第二十五話 束の間の日常
魔王軍は――確かに退いた。
……けれど――。
「もう……無理……」
やがて、全身の力が完全に抜け、私は石畳の上に崩れ落ちた。
寝転がったまま掌に光を灯す。
小さな光がぽうっと揺れ、すぐに消えた。
もう、一歩も動きたくない。
仰向けになった私の視界に広がるのは、血と煙が広がる戦場と、黄昏に染まる空。
――その時。
視界の端、白煙の向こうから、ひとすじの影が現れる。
黄金色に透ける銀葉の髪。背に負った長弓。
荒れ果てた戦場の中で、彼女だけが――まるで時の流れから切り離されたように立っていた。
アーモンド形の瞳が私を見下ろす。長い耳が、ぴくりと動いた。
「……見つけた」
まるで風に溶けるような、小さな声だった。
ふと彼女は私に手を差し伸べる。
戸惑いながらもその手を取ると、細くもしなやかな力が、私を引き上げてくれる。
その仕草は、戦場の喧騒とはまるで無縁の――静謐そのものだった。
「君、名前は?」
かすれた声が、戦場の余韻の中に溶けていく。
(……名前を、尋ねられた?)
胸の奥で反響するその問いに、私は小さく息を呑み――名を名乗った。
「……セレナ。セレナ・ルクレール」
「――私は、フィーネ・リスティアーナだ」
彼女がその名を告げた瞬間、胸の奥に何かが震えた。
続きを問おうと口を開きかけた、その時。
「セレナ! セレナ!」
振り返る間もなく、温かな腕に包まれた。
必死に私を抱きしめる煤けた手。
「無事で……よかった……!」
私はふいに溢れた涙に濡れながら、必死で姉を抱き返した。
けれど――探すように視線を巡らせても、もうフィーネの姿はなかった。
残されたのは、姉の鼓動と私の嗚咽。
そして、戦いを終えた戦場を包む歓声とざわめきだけ――。
空はゆっくりと暮れゆき、あたりは黄金から茜に染まり始めていた。
あの空の下で、姉の腕の中で感じた温もりだけは――きっと、一生忘れない。
*
――一週間後。
瓦礫も片付けられぬままの王都に、いつもの朝が戻ってきた。
アカデミーの授業も、再び始まっていた。
戦いの直後からつい先日まで、私たちは治療院に通い詰めていた。
次々と運び込まれる兵士や騎士、民間の負傷者たちは、寝台に収まり切れず、床にまであふれていた。
治癒の技を持つ者は、何人いても足りなかった。
医師や神官は忙しく走り回り、修道女たちは寝台を巡って祈りと手当てを続け、白ローブの冒険者たちも治療に加わっていた。
その中心に――いつも姉がいた。
落ち着いた声で医師とやり取りしながら、次々と傷を癒やし、時に患者の手を取って励ます。
疲れが見えるはずなのに、姉の横顔には不思議な静けさと光があった。
そして何より、姉は多くの命を救った。
姉の手から光が広がり、瀕死だった兵士の出血が収まり、呻いていた子供が安らかな寝息を立てるたび、周囲の空気が変わるのがわかった。
患者も神官も、そして家族たちも――姉の紡ぐ奇跡に驚き、口々に涙を流して感謝を述べた。
そして皆、姉を“聖女”と称えた。
治療院には、あの時、私たちを天幕へと先導してくれた騎士の姿もあった。
私の小さな灯りで治療を終えると、彼は私の手をぎゅっと握りしめ、涙ぐみながら言った。
「君たちがついて来てくれたこと……心から感謝する。きっと神のお導きだ」
胸がいっぱいになった。
私も、姉の足元にも及ばないけれど、少しぐらいは役に立てたのだと思う。
それと――北の大通りで、姉が救ったあの子。
姉は、再会した母子の前にしゃがみ込み、目を合わせて優しく微笑んでいた。
医師によれば、この子も一週間ほどで退院できるらしい。
母親は姉の手を握り、ようやく感謝を伝えられると喜んでいた。
私たちは、小さく手を振る子供と母親に見送られ、並んで治療院を後にした。
私がそっと手をつなぐと、姉はふと笑って言った。
「セレナ、少しは休みなさい。顔に”疲れ”って書いてあるわよ」
私は微笑む姉の顔を見返して、思わず目を見開く。
「え……。姉さんこそ」
二人で顔を見合わせて、ほんの少しだけ笑った。
王都の石畳には焦げ跡が残り、城門は崩れたまま、石壁には爪痕が刻まれている。
傷跡はそのままに――それでも日常は、確かに始まっていた。
市場の屋台は並んでいる。けれど、香ばしい匂いも笑い声も薄い。
王都は、確かに生きているのに――どこか沈んでいた。
「まさか、城門を破られるなんて……」
「王宮は何をしていたんだ」
「このままじゃ、国は……」
行き交う市民たちの声は、不安と苛立ちに満ちていた。
けれど、どういうわけか、アカデミーの生徒たちの間の噂は希望に満ちていた。
どうやら、子供たちの方が大人よりも逞しいようだ。
「戦場に聖女が現れたらしい!」
「四人の英雄が敵将を倒したそうだ」
「勇者の軍団が結成されるって!」
「いよいよ反撃か!?」
誰もが噂しながら、窓際に座る姉をちらちらと盗み見る。
本人に聞こえるほどに――けれど誰一人、直接姉には口にしない。
(聖女、四人の英雄、それに勇者の軍団――)
その言葉を聞くたびに、胸の奥がちくりと痛んだ。
きっと、私は――。
「なあ、聞いてくれよ。僕が避難民を守りながら南の教会へ誘導したんだ。
しかも、学長直々に温存されたんだ」
耳に飛び込んだのは、授業中なのに学友に自慢話をするジュリアンの声だった。
聞けば、飛び出そうとするジュリアンたちは、学長に説得されたそうだ。
「これからを担う君たちだからこそ、生き延びねばならない」と。
まあ、ジュリアンのことだから、これで十分だったのだろう。
まったく……。
ちょっとだけだけど、心配して損した。
そんなふうに思いながらも、胸の奥にふっと灯りがともり――
あんな奴でも、本当に無事でよかった、とも本気で思った。
けれど――。
「セレナ、ノート写す? 昨日の分、借りたの」
「……うん、ありがとう」
ペンを受け取りながらも、まだ耳の奥に、角笛や剣戟の音が残っている気がした。
あの黒い軍勢と血の匂いは確かに現実だったのに――今は窓の外で子供たちの笑い声が響いている。
(……誰も、あの戦場で私が何をしていたかなんて、知らないんだろうな)
胸の奥が少しだけ軽くなるのか、それとも苦しくなるのか――自分でもわからなかった。
教室の窓辺で、姉は変わらず姿勢よくノートを取っている。
私はその隣で、ペンを持つ手を少し震わせながらも、いつも通りに座っていた。
外の世界がどれほどざわつこうと――
私たちの間だけは、変わらない日常が流れていた。
陽の光が窓から差し込み、姉の銀の髪と私のノートを照らす。
ざわつく噂声も、黒板に走るチョークの音も遠くて。
……そこだけ、切り取られたように静かに感じられた。
――そう。これからも続いていく、ごく普通の日常の一幕。
……少なくとも、あの時は、そう信じたかったんだ。
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