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第二十四話 英雄と白魔導士

あの初めての戦場の記憶は、今でもはっきりと思い出せる。


亜人兵の群れを一撃で切り裂いた、エリアスの閃光の剣。

大地を揺るがす突撃を受け止める、バルドの揺るがぬ盾。

空を裂いて飛び、狙った急所を逃さないフィーネの矢。

絶え間なく広がる聖なるヴェールで仲間を包み込む、姉の祈りと魔法。


炎と光が渦を巻く中、その四人の姿は――

まるで英雄譚から抜け出してきたみたいで――今も胸に焼き付いている。


そのときの私は、ただ必死に走り回って、支援を繋ぐので精一杯だった。

少しでも、あのまぶしい人たちの役に立ちたくて。


――でも、その光の輪の中へ、自ら踏み出す勇気は……まだ、なかったんだ。



敵陣深くへの突撃。

息が焼けるように熱い。喉の奥が血の味でいっぱいになっている。

私は無我夢中で走り、詠唱し、爪をかいくぐって、また走った。

足が勝手に動いている。止まれば終わる――それだけが頭の中を支配していた。


気付けば――私たち五人は、敵陣の只中にいた。

ふと、息継ぎのように一瞬だけ周囲を見渡すが、もう味方の姿はない。


あるのは、黒々とした魔族の群れ。研ぎ澄まされた牙と爪、血に濡れた槍と斧。

敵意と悪意が渦を巻く、真っ黒な海のただ中に――私たちは取り残されている!?


……どうするの!?


そう思って縋るように姉を見上げる。

姉は小さく頷き、ただ一言。


「仲間を信じましょう」


そのとき――。

空気が、ひやりと凍りついた。


「……っ」


息を呑んだ瞬間、群れがざわりと割れた。

濃密な瘴気の中から、ぬっと――異様な巨影が姿を現す。


エリアスは地面に突き刺した剣に寄りかかるように、肩で息をしている。

私は『疲労回復』を何度も掛けたが、それでも追い付いていないように見えた。


しかし、絞り出された声は微塵も揺るがず、むしろ気力に満ちていた。


「――辿り着いたぞ。あれは鬼将オーガー・ジェネラル

 奴を倒せば――必ず勝てる!」


岩のような肩には黒鉄の肩鎧、全身を覆う筋肉は黒く脈打ち、背には骨で編んだ旗が突き立てられている。

その首には――真新しい生首が、ずらりと並んで吊り下げられていた。

鬼将は、指先で摘まんだ棒のようなものを、歯を立ててぐしゃりと噛み砕いた。

骨の軋むような音が、耳の奥でいやに鮮明に響く。


「……!」


鬼将は食いちぎった棒をぞんざいに投げ捨てた。

それは弧を描き、私の足元にどさりと落ちた。


私は白杖を胸に握りしめて、ゆっくりと視線を落とす。


膝で食いちぎられた――誰かの足。


「ひっ!」


飛び上がるように一歩下がった。

胃がせり上がるような感覚。喉の奥から何かが込み上げ、目尻に熱いものが滲む。

震える手で口元を押さえながら、私は目を上げた。


奴の顔がぐしゃりと歪んだ。牙を剥き――笑った。


「貴様! 許さん!!」


エリアスが低く短い叫びを上げて剣を天に掲げ、バルドは喉の奥で唸ると大盾を突き立てた。

フィーネは表情を変えぬまま音もなく弓を引き絞り、姉は一瞬、顔を背け――すぐに目を見開いて鬼将をまっすぐに見据える。


その視線が交わった瞬間――

鬼将の顔がぎしりと歪み、牙を剥き出して喉の奥から獣じみた唸りが漏れた。

次の刹那、腹の底をえぐるような咆哮が迸り、大地を叩き割るほどの衝撃音が戦場を貫いた。

空気は震え、鼓膜が軋み、戦場全体がその咆哮に呑み込まれた。


足ががくりと揺れた。

膝が勝手に震え、心臓の奥が握り潰されるように痛い。


怖い――逃げ出したい――でも、逃げられない。


鬼将は身の丈ほどもある巨大な戦斧を、棒切れでも振り回すかのように横薙ぎに振るった。

周囲にいた亜人兵の群れが鋭い悲鳴を上げ、まるで紙切れのように吹き飛び、砂塵と血飛沫が一気に舞い上がる。

一瞬で、戦場の音が塗り替えられた。


「……っ!」


恐怖で足が竦み、目が眩む。

ぼやける視界の中で姉が振り向いた。


「セレナ、大丈夫よ!」


その声が戦場に澄んで響く。


『――聖なる結界よ!』


姉の紡いだ暖かなヴェールに包まれ、足の震えがぴたりと止まる。

姉の結界に呼応するように、皆同時に動いた。


私は四人の後ろを走り回りながら、とうに枯れた声を振り絞って続けざまに詠唱した。


『攻撃上昇』『防御上昇』『魔力上昇』――!


隙を見て鬼将にもデバフを付与。


『攻撃低下』『防御低下』『鈍足』――!


そして――。


バルドの大盾が鬼将の突撃を受け止めれば、エリアスの剣閃が黒鉄のような皮膚を切り裂き、

姉の聖なる結界が大斧の一撃を弾けば、フィーネの必殺の矢が筋肉の隙間を貫く。


四人の英雄の怒涛の連撃が嵐のように鬼将を襲い、最後に空を舞ったエリアスの剣が頭頂から真っ直ぐに振り下ろされ――巨体が揺らぎ、ついには轟音とともに崩れ落ちた。


沈黙。


そして――。


耳をつんざくような銅鑼の轟音が響き渡り、魔族の軍勢は雪崩のように引き上げていった。

押し寄せていた黒い波が嘘のように遠ざかり、はるか後方から歓声が聞こえた。


「勝った……!」

「魔王軍が退いたぞ!」


騎士団と冒険者たち。

みんな生きてた――安心すると同時に、力が抜けて膝をついてしまう。


「勝った……の?」


歓喜を背中に浴びながらも、私は呆然と空を仰いでいた。

気付けば空は黄昏に染まり、なぜか――限定キッシュを食べ損ねたなどと馬鹿なことを思い出す。


けれど、私の視界の先には――。


太陽の光が雲間から焦げ跡の大地へと差し込むと、

黄昏の金が三人の姿を照らし出し、長い影が戦場に伸びた。


剣先を低く払う王子。砦のごとく盾を構える騎士。聖光を纏い、風に髪を揺らす姉。

三人は逆光の中、黄金の光を纏って並び立つ。

そこへ歩み寄るエルフの弓使い――刹那、その銀葉の髪が淡く輝いた。


荒れ果てた戦場に、ただ神々しさだけが満ち――

そこに神話の一篇を描いた絵画が浮かび上がったかのようだった。


その光景が、あまりにも眩しくて、胸がぎゅっと締め付けられる。

私はただ、地に膝をつき、その眩さを仰ぎ見るしかなかった。


勇者と騎士、聖女。そして弓使い。


――あの人たちは、本物の英雄だ。

そして私は――支援するぐらいしか取り柄のない、ただの白魔導士。


でも、それでいい。


――“ほんのちょっと”を重ねることこそが、私の役割なのだから。

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