第二十三話 覚醒
やがて――空からの攻撃が凪いだとき。
風の音が消え、戦場が一瞬だけ、異様な静寂に包まれる。
胸の奥が、ぞくりと震え――ひときわ巨大な影が、空を覆った。
あまりの大きさに、息を吸うことさえ忘れていた。
翼を広げれば楼門すら隠すほどの巨竜――
その眼光は血の色に濁り、見上げた瞬間、肺の奥の空気が凍りついた。
地鳴りのような咆哮とともに紅蓮の炎を吐き散らす。
灼熱の奔流が焼け残っていた天幕を一瞬にして押し潰し、人影がぼうと燃え上がった。
――この竜は、他の竜とは違う。
理屈ではなく、本能が告げる。“死”が目の前にいる、と。
勝利の希望から一転。騎士たちの絶望が地平を曇らせていく。
その絶望の縁で、ロベールが動いた。
地に転がった薔薇騎士団の軍旗を片手で掴み上げ、地面へ深々と突き立てる。
紅の薔薇が、炎と煙の中に鮮やかに咲いた。
「退かぬ! ここを基点とせよ! 輪盾――組め!」
叩きつけるような号令が、鐘の音みたいに戦場へ渡る。
「盾列、外輪! 槍、間隙から喉元! 弓兵は目を狙え! 魔導は翼根を貫け!」
「中央に聖女、支援職。全力で守れ!」
「バルド、壁を開くな! 殿下、私の合図で右へ斬り上がれ!」
(今、姉を”聖女”と……!)
荒れていた足並みが、命令のたびに噛み合っていく。
散り散りだった騎士たちが旗の下へ吸い寄せられ、姉と私の周りに幾重もの円陣が結ばれた。
震えていた槍先が、狙いを持った獣の牙に変わる。
まるで夢の中にいるようで――
自分も英雄譚の主人公になったように錯覚してしまいそうになる。
ロベールは剣を高く掲げ、短く吼える。
「背に王都あり! 膝をつくな、胸を張れ――まだ終わってはおらん!」
張り詰めた空気に、熱が戻る。
崩れかけていた陣の継ぎ目に、戦意が噛み込んだ。
その一瞬――彼の作った“拠り所”が、次に来る光を受け止める器になった。
視界が赤黒い光に染まった。
「ぐっ……!」
バルドが大盾を突き立て、業火に包まれながら耐える。
吹き飛びそうになる騎士たち。
『火耐性上昇』『疲労回復』小さく呟きながら、次々と魔法陣を付与する。
「輪盾に穴を開けてはならぬ! 耐えろ!」
ロベールの叫びが耳を裂く。
バルドの盾は赤熱し、髪が熱波にちりちりと焦げ、熱風に晒された皮膚が裂けそうだった。
私は喉を焼かれながらも悲鳴をこらえる。
『――聖なる結界よ!』
姉は中央で両手を十字に掲げ、光のヴェールで円陣を組んだ騎士団を包む。
竜炎に砕かれても、何度も、何度でも。
私は震える指を無理やり動かし、バルドと重騎士たちの足元に魔法陣を五つ重ねる。
石畳に魔法陣が次々と花のように咲く。
『火耐性上昇』×3
『疲労回復』×2
「ぐぅ!」騎士たちの盾が立ち上がる。
そして姉には――
『魔力上昇』×3
『魔力消費低減』
『疲労回復』
姉の足元にも光の紋が連なり、結界の輝きが一段と増した。
私に出来ることはこのぐらいだ。
「お願い! 耐えて!」
祈るように叫んだ。
(きっと、私の支援も役に立ってるはず!)
