ち、思わず机の端を握りしめる。
脳裏に黄昏の下、姉と並び立ち、大盾を砦のように構える騎士の姿が浮かぶ。
(……カステルモン公爵――あの“剛盾”バルド様の御父上……。
まさか、姉が十六になったから……? やっぱり、あの”嫁入り”の話……?
でも、なんで大司祭猊下まで?)
頭が混乱して、思考がまとまらない。
私は、思わず姉の横顔を盗み見た――心臓をぎゅっと掴まれるような思いで。
姉の表情は静かだった。
けれど、薄紫の瞳の奥にはかすかな揺らぎがある。
その一瞬を見てしまった途端、もっと胸が締めつけられた。
「姉さん……!」
小声で呼びかけると、姉はそっとこちらを振り向き、いつものやさしい微笑を浮かべた。
「……セレナ、大丈夫。
言ったでしょ? 姉さんは、何があってもあなたと一緒だから」
けれど――その声の奥に、わずかな不安を隠しきれていないことを、私は気づいてしまった。
その不安は、私の胸の奥へ冷たく染み込んでいく。
トリスタン様を失ってから、姉はずっと誰にも心を許していない。
そんな姉が、政治の道具のように連れ去られてしまうのでは――
そう思うと、胸の奥がざわつき、息をするのさえ苦しかった。
*
学舎の大広間。
生徒たちは整然と並びながらも、ひそひそと言葉を交わす。
「公爵様ってどんな人だろう?」
「それより、大司祭猊下に拝謁できるなんて……」
「……やっぱり聖女様の件かな……?」
視線は自然と姉へ集まっていく。
隣の姉は、まっすぐ前だけを見つめていたが、私は落ちつかずにきょろきょろと視線を泳がせてしまう。
やがて、扉が重々しく開き、学長とカステルモン公爵が現れた。
靴音が響き、二人はそのまま扉の脇に控え、次に入室する人物に向けて恭しく頭を下げる。
大司祭猊下――齢九十とも百とも言われる、生ける伝説。
純白の法衣を揺らしながら静かに扉をくぐったその姿を目にした瞬間――私は、思わず息を呑んだ。