炎と光と衝撃がぶつかり合い、世界が白く塗り潰される――。
「遅れて済まない!」
次の瞬間、澄んだ声が戦場を貫いた。
城壁から駆け下りる長耳の影――冒険者らしきエルフの女性。
彼女の弓から放たれた矢が閃光となり、巨竜の片目を正確に穿つ。
狂乱の咆哮に翼が乱れた刹那、ロベールの合図で右手から宙を舞ったエリアスの剣が羽を裂いた。
だが、それでもまだ墜ちない。
地を砕く巨体は、なお空を支配していた。
竜は遥か上空まで羽ばたき、炎と共にまき散らされた怒りの咆哮が身体の芯まで震えさせた。
「来るぞ!!」
騎士たちが低く身構えると、竜は巨大な質量による衝撃波と共に急降下を開始した。
空が、落ちた。
そのとき。
『――聖なる大弓よ!』
姉の静謐な詠唱に、私はぴくりと震えながら姉を見上げた。
私でさえも見たことのない魔法。
そのときの姉は、いつもの優しい姉の姿とは違った。
まるで……本当に、光の女神さまみたいで――。
姉の両手が静かに光を掬い、胸の前で――
弦もない空を、ゆっくりと、力強く引き絞る。
眩いばかりの光が震えながら形を取り、
やがて身の丈を超える輝ける大弓となった。
弦が鳴り、光の矢が放たれた。
矢は空を裂き、曇天を貫いて一直線に巨竜の胸元へ――
轟く閃光が爆ぜ、巨体が仰け反る。
次の瞬間、“死”は炎とともに墜ちた。
地鳴りと爆風が戦場を震わせ、巻き上がる土煙の中で、虚空を裂くただ一筋の光だけが残った。
大地が震え、背後に炎と土煙が渦を巻く中――
姉はただ静かに立っていた。
聖なる残光が衣の裾を照らし、銀の髪を後光のように揺らす。
揺らぐことなく前を見据えるその姿は、まるで戦場に降りた女神の化身――。
誰もが確信した。
――彼女こそが“聖女”だと。
エリアスは剣先をわずかに下げ、喉の奥で言葉を失う。
燃えさしの風に銀のサークレットがかすかに鳴り、その瞳に戦意とは別の光がふっと灯った。
「彼女が……」
大地を打つ衝撃の余韻の中、ただ沈黙が支配した。
バルドは焦げて煙を上げる大盾を立て直し、巨躯をわずかに傾けて刮目する。
長く無言を貫いた男の口から、低く短い息だけが漏れた。
――「……見事だ」と。
***
「報告します! 敵の地上軍、来ました!」
瓦礫と土煙の向こう――地平が黒々と蠢いていた。
翻る黒旗が空を覆い、幾千もの槍が森のようにそびえ立つ。
太鼓の轟音が連打され、大地の鼓動を飲み込むように響き渡った。
甲殻めいた鎧を軋ませ牙を剥く亜人兵、鎖を引きずる獣の咆哮、人の背丈の数倍の巨躯の影――
砂塵の海を押し流すような黒の奔流が、地平の果てまで埋め尽くし、尽きる気配がない。
数ではなく「塊」。意思を持つ闇そのものが押し寄せてくるようだった。
再び絶望が、私の心を真っ黒に塗りつぶそうとしていた。
しかし――
崩れた城門跡から鬨の声が湧き上がった。
雑然――だが、頼もしい姿。
ギルド旗を掲げる者、粗削りの大剣を担ぐ者、杖を掲げ魔法陣を組む者。
革鎧、鎖帷子、黒と白のローブ、寄せ集めの装備が光を散らし――
冒険者たちも――来てくれた!
「勝てる……! この戦、勝てるぞ!」
誰かが叫ぶ。
焦げた風の中で、エリアス王子は聖なる残光に包まれた姉アリシアを顧みる。
燐光の粒がふわりと舞い、微笑む姉の横顔を縁取った。
一瞬、時が澄む。
ロベールが軍旗の下で頷き、バルドが大盾を鳴らして応える。
三者の視線が交わる。合図は、それだけで十分だった。
次の瞬間――
風に翻る青の外套。黄金の光を浴びて輝く銀のサークレット。
その剣を天へ突き上げ、第二王子エリアスは凛然と声を張り上げた。
「皆の者、行くぞ!」
燃え残る炎と聖なる光が交錯し、
掲げられた剣先が朝星のように瞬く。
その横顔は、まるで天命を負う者の光を帯び――
私の目には、物語に描かれる“勇者”そのものに映った。
「おおおおお――ッ!」
エリアスの声は雷鳴のように胸を打ち、
盾を鳴らす音、剣を掲げる煌めき、槍の穂先が一斉に前を向く。
冒険者の雄叫びが重なり、詠唱の調べが追い風となって――
北門から怒涛の突撃が始まる。
旗が一斉に風を掴んだ。
私の胸は熱く震えた。
――姉が、”聖女”が皆を導いた。
「セレナ、私の後ろに!」
振り向いた姉は、頬は煤で汚れていても、いつもと変わらぬ優しい微笑みを湛えていた。
あの二人だけの冒険の時と同じように。
懐かしさと安堵に、目尻から熱いものが頬を伝う。
姉は変わってなどいない。
(――大丈夫! 姉さんはやっぱり、私の姉さんだ!)
私は強く頷き、涙を振り払って石畳を蹴った。
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